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魔法が全く使えない「言語学者」、異世界の古代語を解読したら全ての呪文の"誤訳"に気づいてしまった  作者: なは
第6章:完了形の必殺技

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新たなる風

 三日後。


 灰ノ原の春は、結界の中で一段と穏やかだった。


 永久完了相の結界は、魔獣の侵入を防ぐだけではなかった。碑石の循環因果が安定したことで、結界内の魔力の流れが整い、長年灰色に曇っていた空が——ほんの少しだけ、青みを帯び始めていた。


「空が……青い」


 グスタフが旧鉱山事務所の前で空を仰ぎ、目を細めた。


「灰ノ原の空が青いのなんて、俺が生まれてから初めてだ」


「灰色だったのは、結界の不完全な魔力が大気中に灰を残留させていたからだ。結界の循環因果が完了して漏洩魔力がなくなったことで、大気が本来の状態に戻りつつある」


 エルネストが横から解説した。頭にまだ包帯を巻いているが、体はだいぶ回復している。


「先生。いっつも理屈っぽいな」


「言語学者だからな」


「知ってるよ」


 グスタフが笑った。


     * * *


 旧鉱山事務所の大広間。


 エルネストの弟子たちが集まっていた。包帯だらけの姿だが、全員が生きている。


 ライナーの右腕は動くようになったが、まだ握力が戻っていない。クララの声は嗄れたままで、囁くような声しか出ない。テオドールは松葉杖をついているが、魔力はゆっくりと回復しつつある。


「今日は一つ、報告がある」


 エルネストが全員を見渡した。


「灰ノ原の永久結界は安定している。碑石の循環因果は自己完結しており、もう人間が維持する必要はない。——つまり、僕たちの仕事は終わった」


 全員が黙った。「仕事が終わった」——その言葉の意味を、それぞれが噛みしめている。


「これで、灰ノ原は安全になった。自警団とグスタフが街を守り続けられる。風詠み族の隠れ谷も、結界の恩恵で安定する」


「先生、それは……出発するってことですか」


 テオドールが松葉杖を握りしめた。


「永遠にここにいるわけにはいかない。僕たちはまだ学院を逃げ出した身だ。鎮語官は退いたが、王国の追手がいなくなったわけじゃない。——次の場所を探す必要がある」


「次の場所って……」


「碑石は灰ノ原だけのものじゃない。この大陸のどこかに、まだ解読されていない古代語の遺構があるはずだ。鎮語官が支配する『沈黙』の範囲を狭めるためには、古代語の知識を広めなければならない。——つまり」


 エルネストは黒板にチョークで書いた。


 『灰色の教室・巡回講座(仮)』


「移動しながら教える」


「……先生、名前のセンスが壊滅的です」


 ティアが額を押さえた。


「仮だ。仮の名前だ」


「仮でもひどいです」


 笑い声が広がった。


     * * *


 午後。中央広場の噴水跡——永久完了相の詠唱を行った場所。


 アイラが、噴水の縁に腰掛けていた。その隣に、エルネストが座った。


「決めたわ」


 アイラが先に口を開いた。


「あなたたちと一緒に行く」


「……長老には話したのか」


「さっき。長老は——笑ってた」


 アイラは空を見上げた。結界の光が薄く空に漂い、春の風がその中を吹き抜けていく。


「長老はね、言ったの。『お前の口笛は、谷の中に留めておくには惜しい。世界に聴かせてやれ』って」


「長老らしいな」


「それと、『あの言語学者には、翻訳できない言葉を一つ教えてやれ』って」


「翻訳できない言葉?」


 アイラは口元に手を当てて笑った。


「それは秘密。——いつか教えてあげる」


 エルネストは戸惑ったが、それ以上は聞かなかった。


「アイラ。一つだけ確認させてくれ」


「なに」


「灰色の教室は、翻訳と文法の研究チームだ。華やかな冒険も、英雄的な戦いも、基本的にはない。地味な碑文の解読作業と、延々と続く文法論の議論と、たまに魔獣に追いかけられる——そういう旅だ」


「知ってるわ。六日間ずっと見てた」


「それでもいいのか」


「いいに決まってるでしょ」


 アイラは立ち上がった。


「私は翻訳者になりたいの。あなたたちの言葉と、私たちの言葉を繋ぐ人に。——それに」


 アイラは右手の甲を見せた。そこには、風露草で描いた風紋のタトゥーが残っている。ティアとクララにも同じものを描いた、あの夜の名残。


「もう仲間でしょ」


 エルネストは、少しだけ笑った。


「ようこそ、灰色の教室へ」


     * * *


 出発の朝。


 灰ノ原の南門に、全員が集まっていた。


 エルネスト。ティア。レオンハルト。ライナー。クララ。テオドール。そして——アイラ。


 七人の「灰色の教室」。


 見送りに来たのは、グスタフと自警団の面々、そして風詠み族の一団。長老ニナは谷に帰ったが、ガロが代わりに来ていた。


「先生。また来てくれよ」


 グスタフが不器用に手を差し出した。


「碑石の調子がおかしくなったら——」


「おかしくならない。永久完了相は永久だ。文字通り、永遠に続く」


「それでもだ。いつでも帰ってこい。この街はあんたの——あんたたちの街だ」


 エルネストはグスタフの手を握った。


「ありがとう。グスタフ」


 ガロがアイラの前に立った。


「アイラ。寂しくなったら口笛を吹け。風が届けてくれる」


「届かないわよ、距離的に」


「気持ちの問題だ」


 ガロが歯を見せて笑った。アイラも笑った。


 ディルクは城壁の上に立ち、腕を組んでこちらを見下ろしていた。


「ディルク。来ないのか」


 レオンハルトが見上げた。


「行かない。俺は一人のほうが性に合う。——だが」


 ディルクが鉄色の目でエルネストを見た。


「言語学者。お前の文法は面白い。次に会う時まで、もう少し研究を進めておけ。S判定に合う文法構造を、本気で設計してくれ」


「注文が多いな」


「お前が世界一の言語学者なら、できるだろう」


 ディルクが背を向けた。


「じゃあな」


 それだけ言って、城壁の向こう側に消えた。


     * * *


 灰ノ原の南門を抜けると、結界の光に守られた荒野が広がっていた。


 かつて灰色一色だった大地に、ところどころ緑の芽が覗いている。結界が大気を浄化し始めた証だ。


 エルネストは門を振り返った。


 旧鉱山事務所の窓に、誰かがチョークで書いた文字が見えた。


 『灰色の教室、ここにありき』


「……誰が書いたんだ、あれ」


「テオドールに決まってるでしょ。記録係ですから」


 ティアが笑った。


 エルネストは前を向いた。


 荒野の向こうに、まだ見ぬ土地が広がっている。まだ解読されていない碑文が、まだ正されていない誤訳が、まだ出会っていない方言が——どこかで、読まれるのを待っている。


 言語学者の旅は、まだ始まったばかりだ。


「さあ——行こう」


 七人が、新しい風の中を歩き出した。


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