目覚めは眩しい光と喧騒の中で㈡
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
(なっ……! 何これ、美味しい! 甘くて、しょっぱくて、温かくて……味覚というものが、これほどまでに脳を激しく刺激するなんて!)
天使養成校で学んだ「美」の概念とは全く異なる、野蛮でありながらも抗いがたい魅力を持つ「食」の快楽。エバは瞬く間に出された料理を平らげ、もっと食べたいという自身の強烈な欲求に恐怖すら覚えた。
そして、それに伴う排泄と清潔の維持。汗をかき、皮脂が分泌され、放っておけば体が汚れていくという事実は、無菌状態で過ごしてきた彼女にとって耐え難い苦痛だった。看護師の介護による洗顔、洗髪、体を洗うという毎日のルーティンは面倒極まりなく、そのたびに「人間とはなんて不便で泥臭い生き物なのだ」と天を仰いだ。
しかし、彼女を最も悩ませたのは、物理的な環境の変化ではなく、押し寄せる「人間関係」という名の奔流であった。
特別個室の重厚なドアが乱暴にノックされ、ずかずかと足音が踏み込んでくる。
「新子! おお、新子! よくぞ、よくぞ無事でいてくれた!」
病室に響き渡る大声とともに現れたのは、菱倉商事の絶対的権力者であり、新子の祖父である剛蔵だった。立派な白髭を蓄え、高級な仕立てのスーツを着こなした威風堂々とした体躯を持つ老人は、エバが憑依した新子の手を力強く握りしめ、ボロボロと大粒の涙を流していた。
「お父様、血圧が上がりますよ。……新子、本当に良かった。神様仏様に感謝しなければ」
その後ろから、社長であり新子の父である慶太と、上品な着物姿の母・朋美がハンカチで目頭を押さえながら現れた。さらにその後ろには、パリッとしたスーツを着こなした優秀そうな青年、兄の剛志が、安堵の表情を浮かべて立っている。
「お前が死んでしまったら、おじいちゃんは生きていけないところだったぞ! 一体誰が、我が菱倉の宝であるお前をあんな目に遭わせたのだ! 犯人は必ず見つけ出し、地の果てまで追い詰めて菱倉の力で報いを受けさせてやる!」
剛蔵の怒号が病室を震わせる。その圧倒的な熱量と、自分に向けられる無条件の「愛情」や「心配」といった激しい感情の嵐に、エバは大きな戸惑いを覚えていた。
天使養成校では、宇宙の調和を乱す最大の要因は不確かさであり、中でも個人的な感情に起因する「愛」は最も不確かで予測不可能な変数であると教えられてきた。「愛」は時に特定の魂を贔屓し、全体の調和を乱す原因となるため、公的な判断においては完全に排除されるべきものとされていたのだ。冥界では「個」は否定され、「感情」は排除されるべきバグであった。他者との関わりは業務上のやり取りのみであり、そこに利害関係を超えた情愛など存在しなかったのだ。
(な、何なのよ、この人たちは……。うるさいし、暑苦しいし、馴れ馴れしいし……)
エバは内心で悪態をつきながらも、彼らの眼差しに含まれる純粋な思いやりに、胸の奥がチクリと痛むのを感じていた。それは、これまで地獄のシステムの中で完全に麻痺させていた、彼女自身の人間らしい部分が共鳴している証拠だった。
「ご心配をおかけして、申し訳ありません……おじいさま、お父様、お母様、お兄様」
エバは、新子の肉体に残された記憶の残滓を頼りに、完璧な令嬢としての微笑みを作って見せた。その瞬間、彼女自身も驚くほど自然に、そして優雅な所作で言葉が紡がれた。それは、天使養成校で徹底的に叩き込まれた「完璧なる美の体現」と、人間界の「お嬢様」という役割が見事に融合した結果であった。
「おお……声が出るようになったのだな。無理はするな、ゆっくり休みなさい。大学のことは気にする必要はないからな」
慶太が優しく新子の頭を撫でる。その温かな手の感触に、エバは思わず身を固くした。特定の人間に対して親愛の情を向けられるという、制御不能な不可思議な状態。エバは、自分がすでに冥界のシステムから外れ、どうしようもなく「人間」という不確かな存在に引きずり込まれていることを痛感していた。
家族との会話の中で、エバは新子の記憶をさらに深く探り始めた。菱倉商事という巨大な財閥の重圧。完璧を求められる日々。そして、別邸に住む祖父の妾、小嶽雪美の息子である専務の勉。勉の妻は過去に謎の死を遂げており、一部では自殺ではないかと囁かれているという黒い噂。勉の息子である外商部の友貴哉や、同じ朱鳥女子大学に通う娘の香々美の存在。
(ドロドロとした人間関係ね。いかにも、欲にまみれた人間界らしいわ)
エバは心の中で冷ややかに分析した。金銭欲、権力欲、自己顕示欲、傲慢、嫉妬。それらは悪魔でさえ利用する、人間界に蔓延る普遍的な毒である。詐欺や窃盗、強盗、横領などの多くは金銭や経済的利益を得たいという欲求から生まれ、サイバー犯罪も現在は金銭目的が主流となっている。ストーカー行為やDVも相手を支配したいという欲求や力の誇示が背景にあるのだ。
家族が帰り、静寂が戻った病室で、エバは一人ベッドから起き上がり、備え付けの洗面台の鏡の前に立った。
そこに映っていたのは、エバ自身の姿ではない。艶やかな黒髪、透き通るような白い肌、そして少しだけ青白い顔色をした、菱倉新子という二十歳の令嬢の姿だった。
「これが……私?」
エバはそっと自分の頬に触れた。体温があり、血が通い、心臓が脈打っている。冥界の霊体とは異なる、生々しいまでの「生」の質量がそこにはあった。
ふと、彼女は大学の屋上で背中を押された、あの冷たい感触を思い出した。
(この体の子は、確実に誰かに殺されかけた。事故じゃないわ。明確な殺意があった)
エバの脳裏に、冥府で何万という亡者から服を剥ぎ取ってきた際に流れ込んできた、人間の持つ醜い欲望の数々が蘇る。
「面倒くさいことに巻き込まれたわね……」
エバは大きなため息をついた。しかし、その瞳の奥には、冥界の退屈な窓口業務では決して見せることのなかった、鋭い光が宿っていた。
彼女は奪衣婆である。六文銭を持たぬ亡者の衣服を剥ぎ取り、その罪の重さを量るプロフェッショナルだ。
彼女を突き落とした犯人が誰であろうと、その魂に染み付いた罪の臭いを誤魔化すことなどできはしない。
「まあいいわ。あのバカ閻魔の気まぐれに付き合わされるのはひどく腹が立つけど、しばらくはこの『人間界』という不確かで泥臭いアミューズメントパークを思う存分楽しんであげることにしましょうか。それに……」
エバは鏡の中の美しい令嬢に向かって、不敵な笑みを浮かべた。
「私を殺そうとしたふざけた輩には、天道から地獄道まで、ありとあらゆる苦しみをたっぷりと教えてあげないといけないものね」
かくして、冥界のエリート奪衣婆は、菱倉新子という完璧なお嬢様の皮を被り、人間界という予測不可能な混沌の中へと確かな一歩を踏み出したのである。テレビジョンやスマートフォンといった不可思議なアイテムに悪戦苦闘し、ひとりぼっちでいると「寂しい」と感じてしまう奇妙なバグに悩まされながらも、彼女の華麗なる、そして波乱に満ちた事件簿が、今まさに幕を開けようとしていた。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




