死神の来訪と告げられた帰還命令㈡
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
エバは油江からそっと身を離し、令嬢の皮を脱ぎ捨てて、冥界の執行官としての冷たい表情を取り戻した。胸の奥で暴走していた恋のバグが、絶対的な掟の前に急速に凍りついていくのを感じながら。
「ご用件は、すでにお察しでしょう」
死神はタブレットの画面をスワイプし、エバに向かって一礼した。
「菱倉剛蔵の罪の暴発、勉の逮捕、そして香々美と犬飼の無力化。……これをもって、菱倉の血脈に発生していた『特大の因果の歪み』は完全に浄化されました。あなたの現世での『研修』は、たった今、完了したのです」
死神の言葉が、死の宣告のようにティーサロンに響き渡った。
「よって、閻魔大王様より正式な『帰還命令』が下りました。元・奪衣婆殿。あなたはただちに菱倉新子の肉体を離れ、冥界の中枢へと帰還しなければなりません」
「……」
エバは唇を噛み締め、俯いた。
わかっていたことだ。事件が解決すれば、自分がこの世界に留まる理由はなくなる。
夕子とパンケーキを食べて笑い合うことも、真喜の大きな背中に守られることも、そして今こうして、油江の危険な誘惑に胸をときめかせることも。
すべては、かりそめの肉体がもたらした、一時の幻に過ぎなかったのだ。
「……猶予は、どれくらいありますの?」
エバが絞り出すように問うと、死神は無機質な笑みを深めた。
「人間の時間にして、あと四十八時間。……明後日の日没とともに、強制送還のプログラムが作動します。それまでに、現世での未練を断ち切っておいてください。……我々エリートに、感情という名のバグは不要ですからね」
死神の姿が、黒い霧となってスッと空間に溶け込んだ。
直後、停止していた時間が動き出し、蓄音機のクラシック音楽が再びサロンに流れ始める。窓の霜は消え去り、暖炉の温もりが戻ってきた。
「……エバ? 一体、何が起きたんだ。今、急激に室温が下がって……君は誰と話していた?」
何も見えていなかった油江が、鋭い観察眼で異常を察知し、エバの両肩を掴んだ。
エバは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳からは、先ほどまでの恋に揺れるような甘さは完全に消え去り、ただ深い絶望と、逃れられない運命への諦観だけが宿っていた。
「……教授。私、もうすぐ……この世界から、消えなければならないみたいですわ」
震える声で告げられたその言葉に、油江の眼鏡の奥の瞳孔が、かつてないほどに大きく見開かれた。
焦れったい距離感を保っていた平穏な日常は、死神の来訪によって無惨に引き裂かれた。
残された時間は、四十八時間。
愛おしき人間界との別れを突きつけられたエバの魂は、抗うことのできない「三途の川」のほとりへと、強制的に引き戻されようとしていたのである。
「……消える? それは比喩か、それとも物理的な消滅を意味しているのか」
アンティーク・ティーサロンの静寂の中、油江颯の声音はかつてないほど低く、そして微かに震えていた。
彼の手はエバの華奢な肩を強く掴み、その知的な瞳には、理解の及ばない超常的な事象に対する苛立ちと、自らの最も執着する存在を奪われることへの明確な「焦燥」が浮かび上がっていた。
「比喩ではありませんわ、教授。……文字通りの『消滅』です」
エバは、油江の手をそっと外し、悲しげに微笑んだ。
「私は本来、この人間界に存在してはならない魂。菱倉家の歪んだ因果を断ち切るために、閻魔大王様から一時的に派遣された『システムの一部』に過ぎません。……任務が完了した以上、私はこの肉体を離れ、感情のない冥界の歯車へと還らなければならない。それが、絶対の掟なのです」
「馬鹿な……」
油江はギリッと奥歯を噛み締めた。
犯罪心理学者として、人間の心の奥底を完全に解剖し、意のままに操ってきた若き天才。彼にとって、エバは最高の研究対象であり、同時に自らの孤独な深淵を共有できる唯一無二の「共犯者」だった。
「四十八時間だと? ふざけるな。私の許可なく、君という極上の存在を、地獄の役人ごときが事務的に回収していくなど……私が絶対に許さない」
「教授……」
「魂の定着に物理的な楔が必要なら、私がどんな非合法な手段を使ってでも用意する。オカルトだろうが何だろうが、君をこの世界に繋ぎ止めるための論理的アプローチを構築してやる。……君は、ここで私と共に、人間の心の闇を覗き続けると約束したはずだ!」
油江の狂気じみた執念。それは、彼なりの不器用で強烈な「愛の告白」であった。
エバは胸の奥が締め付けられるのを感じながら、静かに首を横に振った。
「ありがとう、教授。あなたがそこまで私に執着してくださったこと、本当に嬉しく思います。……でも、冥界の理は、人間の知恵でどうにかなるものではありませんわ」
エバは立ち上がり、テーブルの上に残されたダージリンティーを見つめた。
「……残された時間で、私はきちんとお別れをしなければなりません。このかりそめの生で、私に『人間としての温かさ』を教えてくれた人たちに」
帰還命令が下された翌日。
タイムリミットまで残り二十四時間を切った朱鳥女子大学のキャンパスで、エバは親友の夕子と中庭のベンチに座っていた。
夕子が買ってきた温かいミルクティーの紙コップを両手で包み込みながら、エバは彼女の弾むような恋話に耳を傾けていた。
「……それでね、今度の週末、彼と初めて映画に行くことになったの! 新子、私どんな服着ていけばいいかな!?」
「夕子は明るい色が似合うから、この前一緒に買ったクリーム色のニットなんてどうかしら」
「あ、それ採用! さすが新子、わかってるぅ!」
夕子は嬉しそうに笑い、ミルクティーをごくりと飲んだ。しかし、ふとエバの横顔を見た彼女は、小首を傾げた。
「……ねえ、新子。なんだか今日、すごく遠くを見ているみたいな顔してるよ?」
「え……?」
「気のせいかもしれないけど、なんだか遠い国に引っ越しちゃう人みたいな……。私、新子がいなくなったら、誰に恋の相談すればいいかわかんなくなっちゃうよ」
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