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魔法が全く使えない「言語学者」、異世界の古代語を解読したら全ての呪文の"誤訳"に気づいてしまった  作者: なは
第7章:語用論の戦場

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旅立ちの文法

 灰ノ原を出て三日が経った。


 灰色の荒野は、いつの間にか赤茶けた土の道に変わっていた。道の両側には背の低い灌木がまばらに生え、時折、風に乗って土埃の匂いとは違う、青い草の匂いが鼻をかすめる。


 七人の足取りは軽い。


 先頭を走るように歩くのはアイラだ。風詠み族の少女は、三歩ごとに短い口笛を吹いて周囲の地形を音で確かめている。彼女にとっては呼吸と同じように自然な習慣らしく、その澄んだ音色はいつしか旅の伴奏のようになっていた。


「先生。そろそろ昼休憩にしませんか」


 ティアが隣に並んだ。右手にはエルネストの代わりに荷物袋を持っている。エルネストが荷物を持つと歩きながらノートを開けないから、という理由で自発的に引き受けたのだ。


「もう少しだけ。あの丘を越えたら見えるはずだ」


 エルネストの目は手元の開かれた封印碑銘録(ふういんひめいろく)に落ちていた。歩きながら文献を読む姿は危なっかしいが、足元を見ずに歩いても石に躓かないのは、地下教室の暗闘以来の習慣で足裏の感覚が鋭くなっているためだ。


「何が見えるんだ」


 レオンハルトが後方から声をかけた。弟子たちを背後に庇うように殿を歩いている。左手の甲には、鎮語官の短刀で切られた傷跡がまだ薄く残っていた。


白石(しらいし)の街だ。碑銘録の記述によれば、灰ノ原から南東に三日の位置に古代碑石群を持つ辺境都市がある。名前は——」


 エルネストが碑銘録の一節を指でなぞった。


「ヴァイスシュタイン。白い石灰岩の城壁で築かれた、鉱山と交易の街だ。灰ノ原と同じ千年前の古代超帝国の影響圏に入っている。つまり——碑石がある」


「碑石があるなら結界もあるってことか。灰ノ原と同じように壊れてるのか」


「わからない。だからこそ調べに行く」


 エルネストは碑銘録を閉じ、前方を見据えた。灰色がかった瞳に、碑文を前にした時と同じ静かな渇望が灯っている。


「灰ノ原の碑石は十六基。すべて鉱山方言で書かれていた。だがヴァイスシュタインの碑石がどんな方言を使っているかは、行ってみなければわからない。同じ古代語でも、土地ごとに方言が異なる。語彙も、活用も、発音も」


「つまり、灰ノ原で覚えた攻略法がそのまま使えるとは限らない?」


「おそらく使えない」


 ティアが少し驚いた顔をした。


 六日間かけて解読し、命がけで起動した永久完了相の技術。あれほどの苦労を経て手に入れたものが、別の土地では一からやり直しになるのか——と、その表情が語っていた。


「先生、それって大変なんじゃ……」


 後方で松葉杖をつきながら歩くテオドールが、心配そうに口を挟んだ。魔力枯渇の後遺症はだいぶ回復したが、長距離歩行にはまだ杖が要る。


「大変だ。だが、それこそが面白い」


 エルネストの口角がわずかに上がった。


「灰ノ原の碑石は防御の概念を『見張りヴァッハ』という動詞で表していた。だがヴァイスシュタインの碑石が同じ概念を全く違う動詞で表している可能性がある。もしそうなら——同じ『守る』という行為が、土地によって全く異なる文法で記述されていることになる。言語学者にとって、それは宝の山だ」


「先生は本当に……碑文のことになると楽しそうですよね」


 ティアが呆れと敬意の入り混じった声で言った。


「学者だからな」


     * * *


 丘を越えた時、ライナーが声を上げた。


「おおっ! 見えただ! 白い!」


 赤茶けた荒野の向こうに、その街は唐突に姿を現した。


 白かった。


 低い丘陵に囲まれた盆地の底に、石灰岩で組まれた城壁がぐるりと街を囲んでいる。灰ノ原の灰色とも、王都の黒い煉瓦とも違う、白い壁。午後の陽光を受けて淡く輝いており、遠目にはまるで雪が積もっているかのようだった。


