菱倉家を覆う「過去の死」の影㈡
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
(やはり、この男が一連の事件の黒幕。私の命を執拗に狙う真犯人で間違いないわね。……ふふ、せいぜい震えて眠るがいいわ。あなたの地獄は、ここから始まるのだから)
エバは内心の冷酷な分析と殺意を微塵も表に出さず、唐突に糸が切れた操り人形のように、ふらりと力なくその場に崩れ落ちそうになってみせた。
「ごめんなさい、おじいさま……。なんだか、急にひどい眩暈が……立っていられませんわ……」
「おお、いかん! こんな冷える所でいつまでも立たせておくなど! すぐに休ませなさい。おい、誰か、早く新子を部屋へ連れて行くんだ!」
剛蔵の怒号のような鶴の一声で、深夜にもかかわらず待機していたメイドたちが慌ただしくエバを囲み、大理石の階段を上って、二階の豪奢な自室へと丁重に送り届けた。
重厚なマホガニーの扉がカチャリと音を立てて閉まり、廊下を行き交う足音が完全に遠ざかって、完全な静寂が部屋を包み込んだ瞬間――。
エバの顔から「怯える哀れな令嬢・新子」の仮面が、冷たい水のように滑り落ちた。
彼女はまっすぐにバスルームへ向かい、服を脱ぎ捨てて熱いシャワーを浴びた。全身にこびりついた不快な煤の汚れと、髪に染み付いた化学薬品の臭いを、皮膚が赤くなるまで徹底的に洗い流す。湯気の中で鏡に映る濡れた髪の少女は、もはや儚く守られるべき「菱倉新子」ではない。獲物の喉笛に喰らいつく瞬間を静かに待つ、冷徹な捕食者「エバ」の顔がそこにあった。
シルクのバスローブを羽織り、寝室のドレッサーの前に座ったエバは、鍵のかかった引き出しの奥底の、さらに二重底に隠しておいた暗号化済みのタブレット端末を取り出した。複雑なパスワードを入力して画面を開き、油江から密かに共有されていた極秘ファイルのフォルダへアクセスする。
網膜に飛び込んできたのは、菱倉一族の複雑に絡み合った家系図と、それに纏わる「死の記録」――警察の調書や、探偵の調査報告書のコピーであった。
彼女が今夜、命の危険を冒してまで、誰も近づかない大学の旧理科棟へ向かった本当の理由。それは、油江が独自の裏ルートから多額の資金を投じて入手した、「菱倉家を巡る過去の不審死」に関する物的証拠の隠し場所が、あの第三実験室に指定されていたからだ。
今回の爆発と火災によって、オリジナルの紙の資料や証拠品はすべて灰燼に帰してしまった。しかし、最も重要なデータと書類の画像は、事前にすべてスキャンされ、この端末の中に、そして何よりエバ自身の明晰な頭脳の中に完全に刻み込まれている。
タブレットの青白い光に照らされた家系図には、不自然に途切れた血脈の枝がいくつか存在していた。
菱倉グループという、国家予算にも匹敵する巨大な富と権力を有する一族には、常に黒い噂と血の匂いが絶えなかった。その最たるものが、今から十二年前に起きた最初の悲劇である。
本来ならば、剛蔵の後を継いで次期当主となるはずだった長男――すなわち新子の伯父にあたる人物が、深夜の峠道で愛車ごとガードレールを突き破り、数十メートル下の崖下へ転落して帰らぬ人となった。
警察の公式発表は「過労による居眠り運転」あるいは「ハンドルの操作ミス」。しかし、当時の所轄が作成した非公開の捜査資料の片隅には、現場の路面に一切のブレーキ痕が残されていなかったこと、そして大破した車両のステアリング機構とブレーキオイルのラインに、不自然な細工が施された痕跡が疑われたことが記されていた。だが、菱倉家という巨大資本の「不名誉なスキャンダル」を恐れた警察上層部からの強烈な圧力により、事件性は早々に否定され、単独事故として処理されたのだ。
さらに七年前。グループの主要な重工業企業を任され、その辣腕で一族を支えていた剛蔵の弟(新子の大叔父)が、海外視察先の東南アジアの高級ホテルの密室で、急性心不全により急死した。
彼もまた、健康そのものであり、心臓に持病など一切なかったにもかかわらず、突然ベッドの上で苦悶の表情を浮かべて事切れていた。現地の腐敗した警察による杜撰な検死により、あっさりと「病死」として処理されたが、彼の死の直前、ルームサービスとしてワインを運んだ現地のボーイが、謎の人物から多額のチップを受け取った直後に忽然と姿を消しているという事実を、油江の構築した情報網は見事に掴み出していた。
