理科実験室に仕掛けられた甘い罠㈠
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
忌部薫子ら学園の特権階級が集うティーパーティーでの圧倒的な論破劇から数日が経過した。朱鳥女子大学のキャンパス内では、あの日を境に目に見えて勢力図が変化しつつあった。絶対的な女王として君臨していた薫子とその取り巻きたちは、エバの放った凄まじい覇気と残酷なまでの事実の指摘に完全に戦意を喪失し、今ではエバの姿を遠くに見かけるだけで怯えたように道を譲るようになっていた。新子を虐げていた従姉の香々美に至っては、体調不良を理由に大学を欠席し続けているという。
しかし、エバの心に油断は微塵もなかった。彼女たちが新子を屋上から突き落とした真犯人ではないことは、すでに魂の重さを量る「天秤」によって明白になっている。キャンパスの表面上の平穏とは裏腹に、水面下ではより巨大で、より底知れぬ悪意が確実にエバの命を狙って蠢いていた。
その日の午後、エバは文学部棟の奥深くにある、油江颯の「犯罪心理研究室」のソファに深く腰を下ろしていた。
壁一面を覆い尽くす膨大な専門書と、淹れたての深煎りコーヒーの香りが充満するこの部屋は、エバにとってキャンパス内で唯一、無駄な人間関係のノイズから解放される場所となりつつあった。
「……それで? 忌部会長たちを言葉だけで完全に屈服させたという噂は、今や教授陣の耳にまで届いていますよ。おかげで、菱倉新子は事故のショックで別人のように冷酷な人間になってしまったと、まことしやかに囁かれています」
デスクの向こう側で、油江が面白そうに目を細めながらマグカップを傾けた。
「事実をありのままに指摘しただけですわ。人間の肉体や骨格、そして肌の不調は、その者の内面に隠された醜い欲望や罪の意識を如実に表します。私はただ、彼女たちが必死に隠そうとしていた虚飾の衣を、ほんの少し剥ぎ取って差し上げたに過ぎません」
エバは優雅に足を組み直し、ティーカップを手に取りながら涼しい顔で答えた。奪衣婆として三途の川で亡者の衣を剥ぎ取り、その罪の重さを量ってきた彼女にとって、生きた人間の薄っぺらい嘘を暴くことなど、文字通り児戯に等しかったのである 。
「相変わらず、痛烈ですね。しかし、あなたのその容赦のない『裁き』は、真犯人をひどく焦らせているはずです」
油江は手元の資料を置き、真剣な表情へと切り替わった。
「焦らせている、ですか?」
「ええ。犯罪心理学の観点から言えば、犯人は自分が完璧に仕留めたはずの標的が奇跡的に生還し、あろうことか以前よりも遥かに強大なオーラを放ってキャンパスを闊歩している現状に、激しい恐怖と焦燥感を抱いているはずです。特に、あなたが忌部会長という学内の権力者すらも容易く退けたという事実は、犯人の『支配欲』や『計画性』を根底から揺るがしている。……人間は、自分のコントロールが効かなくなった時、最も予測不可能で短絡的な行動に出る生き物です」
「つまり、真犯人は遠からず、必ず次の行動を起こすということですね」
「その通りです。しかも、次は前回のような衝動的、あるいは単純な突き落としではなく、より確実で、より周到に計画された罠を仕掛けてくる可能性が高い。くれぐれも、一人での行動は避けてください」
油江の忠告を聞きながら、エバの胸の奥で、再びあの不確かな鼓動が微かに鳴った。この若き天才学者は、エバの正体こそ知らないものの、その鋭い洞察力で事態の本質を正確に射抜いている。利害関係だけで結ばれたはずの同盟相手から向けられる、純粋な気遣い。天使養成校で「排除されるべきノイズ」と教えられてきた他者からの情愛や心配の念が、エバの強靭な精神に少しずつ、しかし確実に波紋を広げていた 。
その時であった。エバの制服のポケットに入っていたスマートフォンが、短い電子音を鳴らした。
エバはまだこの人間界の薄い板状の通信機器の扱いに完全に慣れてはいなかったが、タップして画面を開くことくらいは容易にできるようになっていた 。画面に表示されたのは、大学の教務課を名乗る差出人からの、一通の事務的なメールであった。
『文学部心理学科二回生 菱倉新子様。休学中の未提出レポートに関する重要資料が、旧理科棟の第三実験室に保管されています。本日午後四時までに、必ず本人が直接受け取りに来てください』
エバはその文面を冷ややかな目で一読し、スマートフォンをテーブルの上にコトリと置いた。
「どうやら、油江教授のプロファイリングは完璧だったようですわね。犯人の方から、ご丁寧に招待状を送ってきてくださいましたわ」
「見せてください」
油江がスマートフォンを覗き込み、険しい顔つきになる。
「旧理科棟……あそこは現在、耐震補強工事の計画段階で、ほとんどの学生や教職員は立ち入りません。ましてや、教務課が文系学部の資料をわざわざ理系の旧校舎に保管するなど、大学の管理システム上あり得ない。明らかな偽装メール、そして罠です」
「ええ、百も承知ですわ」
エバは立ち上がり、スカートの皺を優雅な手つきで払った。
「行くつもりですか!? 相手の土俵にわざわざ足を踏み入れる必要はありません。教務課に確認を取れば、すぐに偽装だと判明する」
「それでは意味がありませんわ、教授。罠だと分かっていながら逃げるのは、私の美学に反します。相手がどのような手札で私の命を奪おうとしているのか、この目で確かめ、そしてその絶望的なまでの実力差を骨の髄まで刻み込んでやらなければ、真の裁きとは言えませんもの」
エバの切れ長の瞳が、獲物を狙う猛禽類のように鋭く細められた。その奥には、冥界の官吏としての圧倒的な自信と、罪人に対する絶対的な冷酷さが宿っていた。
「……どうしても行くと言うのなら、私も同行します。犯罪心理学者として、犯人の仕掛けた罠の構造をこの目で分析しておきたい」
油江はデスクの引き出しからマスターキーの束を取り出し、コートを羽織った。エバは少しだけ驚いたように彼を見つめたが、すぐにふっと口角を上げて微笑んだ。
「足手まといにならないでくださいね、教授」
「あなたこそ。深淵に飲み込まれないように気をつけてくださいよ、特別客員研究員殿」
二人は示し合わせたように笑みを交わし、静かに研究室を後にした。
朱鳥女子大学の敷地の北西の端に位置する旧理科棟は、蔦に覆われた古びたコンクリート造りの建物であった。春のうららかな陽光が降り注ぐキャンパスの中心部とは打って変わり、この周囲だけは鬱蒼とした大木に囲まれ、常にジメジメとした冷たい日陰になっている。学生たちの談笑する声もここまでは届かず、ただ風が木々を揺らす不気味な葉擦れの音だけが響いていた。
エバと油江は、軋む音を立てる重厚な鉄扉を開け、薄暗い廊下へと足を踏み入れた。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




