揺れる心と「恋」という名のバグ㈢
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
「勉が独自に雇った警備システムや、何らかの物理的な罠が仕掛けられている可能性は十分に高い。君の並外れた身体能力と精神力をもってしても、未知の罠に飛び込むのはリスクが伴う。……潜入は今夜の深夜二時。万が一、危険を察知したら、証拠の回収は諦めて即座に撤退すること。いいかね?」
「ご心配なく。いかなる罠が待ち受けていようと、獲物の喉首を逃すようなドジは踏みませんわ」
エバは自信に満ちた笑みを残し、油江の研究室を後にした。
だが、キャンパスを出て迎えの黒塗りベンツに乗り込んだ瞬間、彼女の顔からその強気な仮面は剥がれ落ちた。
秋の夕暮れが、横浜の街並みをセピア色に染めていく。
後部座席の深いレザーシートに沈み込みながら、エバは自らの両手を膝の上でじっと見つめた。
真喜に強く握りしめられた手。油江の熱い視線に晒された手。
そして何より、冥界の扉を開き、「浄玻璃鏡」という異能のアイテムを現世に呼び寄せる、人間ならざる者の手。
(私は、一体何者なの……)
人間の脆い感情など、任務を遂行するためのノイズでしかないと切り捨ててきた。
それなのに今、彼女の胸の奥では、真喜の不器用で過保護な愛と、油江の共犯者としての知的な愛執が、激しく渦を巻いて衝突し合っている。誰かに守られたいという「新子」としての無垢な願いと、誰かと共に地獄の底まで墜ちていきたいという「エバ」としての暗い渇望。
二つの全く異なる「恋」の形が、彼女の論理回路に致命的なエラーを発生させ、処理しきれないほどの熱を生み出していた。
「……本当に、厄介なバグだわ」
エバは窓ガラスに額を押し当て、小さく呟いた。
この感情を抱えたまま、一族の闇の最深部へと足を踏み入れることが、どれほど危険なことか。迷いは隙を生み、隙は死を招く。それでも、彼女はもう、自らの中に芽生えたこの温かくも恐ろしい「バグ」を、完全に消去することはできないと悟っていた。
深夜二時。菱倉家本邸。
一族が深い眠りにつくこの時間、広大な屋敷は、巨大な墓標のように冷たく静まり返っていた。
自室のベッドに巧妙なダミーを仕込んだエバは、闇に溶け込む漆黒の潜入服に身を包み、音もなく廊下へと滑り出た。彼女の足取りは、空気の流れすら乱さないほどに洗練されており、廊下の天井で赤く明滅する監視カメラの死角を、まるで最初からプログラミングされていたかのように正確に縫って進む。
目指すは本館二階の東翼、最も奥に位置する沙代夫人の元私室。
五年前のあの日、勉叔父によって非情な毒殺劇が繰り広げられた忌まわしい現場だ。
屋敷の他の区画とは異なり、東翼の廊下は空調の音すらせず、死の静寂に支配されている。エバは研ぎ澄まされた五感で周囲の気配を探りながら、目的の扉の前へと辿り着いた。
古びたマホガニーの扉には、厳重な物理ロックが二重にかけられていた。
エバは懐から特殊なピッキングツールを取り出すと、わずか数十秒で音もなくシリンダーを回転させ、扉の鍵を解除した。油断なく周囲を確認し、ゆっくりとドアノブを回す。
蝶番が微かに軋む音とともに、五年間封印されていた部屋がその口を開いた。
窓のカーテンは固く閉ざされ、月明かりすら差し込まない完全な暗闇。空気がひどく澱み、埃と、何年もの間締め切られていた部屋特有のカビ臭さが鼻を突く。
エバはペンライトを取り出し、最小限の光量で室内を照らした。
浄玻璃鏡の映像で見た光景と同じだ。豪奢な天蓋付きのベッド、壁際の大きなクローゼット、そして部屋の奥に鎮座する、年代物のアンティーク化粧台。
(あそこに、すべてを終わらせる証拠が眠っている)
