最初のターゲットと見え透いた罪の重さ㈠
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
朱鳥女子大学の広大な敷地の奥まった場所に位置する中央図書館は、歴史ある洋館をそのまま改築したような、重厚で静謐な空間であった。床から天井まで届く巨大なマホガニー製の書架が迷路のように入り組み、何十万冊という膨大な書物が整然と並べられている。古い紙とインクの匂い、そして微かなカビの香りが入り交じった独特の空気が、午後特有の気怠い陽光に照らされて、黄金色の埃の粒子を宙に漂わせていた。
エバは、人目につきにくい二階の閲覧席の片隅に陣取り、机の上に高く積み上げた分厚い専門書を猛烈な勢いで読み漁っていた。彼女が今目を通しているのは、人間界における「法律」や「犯罪心理学」、「異常行動学」に関する文献である。
冥界においては、死者の生前の行いを記録した「壇茶幢」というアイテムが存在する。それは亡者が行った善いことと悪いことをすべて自動的に、かつ寸分の狂いもなく記録し続ける絶対的なデータベースであった。さらに、亡者の生前の善悪の行いを全て映し出す「浄玻璃鏡」という水晶の鏡があり、そこでは嘘や隠し事が一切通じない。それらのアイテムと、初七日の秦広王から始まり、五十七日の閻魔大王へと続く厳格な裁判システムによって、罪と罰は機械的に、そして完璧に確定されていくのである。
しかし、人間界は違う。人間たちは不完全な記憶と主観的な証言を頼りに、自ら作り上げた「法律」というひどく曖昧で穴だらけのルールブックを用いて、同族の罪を裁こうとしている。エバにとって、それはひどく滑稽で非効率的なシステムに見えた。
(人間というのは、本当に不便で哀れな生き物ね。自分たちの欲望をコントロールできないくせに、いざ罪を犯せば精神鑑定だの、情状酌量だのと言い訳ばかり並べ立てる。天使養成校の『因果律シミュレーション演習』で学んだ絶対的な法則からすれば、彼らの法廷などお遊戯会に等しいわ)
エバは、パラパラと目にも留まらぬ速さでページをめくりながら、内心で毒づいた。彼女の脳は、人間界の膨大な情報をスポンジのように吸収し、冥府の絶対的基準と照らし合わせて再構築していく。
犯罪の動機は一つではなく、欲求不満、生育歴、精神的な問題など多様な要因が絡み合っていると人間の学者は言う。だが、エバからすれば、それはすべて「欲望」という一つの言葉に集約される。金銭欲、権力欲、自己顕示欲、傲慢、嫉妬、色欲、そして必要以上に欲しがる貪欲や、怒りの心である瞋恚、物事の道理がわからない愚痴。それらが臨界点を超えた時、人間は他者の権利を侵害し、犯罪という名の不協和音を奏でるのだ。
ふと、エバは本から視線を上げ、ピタリとページをめくる手を止めた。
背筋を、あの氷のように冷たく、ねっとりとした悪寒が這い上がってきたのである。
書架の隙間、薄暗い影の中から、自分をじっと見つめている強烈な視線。それは、午前中にキャンパスの渡り廊下で感じたものと全く同じ、異常な執着と歪んだ欲望のオーラであった。
(……またあいつね。ストーカーの、犬飼幸男。本当に鬱陶しいハエだわ)
エバは小さくため息をつき、読み終えた本を乱暴に閉じると、静かに席を立った。鞄を肩に掛け、あえて足音を忍ばせることなく、カツカツとヒールの音を響かせながら図書館の出口へと向かう。彼女が動くのに合わせて、書架の向こう側の影も、コソコソと、しかし確実に後をついてくるのが気配でわかった。
図書館を出ると、空はすでに茜色に染まり始めていた。多くの学生は帰路につき、あるいはサークル活動へと向かっており、キャンパスのこの一角は人影がまばらになっていた。エバは、正門に待たせている河上のベンツへ向かうメインストリートをあえて外し、旧校舎の裏手へと続く、鬱蒼とした木々に囲まれた薄暗い小道へと足を踏み入れた。
相手を誘い込むための、見え透いた罠である。しかし、狂気に囚われたストーカーは、その程度の罠にも容易く引っかかる。
