新たなる風
三日後。
灰ノ原の春は、結界の中で一段と穏やかだった。
永久完了相の結界は、魔獣の侵入を防ぐだけではなかった。碑石の循環因果が安定したことで、結界内の魔力の流れが整い、長年灰色に曇っていた空が——ほんの少しだけ、青みを帯び始めていた。
「空が……青い」
グスタフが旧鉱山事務所の前で空を仰ぎ、目を細めた。
「灰ノ原の空が青いのなんて、俺が生まれてから初めてだ」
「灰色だったのは、結界の不完全な魔力が大気中に灰を残留させていたからだ。結界の循環因果が完了して漏洩魔力がなくなったことで、大気が本来の状態に戻りつつある」
エルネストが横から解説した。頭にまだ包帯を巻いているが、体はだいぶ回復している。
「先生。いっつも理屈っぽいな」
「言語学者だからな」
「知ってるよ」
グスタフが笑った。
* * *
旧鉱山事務所の大広間。
エルネストの弟子たちが集まっていた。包帯だらけの姿だが、全員が生きている。
ライナーの右腕は動くようになったが、まだ握力が戻っていない。クララの声は嗄れたままで、囁くような声しか出ない。テオドールは松葉杖をついているが、魔力はゆっくりと回復しつつある。
「今日は一つ、報告がある」
エルネストが全員を見渡した。
「灰ノ原の永久結界は安定している。碑石の循環因果は自己完結しており、もう人間が維持する必要はない。——つまり、僕たちの仕事は終わった」
全員が黙った。「仕事が終わった」——その言葉の意味を、それぞれが噛みしめている。
「これで、灰ノ原は安全になった。自警団とグスタフが街を守り続けられる。風詠み族の隠れ谷も、結界の恩恵で安定する」
「先生、それは……出発するってことですか」
テオドールが松葉杖を握りしめた。
「永遠にここにいるわけにはいかない。僕たちはまだ学院を逃げ出した身だ。鎮語官は退いたが、王国の追手がいなくなったわけじゃない。——次の場所を探す必要がある」
「次の場所って……」
「碑石は灰ノ原だけのものじゃない。この大陸のどこかに、まだ解読されていない古代語の遺構があるはずだ。鎮語官が支配する『沈黙』の範囲を狭めるためには、古代語の知識を広めなければならない。——つまり」
エルネストは黒板にチョークで書いた。
『灰色の教室・巡回講座(仮)』
「移動しながら教える」
「……先生、名前のセンスが壊滅的です」
ティアが額を押さえた。
「仮だ。仮の名前だ」
「仮でもひどいです」
笑い声が広がった。
* * *
午後。中央広場の噴水跡——永久完了相の詠唱を行った場所。
アイラが、噴水の縁に腰掛けていた。その隣に、エルネストが座った。
「決めたわ」
アイラが先に口を開いた。
「あなたたちと一緒に行く」
「……長老には話したのか」
「さっき。長老は——笑ってた」
アイラは空を見上げた。結界の光が薄く空に漂い、春の風がその中を吹き抜けていく。
「長老はね、言ったの。『お前の口笛は、谷の中に留めておくには惜しい。世界に聴かせてやれ』って」
「長老らしいな」
「それと、『あの言語学者には、翻訳できない言葉を一つ教えてやれ』って」
「翻訳できない言葉?」
アイラは口元に手を当てて笑った。
「それは秘密。——いつか教えてあげる」
エルネストは戸惑ったが、それ以上は聞かなかった。
「アイラ。一つだけ確認させてくれ」
「なに」
「灰色の教室は、翻訳と文法の研究チームだ。華やかな冒険も、英雄的な戦いも、基本的にはない。地味な碑文の解読作業と、延々と続く文法論の議論と、たまに魔獣に追いかけられる——そういう旅だ」
「知ってるわ。六日間ずっと見てた」
「それでもいいのか」
「いいに決まってるでしょ」
アイラは立ち上がった。
「私は翻訳者になりたいの。あなたたちの言葉と、私たちの言葉を繋ぐ人に。——それに」
アイラは右手の甲を見せた。そこには、風露草で描いた風紋のタトゥーが残っている。ティアとクララにも同じものを描いた、あの夜の名残。
「もう仲間でしょ」
エルネストは、少しだけ笑った。
「ようこそ、灰色の教室へ」
* * *
出発の朝。
灰ノ原の南門に、全員が集まっていた。
エルネスト。ティア。レオンハルト。ライナー。クララ。テオドール。そして——アイラ。
七人の「灰色の教室」。
見送りに来たのは、グスタフと自警団の面々、そして風詠み族の一団。長老ニナは谷に帰ったが、ガロが代わりに来ていた。
「先生。また来てくれよ」
グスタフが不器用に手を差し出した。
「碑石の調子がおかしくなったら——」
「おかしくならない。永久完了相は永久だ。文字通り、永遠に続く」
「それでもだ。いつでも帰ってこい。この街はあんたの——あんたたちの街だ」
エルネストはグスタフの手を握った。
「ありがとう。グスタフ」
ガロがアイラの前に立った。
「アイラ。寂しくなったら口笛を吹け。風が届けてくれる」
「届かないわよ、距離的に」
「気持ちの問題だ」
ガロが歯を見せて笑った。アイラも笑った。
ディルクは城壁の上に立ち、腕を組んでこちらを見下ろしていた。
「ディルク。来ないのか」
レオンハルトが見上げた。
「行かない。俺は一人のほうが性に合う。——だが」
ディルクが鉄色の目でエルネストを見た。
「言語学者。お前の文法は面白い。次に会う時まで、もう少し研究を進めておけ。S判定に合う文法構造を、本気で設計してくれ」
「注文が多いな」
「お前が世界一の言語学者なら、できるだろう」
ディルクが背を向けた。
「じゃあな」
それだけ言って、城壁の向こう側に消えた。
* * *
灰ノ原の南門を抜けると、結界の光に守られた荒野が広がっていた。
かつて灰色一色だった大地に、ところどころ緑の芽が覗いている。結界が大気を浄化し始めた証だ。
エルネストは門を振り返った。
旧鉱山事務所の窓に、誰かがチョークで書いた文字が見えた。
『灰色の教室、ここにありき』
「……誰が書いたんだ、あれ」
「テオドールに決まってるでしょ。記録係ですから」
ティアが笑った。
エルネストは前を向いた。
荒野の向こうに、まだ見ぬ土地が広がっている。まだ解読されていない碑文が、まだ正されていない誤訳が、まだ出会っていない方言が——どこかで、読まれるのを待っている。
言語学者の旅は、まだ始まったばかりだ。
「さあ——行こう」
七人が、新しい風の中を歩き出した。




