壇茶幢(だんだどう)が語る隠された記憶㈠
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
三浦半島の切り立った崖沿いに建つ、油江のセーフハウス。分厚い防音ガラスの向こうで降り続いていた冷たい秋雨は上がり、灰色の海が静かに朝の光を反射し始めていた。
リビングの広大なソファでは、昨夜の死闘を潜り抜け、エバを抱きしめたまま限界を迎えた真喜が、深い眠りに落ちている。彼の大きく温かい胸の鼓動を背中で感じながら、エバは静かに身を起こした。
白檀の毒牙によって傷ついていた肉体と魂の結合は、新鮮な空気と十分な休息によって、すでに完璧な状態へと回復していた。冥界から派遣された代行者としての、氷のように冷徹な理性が、彼女の頭脳をクリアに満たしている。
隣の書斎から、キーボードを弾く乾いた音と、ブラックコーヒーの深い香りが漂ってきた。
エバが音もなく書斎へと足を踏み入れると、アンティークデスクに向かっていた油江颯が、満足げな笑みを浮かべてモニターから視線を外した。
「おはよう、菱倉さん。見事な朝だ。……私が昨夜、各所にリークした『勉の裏帳簿』と『沙代夫人の告発文』のデータは、完璧な起爆剤として機能したよ。今頃、特捜部が菱倉グループの本社と勉の病室に雪崩れ込んでいるはずだ」
油江の言う通り、テレビのニュース速報は、菱倉グループの歴史的な崩壊劇を興奮気味に伝えていた。
「勉の失脚は確定だ。法という名の巨大なローラーが、彼が築き上げた権力の城壁を跡形もなくすり潰すだろう」
「……ええ。お力添え、感謝しますわ、教授」
エバは静かに頷き、書斎の中央に立った。しかし、その顔に完全なる勝利の喜びはなかった。
「だが、君の顔は晴れないね。……まだ何か、パズルのピースが足りないとでも?」
油江の犯罪心理学者としての鋭い嗅覚が、エバの微かな違和感を正確に捉える。
「ええ。勉叔父様が沙代夫人を殺害し、一族の権力を独占しようとした罪は暴かれました。しかし……私がこの現世に派遣され、『菱倉新子』の肉体に憑依することになった、そもそもの根本的な原因。……あの『突き落とし事件』の全貌が、まだ解明されていませんわ」
数ヶ月前。朱鳥女子大学の旧理科棟の階段から、菱倉新子が何者かによって突き落とされ、命を落としかけた事件。
その死の淵を漂う無垢な少女の魂と入れ替わる形で、冥界の代行者であるエバが現世へと送り込まれたのだ。
警察は単なる足の滑りによる転落事故として処理し、一族の者たちもそれを疑わなかった。しかし、冥界のシステムがエバを派遣したということは、それが単なる事故ではなく、深い悪意と罪が絡み合った殺人未遂であったという何よりの証明である。
「なるほど。旧理科棟での爆発罠の実行犯は木島という大学院生だったが、それ以前の『最初の突き落とし』の犯人は、まだ闇の中というわけだ」
油江は興味深げに顎を撫でた。
「勉が直接手を下したとは思えない。あの男は、自らの手を汚すリスクを極端に嫌う。沙代夫人の一件は例外中の例外だ。となれば、誰か別の実行犯がいて、その背後で糸を引いている者がいる」
「それを今から、強引に暴き出します。……物理的な証拠が残っていなくとも、人間の魂に刻まれた悪行の記録は、決して消し去ることはできませんから」
エバは書斎の照明を落とし、ブラインドを完全に閉ざした。
薄暗い空間の中、彼女は精神の波長を現世と冥界の境界線へと極限までチューニングしていく。周囲の温度が急激に下がり、油江の吐く息が白く染まった。血と鉄と古い灰が混ざり合ったような、冥界特有の重苦しい「死の気配」が書斎を満たし始める。
「イイジャーマジャアニウム」
エバが静かに、しかし絶対的な威厳を持った召喚呪文を紡ぎ出した。