小道の中ほどまで進んだところで、エバはピタリと足を止め、ゆっくりと振り返った。
「いつまでコソコソと後をつけてくるおつもり? 犬飼幸男さん」
エバの冷たく、そして美しく響く声が、夕暮れの静寂を切り裂いた。
ビクッ、と大きな音が聞こえそうなほど、木陰に隠れていた人影が震えた。やがて、観念したのか、あるいは自らの歪んだ妄想が肯定されたと勘違いしたのか、薄暗がりの中から一人の小柄な男が、へらへらと薄気味悪い笑みを浮かべながら姿を現した。
「し、新子さん……。気づいて、くれていたんだね。うれしいな……僕のこと、待っていてくれたんだ」
男は、サイズの合っていないよれよれのチェックのシャツを着て、脂ぎった髪を額に貼り付かせていた。分厚い眼鏡の奥の目は、エバの全身を舐め回すように激しく動き、荒い呼吸とともに安物のコロンと汗の入り交じった不快な臭いを撒き散らしている。
彼こそが、新子に長年付き纏い、異常な執着を抱いているストーカー、犬飼幸男であった。彼は朱鳥女子大学の学生ではなく、近隣の大学に通う学生だが、新子の完璧な美しさに魅了され、勝手に「運命の恋人」だと思い込んでいる危険な存在だ。
「待っていたわけではありません。あなたのその薄汚い視線と、周囲の空気を汚染するような悪臭に耐えられなくなっただけですわ。これ以上私に近づくのであれば、然るべき処置をとりますよ」
エバは一切の感情を排した、氷河のように冷徹な声で言い放った。以前の新子であれば、彼の異常な行動に怯え、泣き出しそうになりながら逃げていただろう。しかし、エバは一歩も退かず、見下すような視線で彼を真っ直ぐに射抜いた。
しかし、犬飼はそのエバの冷たい拒絶すらも、自らに都合の良いように変換してしまう狂気を持っていた。
「そんな強がらなくていいんだよ、新子さん。君が怯えているのはわかっている。……あの屋上の事件のこと、だろう?」
犬飼が一歩、また一歩と距離を詰めてくる。その顔には、相手の弱みを握ったという下劣な優越感と、支配欲が露骨に浮かび上がっていた。
「僕は知っているんだ。君が突き落とされたあの日のこと。君の周りにいる連中は、みんな君の財産や美しさを妬んでいる悪い奴らばかりだ。でも、僕だけは違う。僕だけは、純粋に君のことを愛している。だから、僕が君を守ってあげるよ。僕の言うことだけを聞いていれば、君は安全なんだ……!」
犬飼は興奮で唾を飛ばしながら、エバの腕を掴もうと、脂ぎった手を伸ばしてきた。
その瞬間であった。
エバの脳裏で、ブツン、と何かが切れる音がした。
それは、冥界のエリート官吏としての矜持であり、絶対的な「美と調和」を愛する者としての逆鱗に触れた音であった。
(この程度の薄汚い欲望で、私に触れようなどと……万死に値するわ!)
エバが鋭く目を細めた瞬間、彼女の周囲の空気が、物理的な法則を無視して凄まじい勢いで歪んだ。
バチバチッ、と目に見えない静電気が弾け、周囲の気温が急激に低下する。木々の葉が異常なざわめきを立て、夕暮れの赤い光が、まるで一瞬にして色彩を奪われたかのように、白と黒のモノクロームの世界へと反転していくような錯覚に陥った。
それは、エバの人間界での覚醒能力が、無意識のうちに完全な形で発動した瞬間であった。
善人と悪人を見分け、悪の重さを量ることができるという奪衣婆の本来の異能。
エバの視界の中で、犬飼の肉体は次第に透明になり、その奥底にある「魂」の形が露わになっていく。三途の川のほとりで、六文銭を持たぬ亡者の衣服を剥ぎ取ってきたあの感覚が、エバの両手に鮮明に蘇る。
(さあ、見せなさい。あなたの魂に染み付いた、その見え透いた罪の重さを)
X(Twitter)でも連載しています。
https://x.com/TakumiFuji2025
魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