「綺麗……」


 クララが声にならない声で呟いた。彼女の声帯はまだ完全には回復しておらず、囁き声がやっとだ。だがその目は、白い城壁の美しさに見開かれていた。


「城壁の外側に、何か立ってるのが見えないか」


 レオンハルトが目を凝らした。


 確かに、白い城壁に沿って等間隔に石柱のようなものが並んでいる。全部で十二本。高さは城壁よりやや低く、灰ノ原の碑石より一回り小さい。


「碑石だ」


 エルネストが断言した。


「十二基。灰ノ原より四基少ないが、配置パターンが酷似している。千年前の古代超帝国が広域に設置した防衛碑石網の一部だ」


「あの碑石は生きてるの?」


 アイラが口笛を長く吹いた。探知の旋律だ。遠距離であっても、微弱な魔力の脈動を音で拾うことができる。


「……弱いけど、何かが脈打ってる。灰ノ原の碑石ほど強くはないわ。でも完全に沈黙してるわけでもない」


「中途半端に生きている碑石か。それは——解読のしがいがあるな」


 エルネストの目が輝いた。新しい碑文、新しい方言、新しい土地の言葉。言語学者としての本能が全身を震わせている。


「先生。あの顔してる時は大体、大変なことになるんですよね」


 ティアが隣のアイラに囁いた。


「知ってる」


 アイラが苦笑した。風詠み族の少女は、たった数日の旅でもう「灰色の教室」の空気を完全に掴んでいた。


     * * *


 街に向かう道すがら、エルネストはアイラの隣を歩き始めた。


「アイラ。一つ聞きたい」


「また発声器官の観察?」


「違う。——今回は純粋な質問だ」


 アイラが半信半疑の目を向けた。


「風詠み族の口笛言語で、『守る』に相当する音はいくつある?」


「いくつ、って……一つよ。こう」


 アイラが短い口笛を吹いた。高音から低音へ滑り降りるような、二拍の旋律。


「それが『守る』の基本形か。——じゃあ、『壁で囲んで守る』と、『見張って守る』では、同じ口笛を使うのか?」


 アイラは少し考えた。


「違うわね。壁で守るなら——」


 別の口笛。先ほどより低く、重い音。


「見張って守るなら——」


 今度は高く、鋭い音。


「全然違うな」


 エルネストの手がノートに走った。歩きながらでも字は正確だ。


「同じ『守る』でも、その方法や状況——つまり文脈によって言葉が変わる。これは抱合語の特性だ。一つの音の中に動作の種類、方向、対象の状態まで圧縮して含めている」


「王国の言葉だと、全部同じ『守る』なの?」


「標準古代語では『ヴェール(守れ)』一語で済ませることが多い。修飾語を足さないと文脈が伝わらない。だが灰ノ原の方言では、それが『ヴァッハ(見張れ)』に変化していた。土地に根ざした防御の在り方が、言葉の形を変えたんだ」


「じゃあ、白石の街の碑石はまた違う『守る』を使ってるかもしれないってこと?」


「その通りだ。僕が灰ノ原で覚えた『ヴァッハ』は、鉱山の民が使った見張りの言葉だ。ヴァイスシュタインが交易の街なら、防御の発想そのものが違うかもしれない。壁で囲む、道を塞ぐ、門を閉じる——土地の歴史と暮らしが、碑石の文法に刻まれている」


