若き犯罪心理学教授との邂逅(かいこう)㈡
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
カフェでの昼食を終え、真喜と別れた後、エバは夕子と共に朱鳥女子大学のキャンパスへと戻ってきた。午後の講義までまだ少し時間がある。
「夕子、私、少し寄りたいところがあるから、先に行っていてちょうだい」
「え? どこに行くの? 一人で大丈夫?」
「ええ、問題ないわ。すぐに追いかけるから」
夕子と別れたエバが向かったのは、学生たちが頻繁に行き交う華やかなメインストリートではなく、文学部の教員たちが研究室を構える、少し古びた静かな別棟であった。
エバの足取りは迷いがなく、まっすぐに三階の奥にある一つのドアへと向かっていた。木製の重厚なドアには、「犯罪心理研究室 油江颯」という真鍮のプレートが掲げられている。
警察の不完全な捜査に期待はできない。菱倉家の財力と権力をもってしても、身内の犯行であれば隠蔽される可能性が高い。エバが独自に犯人をあぶり出し、裁きを下すためには、キャンパス内に張り巡らされた情報網と、人間の心理を読み解くための「駒」が必要であった。
その点において、昨日講義の後に言葉を交わした若き天才、油江颯は、これ以上ないほどに優秀な資源となるはずだ。
コンコン、とエバは上品に、しかし力強くドアをノックした。
「どうぞ。鍵は開いていますよ」
中から、低く落ち着いたバリトンボイスが響く。
エバがドアを開けて足を踏み入れると、そこは壁一面が天井まで届く本棚で覆い尽くされた、圧倒的な知識の城であった。国内外の心理学、精神医学、法学、そして過去の凶悪犯罪の記録に関する膨大な文献が、乱雑に見えて実は厳密なルールに従って配置されている。部屋中には古い紙とインクの匂い、そして淹れたてのブラックコーヒーの香りが充満していた。
部屋の中央にある巨大なアンティークのデスクの奥で、油江颯が万年筆を片手に、分厚い洋書から顔を上げた。彼は体にフィットした細身のダークスーツを着崩しており、無造作な黒髪の奥にある鋭い瞳で、エバを面白そうに観察した。
「お待ちしていましたよ、菱倉新子さん。昨日のお誘い、こんなに早く前向きな返答をもらえるとは思っていませんでした」
油江は万年筆を置き、立ち上がって来客用の革張りのソファへと手で促した。
「お招きいただき感謝いたしますわ、油江教授。ですが、誤解しないでいただきたいのですけれど、私はあなたの『犯罪心理研究サークル』に入部届を出しに来たわけではありませんの」
エバはソファに優雅に腰を下ろし、背筋をピンと伸ばしたまま、切れ長の瞳で油江を真っ直ぐに射抜いた。
「ほほう? では、このむさ苦しい研究室に、深窓の令嬢がわざわざ足を運んだ理由は何でしょうか」
油江も向かいのソファに座り、長い足を組んで楽しそうに口角を吊り上げる。
「取り引きをしに参りましたの」
エバは一切の感情を排した、氷河のように冷徹な声で切り出した。
「取り引き、ですか。ますます興味深いですね。具体的には?」
「教授は昨日、私が屋上から転落した『事故』の真相について、心理学的なアプローチから協力できるかもしれないと仰いました。……私は、自分の身に起きたあの出来事が、決して事故でも自殺未遂でもなく、明確な殺意を持った何者かによる犯行だと確信しています。そして、その犯人は、このキャンパス、あるいはいやもっと身近な場所に潜んでいる」
エバの言葉に、油江の瞳の奥で、鋭い知性の光がギラリと瞬いた。
「なるほど。警察の発表を鵜呑みにせず、自らの足と頭で犯人を捜し出そうというわけですね。しかし、なぜ私に? 菱倉家の絶大な財力があれば、優秀な私立探偵を雇うことなど造作もないでしょうに」
