秘密の召喚呪文は「イイジャーマジャアニウム」㈡
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
「それを探し出すのが、君の役目だ。君には……警察の鑑識には不可能な、何か特別な『力』がある。そうだろう?」
油江のその言葉には、明らかな探りが入っていた。彼は、この少女がただの聡明な令嬢ではなく、常人離れした精神力と、何か超自然的な背景を持っていることに薄々気づき始めているのだ。だからこそ、彼は新子を「菱倉さん」と呼び、ある種の畏敬と警戒を持って接している。
エバは油江の視線を正面から受け止め、ふっと妖艶な微笑を浮かべた。
「ええ。任せておいてちょうだい、教授。死人の口を割らせることにかけては、私に少しばかり特別な『伝手』がありますの」
油江の研究室を後にしたエバは、キャンパスの裏手にある、現在は使われていない旧図書館の地下書庫へと向かった。
カビと古い紙の匂いが立ち込める、窓一つない完全な静寂の空間。分厚いコンクリートに囲まれたこの場所なら、誰の目にも触れることなく「向こう側」と繋がることができる。
エバは書庫の最も奥、埃を被った書棚の間に立ち、目を閉じて深く息を吸い込んだ。
彼女は、冥界から派遣された異能の存在。この世の物理法則や警察の捜査手法だけでは、巧妙に隠蔽された過去の罪を暴くことはできない。だからこそ、彼女には人間の理を外れた「閻魔の小道具」を現世に呼び寄せる力が与えられていた。
エバは自らの精神の波長を、現世と冥界の境界線へと極限までチューニングしていく。周囲の温度が急激に下がり、吐く息が白く染まった。そして、暗闇の中で、彼女は静かに、しかし絶対的な力を持った言霊を紡ぎ出した。
「イイジャーマジャアニウム」
その奇妙で、狂気じみた呪文が地下書庫の冷たい空気に溶け込んだ瞬間。
空間が、まるで水面に波紋が広がるようにぐにゃりと歪んだ。
どこからともなく、線香の匂いとは違う、血と鉄と古い灰が混ざり合ったような、圧倒的な「死の気配」――冥界特有の重苦しい香りが立ち込める。
歪んだ虚空の裂け目から、不気味な紫色の瘴気を纏いながら、一つのアイテムがゆっくりと現世へと押し出されてきた。
それは、古びた青銅の装飾が施された、直径三十センチほどの手鏡だった。
『浄玻璃鏡』。
地獄の主である閻魔大王が、亡者の生前の罪を余すところなく映し出し、裁きを下すために用いるという伝説の鏡。エバの異能は、この冥界の道具を一時的にレンタルし、現世の真実を暴くために使役することができるのだ。
エバは冷たさを放つ浄玻璃鏡の柄をしっかりと握りしめた。鏡面はどんぐりほどの曇りもなく磨き上げられているが、そこにエバ自身の顔は一切映っていない。鏡の奥には、底知れぬ漆黒の深淵が広がっているだけだ。
「さあ、見せてちょうだい。五年前のあの日、勉叔父様の妻、沙代夫人の身に何が起きたのか。彼女が残した『罪の証拠』は、どこにあるのかを」
エバが命じると、浄玻璃鏡の鏡面が、まるで石を投げ込まれた水面のように激しく波立ち始めた。
やがて、漆黒の鏡面の中に、ぼんやりと映像が浮かび上がってくる。
そこは、菱倉本邸の沙代夫人の私室だった。夜。薄暗い間接照明の下で、着物姿の沙代が、青ざめた顔で震えながら何かを必死に書き留めている。彼女の傍らには、小さなマイクロSDカードと、勉の署名が入った裏帳簿のコピーらしきものが散乱していた。
『夫は、兄を殺しました。次は私の番かもしれない。この記録を……』
映像は音声を持たないが、沙代の恐怖に歪んだ表情がすべてを物語っていた。
その時、部屋のドアが音もなく開き、勉が姿を現した。彼の顔には、温厚な専務としての仮面は一切なく、冷酷な爬虫類のような殺意が張り付いている。
勉の手には、睡眠薬を大量に溶かし込んだワイングラスが握られていた。沙代は逃げようとするが、勉に力ずくで押さえつけられ、無理やりグラスの中身を流し込まれる。
激しく抵抗する沙代。しかし、やがて薬が回り、彼女の身体は糸が切れたようにベッドの上へと崩れ落ちた。勉は彼女の顔に枕を押し当て、完全に息の根を止める。完璧な「心不全」の偽装工作だ。
鏡の前のエバは、そのあまりにも生々しい殺人の光景を、瞬き一つせずに冷徹な瞳で見つめ続けていた。
「やはり、あなたが直接手を下していたのね、勉叔父様。……でも、肝心の『証拠』はどうしたの? 沙代夫人は、死の直前にそれをどこへ隠した?」
エバの問いかけに応えるかのように、浄玻璃鏡の映像が巻き戻され、勉が部屋に侵入してくる「数分前」の光景が映し出された。
沙代は、自分がもう長くは生きられないことを悟っていたのだろう。彼女は震える手でマイクロSDカードと告発文を小さな金属製のカプセルに封入すると、自室のアンティークの化粧台の前に座った。
そして、化粧台の引き出しの奥――底板のさらに下にある、素人では絶対に気づかない精巧な隠しスペースの木枠を外し、そこに金属カプセルを押し込んだのだ。勉が部屋に入ってきた時に机の上に散乱していたのは、ダミーの無関係な書類に過ぎなかった。
映像の中で勉は、妻を殺害した後、部屋中を血眼になって探し回ったが、化粧台の二重底には気づかず、忌ま忌ましげに舌打ちをして部屋を後にした。
「……なるほど。そういうことだったのね」
浄玻璃鏡の映像がふっと消え、再び漆黒の闇へと戻った。エバは満足げな笑みを浮かべ、鏡を虚空へと押し返した。紫色の瘴気とともに、冥界のアイテムは音もなく姿を消し、地下書庫には再びカビ臭い静寂だけが残された。
沙代夫人が遺した致命的な証拠。それは五年間もの間、菱倉本邸の彼女の部屋だった場所――現在は空き部屋となっているその空間の、化粧台の奥底で静かに眠り続けていたのだ。
「これで、チェックメイトへの手駒はすべて揃ったわ」
エバは薄暗い地下書庫の中で、氷のように冷たい、残酷な微笑みを浮かべた。
油江の優れたプロファイリングと知略、そしてエバの持つ超自然的な「閻魔の小道具」の力。この二つが完全に噛み合った時、いかなる権力者であっても逃れることはできない。
勉叔父という巨大な悪意の塊を完全に粉砕し、菱倉家の暗部を白日の下に引きずり出すための準備は整った。
彼女は、血塗られた一族を裁く断頭台の刃を静かに研ぎ澄ませながら、次なる罠を仕掛けるため、地下書庫を後にした。
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