いずれの事件も、世間的には「不幸な交通事故」や「過労による突然の病死」として綺麗に片付けられている。しかし、人間の悪意の連鎖を読み解くエバの目は、その背後に潜む冷酷な因果律を見逃さない。
これらの連続する死によって、最も巨大な利益を手にしたのは一体誰か。
優秀な長男が死に、屋台骨であった大叔父が死んだ。次男である新子の父・慶太は、元来から権力闘争やビジネスを嫌悪する学者肌の温厚な性格であり、グループの経営権には一切の興味を示さなかった。
その結果、どうなったか。
三男である勉が、トントン拍子でグループの専務にまで登り詰め、現在は病気がちで高齢の剛蔵に代わって、実質的な経営の全権と莫大な予算の決定権を握るに至ったのである。
「菱倉家を分厚く覆う『過去の死』の影……。世間はそれを血の呪いや祟りだと面白おかしく騒ぎ立てたけれど、その正体は、オカルトなどではない。勉叔父様、あなたの底なしの権力欲と、身内すら平気で手に掛けるどす黒い殺意だったというわけね」
エバはタブレットの画面に映る、メディア向けに愛想の良い笑みを浮かべた勉の顔写真を、細く白い指でゆっくりとなぞった。
勉の最終的な目標は、グループの「完全な簒奪」である。現在の絶対的当主である剛蔵が作成した秘密の遺言書には、莫大な遺産とグループを支配するための株式の過半数が、長孫である新子の兄・剛志と、新子自身の二人に分割相続される旨が記されているという情報を得ているのだろう。
勉にとって、経営に無関心な慶太の血を引く子どもたちが、自らの上に立ち、グループを乗っ取ることは絶対に許容できない。彼らは、自らの野望を阻む最も目障りな障害物に他ならない。
だからこそ、勉は動いたのだ。まずは最も警戒心が薄く、御しやすそうな箱入り娘の新子を、「不幸な事故に見せかけて」確実に排除するために。
過去の暗殺を完璧に成功させてきた勉の手口は、常に周到で冷酷極まりないものだった。自らの手を直接汚すような愚行は決して犯さない。人間の悪意、金銭的な弱み、あるいは他人の抱える秘密を利用して、間接的に手を下させる。今回の毒ガスと爆発のトラップも、大学内の設備に出入りできる何者か――おそらくは金に困った学生か、弱みを握られた教職員を買収し、あるいは脅迫して仕掛けさせたものに違いない。
だが、今回ばかりは彼らは致命的なミスを犯した。
ただの無知で無力な令嬢だと思って殺そうとした相手が、中身は一族の「罪のにおい」を明確に嗅ぎ分け、狩る側の視点を持つ「捕食者」となって生還してしまったことである。
「私が死の淵から舞い戻ったことで、勉叔父様たちの緻密な計画の歯車は決定的に狂った。予定外の生存者というイレギュラーを前にして、恐怖と焦燥に駆られた人間は、焦りから必ず次の一手で致命的なボロを出すわ」
エバはタブレットの電源を静かに落とし、音を立てずに立ち上がると、窓辺へと歩み寄った。
厚い遮光カーテンを指一本分だけ開け、深夜の暗闇に沈む広大な日本庭園を見下ろす。手入れの行き届いた松の木々の不気味なシルエットが、まるでこの屋敷の底に巣くう亡者たちのように、夜風に揺れて蠢いていた。
旧理科棟の第三実験室を焼き尽くしたあの炎は、勉からエバに対する一方的な宣戦布告であった。しかし同時に、それは勉自身の首を絞める、破滅への絞首刑の縄の始まりでもあったのだ。
油江教授という、警察すら出し抜く最強の頭脳と共に仕掛ける、次なる反撃の罠。エバの頭の中では、すでに彼らを社会的に、そして物理的に追い詰めるための、冷酷で完璧な報復のシナリオが組み上がっている。
狩る者と狩られる者の立場は、今夜、あの業火を境にして完全に逆転した。
過去の死の真相を暴き出し、菱倉の血に群がる寄生虫たちを残らず根絶やしにする。
窓ガラスに微かに映るエバの双眸の奥で、血塗られた一族の罪を焼き尽くすための冷たい業火が、決して消えることのない鋭い熱を帯びて静かに燃え上がっていた。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




