第21話:揺らぎの隙間
空間が、軋む。
レグルスの周囲では、厳格に固定されていた世界に微かなノイズが混ざり始めている。
かつては決して存在しなかった、わずかな“誤差”だ。
クロエが口元を緩めて笑みを浮かべる。
「見えてきたじゃん」
レグルスは答えず、ただ静かにこちらを見据えている。
感情の読み取れない瞳の奥に、だが確かなほんの少しの揺らぎが生まれていた。
セレナが低い声で呟く。
「……迷っているのか」
その瞬間、周囲の圧力が急激に高まる。
空間が強固に固定され、宙に舞う瓦礫も、流れる風も、
すべてが凍りつくように止まった。
クロエの足元も一瞬動きを封じられかけるが、以前ほどの絶対的な拘束力はない。
クロエは躊躇なく前へ踏み込む。
「遅い!」
鋭く放たれた拳が、レグルスの頬をかすめて通り過ぎる。確定された領域の中で、初めて攻撃が届いた瞬間だった。
レグルスの瞳が大きく揺れ、困惑を帯びた声が漏れる。
「……なぜだ」
クロエは挑むように笑う。
「選んだからだろ」
次の瞬間、レグルスの周囲に無数の光線が走り、固定の法則が再び演算し直される。
空間そのものが組み替えられ、世界の構造が書き換えられていく。
「来るぞ!」
セレナが鋭く叫んだ。
目の前の道が忽然と消え、空間が折り重なり、上下の感覚さえ逆転する。
クロエは舌打ちをする。
「やりたい放題かよ……!」
エルの瞳にも不穏なノイズが走り、冷静な報告の声が響く。
「領域の再固定を確認。このままでは、まだ定まっていない部分がすべて圧縮されてしまう」
セレナはレグルスの姿を見つめ、言葉を吐く。
「あいつ……戦うたびに、状況を学習している」
レグルスの落ち着いた声が空間に響き渡る。
「排除するだけでは不十分。
揺らぎそのものを、完全に閉ざす」
その言葉と同時に、クロエの左腕が内側から大きく崩れ始める。
「っ……!」
指先から砕け、かき消えるようにノイズが散っていく。
レグルスはその様子を見て、事実を告げる。
「不安定な存在だ。もうじき、形を保つ限界を迎える」
クロエは苦痛に顔を歪めながらも、なお笑みを絶やさない。
「だったら、その前に殴り倒すまでだ」
再び踏み込もうとした矢先、視界が不自然にずれ、
一瞬だけ別の光景が浮かび上がった。
静かで穏やかな部屋、そこには笑顔のエルがいて、争いも苦痛も存在しない、理想的な世界の残り香が漂っている。
クロエの動きが、わずかに止まりかける。
レグルスが静かに誘うように言う。
「戻ることもできる。何も苦しむことのない、安らかな場所へ」
沈黙が流れ、クロエの瞳がかすかに揺らぐ。
ほんの一瞬、心が引き寄せられかけたその時――
「見るな」
低く鋭い声が響き、セレナがクロエの前に立ちはだかった。白と黒の大きな翼が広がり、目の前に映る幻想を遮る。
「それは与えられた偽物だ。“お前自身が選んだもの”ではない」
空間が激しく揺れ、幸福な世界の映像はノイズとなって崩れ去っていく。
クロエは大きく息を吐き、肩の力を抜く。
「……助かった」
セレナは淡々と言い放つ。
「今のは貸しだからな」
クロエはまた楽しげに笑う。
「なんだか、返すのに随分と値が高そうな貸しだな」
その時、ずっと後ろにいたエルがゆっくりと前へ歩み出る。体の輪郭にはノイズが混ざり、以前よりも存在感が薄れているにもかかわらず、その瞳だけははっきりとレグルスを捉えて離さない。
「観測結果を更新する」
レグルスは眉をひそめる。
「……何だと?」
エルの声が響く。
静かで、だがどこかこの世界の枠を超えたような、不思議な響きを帯びていた。
「お前はまだ、選択というものの意味を、本当には理解していない」
空気がぴたりと止まり、レグルスの瞳が、この戦いで初めて激しく大きく揺れ動いた。
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