若き犯罪心理学教授との邂逅(かいこう)㈠
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
ストーカーである犬飼幸男を圧倒的な恐怖で退けた翌日、エバは朱鳥女子大学のキャンパスから少し離れた、元町商店街の裏路地にある隠れ家的なカフェに足を運んでいた。
アンティーク調の家具が並び、焙煎されたばかりのコーヒー豆の芳醇な香りと、焼き立てのペストリーの甘い匂いが漂う店内は、洗練された横浜の街にふさわしい落ち着いた空間であった。無色無臭で一切の刺激が存在しなかった冥界の三途の川とは対極にある、人間の五感を強烈に、そして心地よく刺激する場所である。
窓際の特等席に座るエバの目の前には、季節のフルーツが山のように盛られた、宝石のように美しい巨大なパフェが置かれていた。
(本当に、人間界の『食』というシステムは、恐ろしいほどの魔力を持っているわね。肉体を維持するための単なるエネルギー補給であるはずなのに、どうしてこんなにも視覚や味覚を魅了するように作られているのかしら。これでは、強欲の罪を犯して餓鬼道に落ちる者が後を絶たないのも無理はないわ)
エバは内心で呆れながらも、銀色の長いスプーンを優雅な手つきで操り、甘酸っぱい苺と濃厚な生クリームを口へと運んだ。舌の上でとろけるような甘味と、冷たいアイスクリームの感触が脳髄を直接痺れさせる。彼女は、かつて天使養成校で学んだ「完璧なる美の体現」というストイックな教えを記憶の片隅に追いやりながら、人間界の甘美な毒にどっぷりと浸かっていた。
「新子、本当に大丈夫なの? そんなに大きなパフェ、退院したばかりの胃袋に入れて」
向かいの席から、呆れたような、しかし安心したような声がかけられた。親友の大崎夕子である。彼女は自身の前に置かれたアールグレイのティーカップを両手で包み込みながら、エバの恐るべき食欲を丸くした目で見つめていた。
「ええ、全く問題ないわ。むしろ、病院の食事が少し薄味だったから、今の私にはこれくらいの刺激が必要なのよ。それに、頭を使うと糖分が消費されると言うでしょう?」
エバが涼しい顔で答えながら次の一口を頬張ると、夕子の隣に座っていた長身の青年が、優しく、そして少しだけ心配そうな眼差しを向けてきた。
幼なじみの太田真喜である。彼は朱鳥女子大学の近隣にある共学の有名私立大学に通っているが、新子のことが心配で、講義の合間を縫ってわざわざこのカフェまで足を運んでくれていたのだ。
「頭を使うって、大学の講義のことか? 新子は昔から真面目だからな。でも、無理して遅れを取り戻そうとしなくてもいいんだぞ。俺にできることがあったら、ノートのコピーでも何でも手伝うから言ってくれ」
真喜はそう言うと、テーブルの上に置かれていたエバの左手に、自分の大きな右手をそっと重ねた。
その瞬間であった。エバの体内で、またしてもあの制御不能な「バグ」がけたたましい警報を鳴らし始めた。
トクン、と心臓が肋骨を突き破りそうなほど大きく跳ね、顔の表面温度が一気に上昇していくのがわかる。重ねられた真喜の手のひらから伝わってくる、力強くも優しい体温。そして、自分だけを真っ直ぐに見つめてくる、混じり気のない純粋な心配と親愛の情。
(っ……! またこれよ! 心拍数が急上昇して、思考回路がショートしそうになる。天使養成校では、愛は予測不可能な変数であり、特定の魂を贔屓して全体の調和を乱す原因となると教えられてきた。だからこそ、公的な判断を下す管理者において、このような感情は完全に排除されるべき個人的な汚濁だと……!)
