事件の爪痕と、焦れったい距離感㈢
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
大型犬のような人懐っこさと、決して揺るがない大樹のような安心感。
エバは膝の上で両手をきつく握りしめ、ただ「……ありがとうございます、真喜さん」とだけ返すのが精一杯だった。
(この温かい光の世界に、私が留まることは許されるのでしょうか。閻魔大王様……)
観覧車が頂点に達した時、エバは窓ガラスに映る自分自身の瞳を見つめながら、声なき問いを虚空へと投げかけていた。
真喜に最寄り駅まで送られ、エバは現在の住まいである高層マンションの一室へと帰宅した。
菱倉本邸が差し押さえられ、帰る場所を失った彼女のために、油江が裏のルートを使って手配してくれた、セキュリティ万全のペントハウスだ。
「はぁ……」
オートロックの扉を閉め、エバは玄関で小さく息を吐いた。
コートを脱ぎ、向かった先は広々としたバスルーム。蛇口を捻ると、すぐに温かいお湯がバスタブを満たし始める。親友の夕子から「リラックスできるよ!」とプレゼントされた、ラベンダーの香りの入浴剤を入れる。
衣服を脱ぎ、湯船にそっと身を沈める。
「……んんっ……」
体の芯までじんわりと染み渡る熱。張り詰めていた筋肉が解れ、血流が手足の先まで巡っていくこの感覚。
冥界の底で『奪衣婆』として生きていた頃、彼女が知っている「水」といえば、亡者たちが渡る三途の川の、骨の髄まで凍りつくような冷たい水流だけだった。
人間の肉体とは、なんて不便で、脆弱で……そして、なんて愛おしいのだろう。
毎日食事を摂らなければ動けなくなり、眠らなければ思考が鈍り、こうして入浴して清潔を保たなければならない。システムとして完成されていた冥界のエリート官僚時代からすれば、信じられないほどの「無駄」の塊だ。
しかし、温かいパンケーキの甘さや、お湯に包まれる心地よさ、そして真喜の大きな手の温もりは、そのすべての「無駄」を補って余りあるほどの、強烈な幸福感をエバの魂に刻み込んでいた。
(私はすっかり、人間という存在に毒されてしまいましたわね……)
エバはお湯の中で自らの細い腕を見つめ、ふふっ、と自嘲気味に笑った。
帰還命令が下り、この肉体を離れれば、この温もりも甘さも、すべて忘却の彼方へと消えてしまう。それが冥界の掟だ。
だからこそ、今のこの焦れったい距離感のまま、ただの一秒でも長く、彼らとの日常を引き延ばしたい。裁定者にあるまじき我が儘な感情が、エバの胸を締め付けていた。
翌日。
朱鳥女子大学のキャンパスは、冬晴れの澄んだ空気に包まれていた。
午後の講義が休講になったエバは、静かな図書館の奥にある窓際の席で、分厚い心理学の専門書をパラパラと捲っていた。
「熱心だね。私の講義の予習かな?」
ふいに、頭上から低く、ベルベットのように滑らかな大人の男の声が降ってきた。
エバが顔を上げると、そこには三つ揃えのスーツを完璧に着こなし、知的な眼鏡の奥で狩人のような目を光らせている油江颯が立っていた。
「油江教授。……奇遇ですわね」
「奇遇ではないよ。君の行動パターンをプロファイリングするのは、私の日課だからね」
油江は悪びれる様子もなくエバの向かいの席に座り、足を組んだ。周囲の女子大生たちが、若き天才教授の登場に色めき立ち、遠巻きにこちらをチラチラと見ているのがわかる。
「昨日は、随分と微笑ましい青春を謳歌していたようだね。遊園地でのデートはどうだったかな? あの愚直なゴールデンレトリバー君は、君の複雑な心のパズルを満たしてくれたかい?」
油江の言葉には、明らかな皮肉と、隠しきれない独占欲が混じっていた。エバのマンションのセキュリティを管理している彼にとって、彼女の行動を把握することなど造作もないことなのだ。
「ええ。とても温かくて、楽しい時間でしたわ。真喜さんの真っ直ぐな優しさは、冷え切った心にはよく効く特効薬ですから」
エバはあえて油江の挑発に乗り、余裕の微笑みを浮かべてみせた。
「……なるほど。犬の忠誠心には癒やされるだろうが、君のような深淵を抱えた存在には、少々刺激が足りないのではないかな?」
油江が机越しに身を乗り出し、顔を近づけてきた。彼の纏う、冷たいブラックコーヒーと微かなコロンの香りがエバの鼻腔をくすぐる。
「光の世界でじゃれ合うのはそこまでにしておきなさい。……今度の週末は、私が君に『大人のエスコート』というものを教えてあげよう」
「デートのお誘い、ですか?」
「心理学における、極めて実践的なフィールドワークと呼んでくれたまえ。……君のその、誰にも本心を明かさない見事な防壁を、私がどうやって崩すか。楽しみにしておくといい」
危険な香りのする大人の男の、余裕たっぷりの宣戦布告。
真喜の陽だまりのような愛とは正反対の、エバの真の姿(闇)を理解した上での、知的でスリリングな誘惑。
エバの胸の「恋のバグ」が、またしても別のベクトルで甘い悲鳴を上げる。
「……私の防壁は、そう簡単には崩れませんわよ、教授。でも……美味しい紅茶を用意してくださるなら、フィールドワークの助手を務めるくらいは検討して差し上げますわ」
エバは本を閉じ、小悪魔のような視線を油江に投げ返した。
決してどちらの手も取らず、しかし決して拒絶もしない。この焦れったい「はぐらかし」の距離感こそが、今のエバが人間界に繋ぎ止めておける、唯一の平和の形だったのだ。
「ふっ……。手強い君のそういうところ、嫌いじゃないよ」
油江は満足げに口角を上げると、立ち上がってエバに背を向けた。
「では、週末に迎えに行く。……楽しみにしているよ、エバ」
周りの学生には聞こえないほどの小さな声で、あえて本来の名前を呼び捨てにし、油江は図書館を去っていった。
エバは、一人残された図書館の席で、静かにため息をついた。
(真喜さんと、油江教授……。人間の男性というのは、こうも対極で、どちらも愛おしい生き物なのですか)
窓の外の澄み切った青空を見上げながら、エバは人間界の平穏な日常に、骨の髄まで浸りきっている自分を自覚していた。
しかし。
その平穏な青空に、ふと、一筋の「黒い影」がよぎった。
――ゾクッ。
エバの背筋に、季節の冷たさとは次元の違う、絶対的な『死の気配』が走った。
冥界の底で何千年も嗅ぎ続けてきた、鉄と古い灰の匂い。
それは、人間の感情という甘い夢に浸っていた元・奪衣婆を、冷酷な現実へと引き戻す合図だった。
(……ついに、来てしまったのね)
事件の爪痕が消え、新しい人間関係が芽吹き始めていた日常。
そのキャンパスの片隅で、エバを冥界へと連れ戻すための「使者」の足音が、音もなく、しかし確実に近づいてきていたのである。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