「お金で雇われた人間の口は、より多くのお金で容易に塞がれます。私は、人間の持つ『金銭欲』というものを全く信用しておりませんの。それに、キャンパス内の複雑な人間関係や、学生たちの裏の顔、後援会である『朱鳥会』のきな臭い噂など、外部の探偵では決して入り込めない領域があります。……その点、ここで犯罪心理学を教え、学生たちから絶大な人気を集めているあなたであれば、あらゆる情報が自然と集まってくるはずです」
エバは、天使養成校で培った絶対的な論理性と、奪衣婆として培った人間の欲望の本質を見抜く力をもって、油江を論破しにかかった。
「私が欲しいのは、あなたの持つキャンパス内の情報網と、犯罪心理学という人間界の学問に基づいた論理的な推論です。その代わり、私はあなたに、最高の『研究対象』を提供いたします」
「研究対象、ですか?」
油江が身を乗り出す。その表情は、未知の現象に遭遇した学者のように、純粋な探求心に満ち溢れていた。
「ええ。あなたは私の変化にいち早く気づき、私の奥に宿る『凄み』に興味を持たれた。……私は、人間の魂の奥底に隠された悪意や、罪の重さを、直感的に、そして正確に読み取ることができます。サイコパスやソシオパスといった後天的な理屈ではなく、絶対的な『善悪の天秤』として。私のこの特異な視点は、あなたの犯罪心理学の研究に、かつてない革新的な視座をもたらすはずですわ」
エバが不敵に微笑むと、油江はしばらく沈黙し、エバの顔を穴の開くほど見つめ返した。
彼には、エバが嘘をついているようには見えなかった。むしろ、彼女の言葉の端々から溢れ出す、この世のものとは思えない圧倒的な自信と、魂の底から冷たく光る気高さに、彼自身の心理学の常識が根底から揺さぶられるのを感じていた。
脳の構造や生育環境だけでは説明のつかない、もっと根源的な「何か」を彼女は持っている。
「……素晴らしい。実に魅力的な提案です。私利私欲のためではなく、純粋な真実の探求と、罪への裁きを目的とした同盟。私があなたに情報と論理的なサポートを提供し、あなたが私に、その常軌を逸した直感と洞察力による推論を提供する」
油江はゆっくりと立ち上がり、エバに向かって右手を差し出した。
「取引成立だ、菱倉さん。今日からあなたを、我が犯罪心理研究室の特別客員研究員として歓迎しましょう」
エバも立ち上がり、その大きな右手を優雅に握り返した。
「よろしくお願いいたしますわ、油江教授。……ただし、一つだけ条件がありますの」
「条件? 何でしょう」
「私のことを、あまり深く詮索しすぎないことですわ。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている……という言葉をご存知でしょう? 私の抱える秘密は、人間の脆弱な精神では到底耐えられないほどの質量を持っていますから」
エバが、わざと少しだけ凄みを利かせ、切れ長の瞳で油江の魂を真っ直ぐに射抜く。その瞬間、油江は自らの背筋に、氷を当てられたような冷たい悪寒が走るのを感じた。
それは、ただの女子大生が発する威圧感ではない。冥界の底で、何万という罪人を地獄へと送り出してきた官吏の、圧倒的な覇気であった。
「……肝に銘じておきましょう」
油江は冷や汗を微かに滲ませながらも、その知的好奇心を満たされる喜びに、ゾクゾクと震えるような笑みを浮かべた。
かくして、冥界のエリート奪衣婆と、人間界の若き天才犯罪心理学者という、前代未聞の奇妙な協力関係がここに結ばれたのである。
キャンパスに潜む罪のにおいは、彼らの張り巡らせた見えない蜘蛛の糸に、確実にかかりつつあった。次なる標的は、菱倉家を覆う深い闇か、それとも学園の女王たちが抱える醜い嫉妬か。エバの華麗なる事件簿の歯車が、音を立てて回り始めていた。
X(Twitter)でも連載しています。
https://x.com/TakumiFuji2025
魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