エバは内心で必死に冥府法典の教えを復唱し、自らを落ち着かせようとしたが、人間の肉体が引き起こす生理的な反応、すなわち「恋」あるいは「ときめき」という強烈な化学反応を、精神論だけで抑え込むことは不可能であった。
「だ、大丈夫よ! 心配性ね、真喜は。手伝ってもらわなくても、学業の遅れくらい私一人でどうにでもなるわ」
エバは顔が真っ赤に染まるのを誤魔化すように、わざとツンとした冷たい態度をとり、真喜の手から自分の手をサッと引き抜いた。
容姿端麗な令嬢が、照れ隠しでそっぽを向くその姿は、図らずも彼女の本来の性質である「ツンデレ系」の魅力を最大限に引き出しており、真喜は少しだけ頬を掻きながら、眩しそうに目を細めた。
「そ、そうか。新子がそういうならいいけど……。でも、お前が屋上から落ちたって聞いた時は、本当に生きた心地がしなかったんだ。警察は事故か、あるいは突発的な自殺未遂の線で捜査を終わらせようとしているみたいだけど、俺は絶対に信じない。新子が自分から命を絶つなんてあり得ないし、あんなにフェンスの高い屋上から誤って落ちるはずがない。……絶対に、誰かが新子を突き落としたんだ」
真喜の声は低く、しかし確かな怒りと決意に満ちていた。彼の真っ直ぐな言葉に、夕子も力強く頷く。
「私も真喜と同意見よ。新子をあんな目に遭わせた犯人が、まだキャンパスのどこかでのうのうと笑っているかもしれないなんて、絶対に許せない。ねえ新子、本当に何も覚えていないの? 背中を押された時の感触とか、犯人の顔とか……」
二人の真剣な眼差しを前にして、エバはスプーンを置き、静かに伏し目がちになった。
彼女はすべてを理解している。背中を押した冷たい感触も、この肉体に渦巻いていた周囲の醜い欲望の数々も。昨日の夕暮れ、ストーカーの犬飼幸男の魂を「天秤」にかけたことで、彼が真犯人ではなく、ただの臆病な傍観者であることも突き止めている。
しかし、冥界のエリート官吏である自分が、人間界の警察組織や、この善良な友人たちに真実を明かすわけにはいかなかった。人間の作り出した法律や裁判所など、彼女から見ればひどく不完全で穴だらけのシステムに過ぎない。
人間界における死後の裁判は、初七日の秦広王から始まり、二七日の初江王、三七日の宋帝王、四七日の五官王、そして五七日の閻魔大王へと続く厳格なプロセスが存在する。閻魔大王は十王で唯一の「神」であり、亡者の罪を完璧に洗い出し、ふさわしい罰を証明することで罪と罰を確定させる、最も重要な存在である。エバはその閻魔大王の元妻であり、予備審問の役割を果たす奪衣婆なのだ。彼女の裁きは、人間の法律を遥かに超越した絶対的なものでなければならない。
「……ええ。本当に、何も覚えていないの。ただ、強い風が吹いて、気がついたら真っ逆さまに落ちていた……それだけよ」
エバは完璧な令嬢の仮面を被り、少しだけ声を震わせて見せた。
「そう……。無理に思い出させようとしてごめんね。でも安心して。私と真喜で、絶対に新子を守るから」
夕子が力強くエバの手を握りしめる。その温かな友情の感触に、エバの胸の奥底で、またしてもチクリとした痛みが走った。
(……同情、友情、情愛。すべて任務遂行に不要な感情だというのに。どうして人間界の住人は、こうも他人のために自分の心をすり減らすことができるのかしら。不確かで、脆くて、どうしようもなく愚か……なのに、どうしてこんなにも温かいの)
エバは、自分に向けられる純粋な思いやりに胸を締め付けられながら、静かに決意を固めていた。
この温かな世界を、善良な魂たちを、私利私欲にまみれた醜い悪意から守らなければならない。自らの命を狙ったふざけた犯人を、天道から地獄道まで、ありとあらゆる苦しみを以て裁きを下す。それが、奪衣婆として人間界に降り立った彼女の、新たな「業務」であった。
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