絶体絶命の密室と白檀の業火㈡
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
伸ばした手が、力なく絨毯の上へと落ちる。
唯一の希望であった閻魔の小道具すら使役できず、異能を完全に封じ込められたエバは、今やただの「無力な人間の少女・菱倉新子」でしかなかった。
煙が容赦なく肺を侵食し、呼吸のたびに喉の奥が刃物で切り裂かれるように痛む。
身体が小刻みに痙攣し、体温が急速に奪われていく。
死が、確実な足音を立てて迫っていた。冥界から現世へと送り込まれた異能の存在にとって、現世での肉体の死は、魂の完全なる消滅を意味する。
(私……死ぬの……?)
その残酷な事実を突きつけられた瞬間、冷徹であったはずのエバの心に溢れ出したのは、任務を遂行できなかった無念でも、勉への怒りでもなかった。
剥き出しの、一片の混じり気もない「生への渇望」と、どうしようもない「孤独」への恐怖だった。
暗い視界の底に、昼間の喫茶店で両手を強く握りしめてくれた、真喜の青ざめた顔が浮かび上がった。
『俺が全力で守るから』
あの時、真喜の手から伝わってきた、陽だまりのように温かく、不器用で真っ直ぐな愛情。エバの正体を知らず、ただ「新子」という一人の少女を全肯定してくれた彼の過保護な優しさが、今になって痛いほどに胸を締め付ける。もしここで死んだら、あの純粋な青年は、どれほどの絶望に突き落とされるだろうか。
そして、もう一人。
『君の魂の渇きを癒やせるのは、同じ闇を知る者だけだ』
文学部棟の研究室で、危険な色気を孕んだ瞳でこちらを見つめていた、油江颯の顔。
謎を秘めた菱倉新子という存在に、共犯者としての知的な執着を向け、共に闇の底を歩むことを示唆してくれた大人の男。彼の淹れるブラックコーヒーの苦い匂いと、その奥底にある底知れぬ包容力。
(嫌だ……。真喜さん……教授……)
冥界の掟を背負う異能の存在として、人間界の感情など不要なノイズだと切り捨ててきたはずだった。
しかし、二人の男から向けられた全く異なる二つの「愛情」は、エバという魂の奥深くに、確実に「恋」という名のバグを芽吹かせていた。
誰かに愛されたい。誰かを愛したい。
死の淵に立たされたことで、その人間としての脆弱で美しい感情が、白檀の業火よりも熱く、激しく、彼女の心を焼き焦がしていく。
「たす、けて……」
誰にも届くはずのない密室の中で、無力な少女は微かな涙をこぼした。
白く濁った煙が、エバの視界を完全に覆い尽くす。
意識が暗い水底へと沈んでいく中、彼女の耳は、遠くで何かが激しくぶつかるような、鈍い破壊音を微かに捉えていた。
だが、それが現実の音なのか、死の間際に見る幻聴なのか、もはやエバの麻痺した頭脳には判断することはできなかった。
白檀の極めて濃厚な煙が、容赦なく密室の酸素を食い尽くしていく。
絨毯の上に倒れ伏したエバの視界は、もはや濃密な白い霧に覆われ、自らの手のひらすら輪郭を失っていた。
(……痛い。息が……できない……)
呼吸器の激痛だけではない。エバを真に死の淵へと追いやっていたのは、白檀が持つ「浄化の力」による、魂そのものの崩壊だった。
冥界から、「菱倉新子」という人間の少女の肉体に憑依させられた異能の魂。現世の理から外れた不浄なる存在である彼女にとって、神聖な香木の煙は、肉体と魂を繋ぎ止める霊的な楔を強引に引き抜こうとする、見えない炎の拷問に等しかった。
意識が暗い水底へと沈んでいく中、エバの脳裏に、幻覚とも現実ともつかないビジョンがフラッシュバックし始めた。
それは、彼女が冥界の冷たい闇の中で過ごした果てしない時間。感情を持たず、ただ罪人を裁くための「システムの一部」として漂っていた、虚無の記憶。
白檀の香りは、彼女を再びあの絶対的な孤独と冷たい闇の中へ強制送還しようとしているのだ。人間としての「新子」の肉体から引き剥がされ、感情も記憶もすべて洗い流された、ただの異能の残滓へと還るために。
――ジジッ、ピーッ。
意識が薄れゆく中、部屋のスピーカーが再び不快なノイズを立てて、勉の傲慢な声を吐き出した。
『……まだ息はあるか、新子。それとも、もう地獄へ落ちる準備はできたかな?』
勉の声は、姪の死を確信しきった、酷薄で愉悦に満ちた響きを帯びていた。
『お前がどのような手を使って旧理科棟の罠を生き延びたのか、それはもうどうでもいい。お前はここで死に、私が一族の絶対的な支配者となる。……沙代と同じようにな』
スピーカー越しに、カチンと氷の揺れるグラスの音が聞こえた。勉は安全な自室で酒を傾けながら、隠しカメラを通して彼女の死に様を優雅に鑑賞しているのだろう。
『沙代は愚かな女だった。私の暗殺計画に気づき、それを告発しようとするなどと……妻でありながら、夫の偉大な野望を理解しようともしなかった。菱倉という巨大な帝国を守り、さらに発展させるためには、多少の犠牲は不可欠なのだ。それを「罪」だと喚くような軟弱な女は、私の隣に立つ資格はない』
勉の歪んだ自己正当化の言葉が、白煙とともに部屋に充満する。
『お前も同じだ、新子。お前のような無能な小娘が、遺産を相続し、私の上に立つなどという冗談は、絶対に許されるものではない。……お前たちは皆、私の権力への道を敷くための、ただの踏み石に過ぎないのだ』
その狂気に満ちた独白を聞きながら、エバの心の奥底で、消えかかっていた小さな火種がパチリと音を立てた。
(……踏み石……? 私たちが、あなたの……?)
違う。
私は、お前のような強欲で醜い人間の踏み石になるために、この現世に舞い降りたのではない。
冥界の掟に従い、罪深き血脈を断ち切り、隠された真実を白日の下に晒すため。そして何より――。
(私は……まだ、あの二人に……)
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