 アイラは黙ってエルネストの横顔を見つめた。


 この男は碑石について語る時が一番生き生きしている。恋愛にも美味しい食事にも興味を示さないくせに、古い石に刻まれた方言の差異だけで、子供のように目を輝かせる。


 言語学者とは、つくづく奇妙な生き物だ。


「……エルネスト」


「なんだ」


「あなた、碑石が恋人なんじゃない?」


「碑石は喋ってくれるからな。文法的に正しく」


「それ、最悪の回答よ」


 アイラがため息をつき、ティアが後ろで深く頷いた。


     * * *


 夕暮れ前に、一行はヴァイスシュタインの北門に辿り着いた。


 門は開いていたが、二人の衛兵が槍を交差させて行く手を塞いだ。


「止まれ。街への立ち入りには代官府の許可が要る。身分と目的を述べよ」


「エルネスト・ラング。言語学者だ。こちらは僕の生徒たちと護衛。この街の城壁に並ぶ碑石の調査と修復の申し入れのために来た」


 衛兵が怪訝な顔をした。


「碑石? あの古い石柱のことか。あれは先代の代官が撤去しようとして失敗した、ただの邪魔な遺物だぞ。調査して何になる」


「あの碑石は千年前の結界システムの一部だ。修復すれば、この街の魔獣被害を大幅に軽減できる可能性がある」


 衛兵の目つきが変わった。


「……魔獣被害を?」


「ああ。ここ数年、魔獣の活動が活発化しているだろう。碑石の結界が衰弱しているためだ」


 衛兵たちが顔を見合わせた。やがて一人が槍を下ろした。


「代官のヘルマン殿に取り次ぐ。中で待て。——ただし、魔法は街の中では使うなよ。辺境法で禁じられている」


 七人が門をくぐった。


 白い石畳の通りが夕日に染まって淡い橙色に輝いている。街の規模は灰ノ原の三倍ほど。石灰岩の建物が整然と並び、通りには馬車や荷車が行き交い、辺境にしてはそれなりの活気がある。


「灰ノ原とは雰囲気が全然違うな」


 レオンハルトが周囲を見渡した。


「灰ノ原は鉱山の街だった。鉄と汗と煤の匂いがした。ここは——」


「石灰と香辛料の匂いだ。交易路の中継地だな。南方の品物が流通している」


 エルネストが街の空気から情報を読み取った。言語学者は言葉だけでなく、その言葉が生まれた文化の痕跡にも敏感だ。


 衛兵に案内されて、一行は代官府の待合室に通された。


 エルネストは椅子に座ると、すぐにノートを開いた。門をくぐる前に一瞥した碑石の外観を、記憶だけで素描し始める。石柱の高さ、碑文の位置、文字の刻み方——まだ近づいてもいないのに、観察はもう始まっていた。


「先生。代官への挨拶の仕方とか、考えなくていいんですか」


 ティアが横からノートを覗き込んだ。


「挨拶?」


「はい。第一印象は大事ですよ。灰ノ原ではグスタフさんが好意的でしたけど、ここの代官がどういう人かわかりません」


「ティア。僕は碑石と話す方が得意なんだ」


「だから困るんです」


 ティアは嘆息し、アイラと顔を見合わせた。アイラが肩をすくめた。


「任せて。挨拶は私とティアでやるわ」


「頼む」


 エルネストは生返事をして、ノートに没頭した。


 碑石の素描の横に、小さな文字で書き加える。


 ——灰ノ原とは異なる方言体系の可能性。現地調査を最優先。


 その下にもう一行。


 ——同じ文法が通じない場合、言葉の「意味」は何に依存しているのか?


 ペンが止まった。


 分かっている。答えは「文脈」だ。


 言語学では「語用論プラグマティクス」と呼ぶ。同じ文でも、使われる場所、使う人、使われる状況——つまり文脈が変われば、意味は変わる。文法だけでは言葉は完成しない。文脈が加わって初めて、言葉は「意味を持つ」のだ。


 灰ノ原では、鉱山の民の歴史と文化が碑石の「文脈」だった。だからこそ、その文脈を読み解くことで碑石は応えてくれた。


 ならば、この白石の街の碑石に応えてもらうには——この街の「文脈」を読み解かなければならない。


「新しい碑石、新しい方言、新しい文脈か」


 エルネストは窓の外に並ぶ白い碑石を見つめた。


 夕陽に照らされたそれらは、千年の眠りの中で何を語りかけているのだろう。


 言語学者の旅は、新しい言葉との出会いの連続だ。


 そしてその度に、まだ知らない文法が彼を待っている。


「さあ——ここの言葉を聞かせてもらおうか」


 エルネストは静かに呟き、ノートのペンを握り直した。


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