エバは足音を殺して、化粧台へと真っ直ぐに歩み寄った。
引き出しを開け、中の底板を慎重に指先で探る。木枠の一部に、わずかな継ぎ目を見つけた。油江のプロファイリングと、自らの異能がもたらした情報が完全に一致した瞬間だった。
エバがその木枠に指を引っ掛け、隠しスペースを開けようと力を込めた、まさにその時である。
――カチャリ。
背後で、彼女が開けたはずの部屋の扉が、自動的に閉まり、さらに外側から重いデッドボルトが下りるような、無機質な金属音が響いた。
エバの背筋に、氷の刃を突き立てられたような悪寒が走った。
即座に振り返り、扉へと駆け寄ってドアノブを回すが、完全にロックされており微動だにしない。外部からの物理的な操作なしには絶対に開かない、完璧な封鎖機構。
「……罠!?」
エバの頭脳が、瞬時に状況を演算し始める。
勉叔父は、ただ部屋を放置していたわけではなかった。侵入者がこの部屋に足を踏み入れ、化粧台に近づくことをあらかじめ予測し、部屋全体を巨大な「ネズミ捕り」へと改造していたのだ。
だが、扉がロックされたこと自体は、最悪の事態ではない。エバの身体能力と装備があれば、窓ガラスを破壊して外壁を伝って脱出することも可能だ。
しかし、本当の絶望は、その直後に訪れた。
閉ざされた部屋の四隅、天井付近に設置された隠しスプリンクラーのような通気口から、突如として白い煙がシューッという音を立てて噴き出し始めたのだ。
その煙は、火災を知らせるものでも、一般的な毒ガスでもなかった。
エバの鼻腔を突いたその香りは、ひどく甘く、重厚で、そして彼女という存在の根幹を直接破壊する、致命的な劇薬の匂いだった。
「この匂い……嘘でしょ。どうして、ここに……」
エバの瞳孔が恐怖に限界まで見開かれた。
それは、仏事に用いられる高級な香木――『白檀』の香りだった。
だが、ただの白檀ではない。常軌を逸した超高濃度に精製され、空間を一瞬で満たすように設計された、特殊な白檀の煙。
冥界から人間に憑依させられ、異能の力で現世に干渉する「エバ」にとって、神聖で強力な浄化の力を持つ白檀の香りは、自らの存在そのものを霧散させ、異能を完全に封じ込める絶対的な弱点(アキレス腱)であった。
勉叔父は、エバの正体が異能の存在であることまで知っていたわけではないだろう。だが、彼が裏社会のオカルトめいた呪術師から「悪霊や招かれざる客を退ける強力な結界」として、この超高濃度の白檀の罠を仕入れていたことは間違いない。彼自身の強烈な疑心暗鬼が生み出した防御システムが、結果的にエバにとって最大の死のトラップとして牙を剥いたのだ。
「ぐっ……ぁ……っ……!」
白檀の煙をほんのわずかに吸い込んだだけで、エバの身体から急激に力が抜け落ちた。
呼吸をするたびに、肺が焼け焦げるような激痛が走り、四肢の感覚が急速に麻痺していく。人間離れした身体能力も、冷静な演算回路も、強烈な浄化の力の前には全く無力だった。
ペンライトが手から滑り落ち、床に転がる。エバは自らの首を掻きむしりながら、冷たい絨毯の上へと無様に崩れ落ちた。
視界が白く濁り、意識が遠のいていく。
逃げ場のない、絶体絶命の密室。彼女の異能を完全に封殺し、肉体と魂そのものを消滅させようとする白檀の業火。
(……嫌だ……ここで、終わるわけには……!)
薄れゆく意識の中で、エバの脳裏に最後に浮かんだのは、昼間に感じた真喜のあの温かい手の感触と、油江の危険で甘い囁きだった。
人間としての「恋」という名のバグを知ってしまった少女は、皮肉にもその感情を抱いたまま、自らの存在を根底から否定する白い煙の中で、静かに死の淵へと引き摺り込まれようとしていた。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




