絶体絶命の密室と白檀の業火㈢
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
白檀の浄化の炎に焼かれ、冥界へと引き戻されそうになる魂を、強烈な「現世への執着」が強引に繋ぎ止めた。
その執着の正体こそが、エバの中に芽生えた、致命的で、そして圧倒的なエネルギーを秘めた「恋という名のバグ」だった。
薄れゆく意識のスクリーンに、陽だまりのような青年の顔が浮かぶ。
『俺が全力で守るから』
真喜の、過保護なまでに真っ直ぐな愛情。彼のあの大きく温かい手は、エバが「新子」という人間の少女として愛されることの幸福を、初めて教えてくれた。彼が向けてくれる無防備な信頼を、ここで裏切って死ぬわけにはいかない。あの温もりを、もう二度と感じられないなんて、絶対に嫌だ。
そして、もう一つの顔が、夜の闇のように深く静かに浮かび上がる。
『君の魂の渇きを癒やせるのは、同じ闇を知る者だけだ』
油江颯の、謎を秘めた彼女への知的な執着。エバの内に潜む異常性や血の匂いすらも肯定し、共犯者として地獄の底まで付き合うと暗に告げた、あの大人の男の危険な囁き。
油江の淹れるブラックコーヒーの苦味。彼の知性。彼と共に暴く真実の快感。彼に見せつけたい、自分という存在の価値。
(嫌だ。……冥界の冷たい闇になんて、帰りたくない。私は……ここで、生きたい……!)
異能の存在として感情を不要のノイズと切り捨ててきたはずの彼女が、今、人間だけが持つ「愛されたい」「愛したい」という極めて利己的で美しい渇望によって、自らの消滅に強烈に抗い始めていた。
白檀の香りが彼女の力を奪い、身体を麻痺させても、心臓の奥底で燃える「恋」の熱だけは、決して鎮火させることはできなかった。
「……ぁ……あぁっ……!」
エバは痙攣する指先を絨毯に突き立て、血が滲むほどに爪を立てた。
息ができない。肺が焼け焦げるように熱い。それでも、彼女は生きたいと願った。
『……しぶといな。まだ動く力が残っていたか。だが、無駄な足掻きだ。その部屋は分厚い防音壁と特殊合金の扉で完全に封鎖されている。誰も助けには来ない。……永遠に眠れ、新子』
勉の冷酷な死の宣告が響き、スピーカーからの通信が完全に途絶えた。
白煙の濃度はさらに増し、エバはついに、うつ伏せになったままピクリとも動けなくなった。
視界は完全に白く塗りつぶされ、鼓膜には自身の弱々しい心拍音だけが遠く響いている。
(ここまで……なの……? 真喜さん……。教授……)
意識の糸が、プツリと切れそうになった、まさにその刹那。
――ズズンッ……!
遠く、深い地の底から響くような、鈍い破壊音がエバの鼓膜を微かに震わせた。
それは幻聴ではなかった。
部屋の空気を伝わってくる、物理的な振動。
――ドォン! ガガガガッ!
破壊音は次第に間隔を狭め、そして明確に大きくなっていく。
絶対に開かないはずの特殊合金の扉の向こう側で、何かが、あるいは何者かが、狂ったような力で物理的な障壁を打ち砕こうとしている音だ。
(……え……?)
エバの麻痺した脳裏に、信じられない光景が過ぎる。
防音壁に守られたこの東翼の奥深くに、誰かが近づいてくるはずがない。ましてや、分厚い合金の扉を外側から破壊しようとする人間など、この屋敷にいるわけがないのだ。
――ギャリギャリギャリッ!!
続いて響いたのは、硬質な金属が無理やり削り取られ、溶解していくような、耳を劈くけたたましい摩擦音だった。
扉のロック機構のあたりから、微かにオレンジ色の閃光が漏れ見えた気がした。それは超高温の熱線――工業用のカッターか何かが、扉を焼き切っている光。
(誰かが……私を、助けに……?)
絶望的な密室に、突如として穿たれた希望の亀裂。
しかし、白檀の猛毒はすでにエバの限界をとうに超えていた。
熱線の光を見つめたまま、彼女の瞼はついに重力に抗えなくなり、ゆっくりと閉じていく。
――そこを退け!! 吹き飛ばすぞ!!!
扉の向こう側から、血を吐くような男の怒号が響いた。
それは、常に冷静沈着な仮面を崩さない、あの犯罪心理学者の声。
そして、それに呼応するように、もう一人の男の叫びが重なる。
――新子ぉぉぉッ!!! 今開ける!! 待ってろォォォッ!!!
それは、彼女を無条件で愛し、過保護なまでに守り抜こうとする、あの青年の咆哮。
二人の声が重なった直後、エバの意識はついに完全な暗闇へと落ちていった。
だが、その冷たい暗闇の底で、彼女の唇には、微かな、本当に微かな安堵の微笑みが浮かんでいた。
白檀の業火が荒れ狂う絶体絶命の密室。
その堅牢なる死の扉が、今、二人の男たちの執念によって、完全に打ち破られようとしていた。
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