虚空がぐにゃりと水面のように歪み、紫色の瘴気が溢れ出す。その裂け目から、一本の禍々しい杖がゆっくりと現世へと押し出されてきた。
黒ずんだ柄に無数の梵字が刻まれ、先端に金属細工の「二つの人間の頭部」――怒りに目をひん剥いた男の顔(見る目)と、醜悪に鼻をうごめかせる女の顔(嗅ぐ鼻)を背中合わせに据えた冥界のアイテム。
『壇茶幢』。
閻魔大王の傍らに立ち、亡者たちの生前の悪行の記録を読み取り、いかなる隠蔽も許さずに真実を暴き出す人頭杖である。
エバが壇茶幢の柄を握りしめると、二つの首がカタカタと不気味に震え始め、紫色の光を放った。
「さあ、見せなさい。数ヶ月前、菱倉新子を死の淵へと追いやった『突き落とし事件』の真実を。あの場にいた人間の魂の記憶を読み取り、隠された点と線をすべてここに繋ぎ合わせるのよ」
エバが壇茶幢を床にドンと突き立てた瞬間、「見る目」の瞳から強烈な紫色の光線が放たれ、書斎の空間に立体的なホログラムのような幻影を展開し始めた。
それは、数ヶ月前の朱鳥女子大学・旧理科棟の薄暗い階段の踊り場だった。
夕暮れ時。一人で歩いていた新子の背後に、音もなく忍び寄る一つの黒い影。
くたびれたパーカーのフードを深く被り、異常なまでの執着と歪んだ欲望をその目に宿した男。
「……こいつは、確か文学部の学生だったな。名前は犬飼」
油江が、展開された幻影を見てすぐに顔を認識した。彼の学内の人間関係に対するプロファイリング能力は驚異的だ。
「新子に対して異常な執着を持ち、ストーカー行為で大学の警備室から何度も警告を受けていた男だ。……彼が突き落としの実行犯だったというのか」
幻影の中で、犬飼は新子の背中に両手を伸ばし、後から抱え上げてェンスの向こう側へと放った。
新子の身体が宙を舞い、冷たいコンクリートの床に叩きつけられる。
しかし、壇茶幢が暴き出す真実は、単なるストーカーの暴走行動だけでは終わらなかった。
杖の先端にある「嗅ぐ鼻」が、ズズッと醜悪な音を立てて幻影の空気を吸い込んだ。
すると、犬飼の背中から、目に見えない無数の「赤い糸(因果の線)」が伸びているのが視覚化されたのだ。それは、彼が単独の意思で動いたのではなく、何者かの強い悪意によって操られていたことを示す、魂の繋がりであった。
「……やはり。ただの狂ったストーカーの犯行ではなかったのですね」
エバの冷徹な声に呼応するように、壇茶幢は赤い糸をたぐり寄せ、時間を少しだけ遡った別の幻影を空間に映し出した。
薄暗いキャンパスの裏庭。
ストーカーの犬飼に近づき、親しげに、そして甘く毒を含んだ声で囁きかけている一人の美しい女子大生の姿があった。
菱倉香々美。
新子の従姉であり、屋敷の中では常に新子を「可愛い妹」として扱いながらも、その実、心の底では新子に対してどす黒い嫉妬の炎を燃やし続けていた女だ。
『……犬飼くん。あなた、本当に新子のことが好きなのね。でも、彼女はあなたみたいな人を一番見下しているのよ。あの女は、自分が特別だと思い上がっているの』
幻影の中の香々美は、犬飼の歪んだ独占欲と劣等感を、まるでピアノの鍵盤を叩くように巧みに刺激していく。
『あの綺麗な顔が少しでも傷つけば、彼女も自分の傲慢さに気づくかもしれないわね。……例えば、あの薄暗い理科棟の階段で、ほんの少し「足を踏み外す」ようなことがあれば。そうすれば、弱った彼女をあなたが慰めてあげることもできるんじゃない?』
香々美の甘い囁きは、犬飼の狂気を正当化する最悪の触媒となった。彼女は自らの手は一切汚さず、言葉という見えない毒だけで、ストーカーを「殺人鬼」へと造り替えたのだ。
しかし、犬飼は、階段ではなく屋上で実行したのだ。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




