六日間の設計図
翌朝。旧鉱山事務所の大広間に、全員が集まった。
エルネストの前には、巨大な石板が据えられている。その表面に、チョークで描かれた灰ノ原の碑石配置図と、八基分の碑文の断片が並んでいた。
「まず現状を整理する」
エルネストは石板を指し示しながら、教室の教師そのものの口調で切り出した。
「灰ノ原を囲む結界碑石は全十六基。完全に動作しているのが四基。碑文が残っていてロカール・キャストで一時起動可能なのが八基。碑文が完全に消失して復元不能なのが四基」
「つまり、先生が直せるのは八基まで、ということですね」
ティアが確認した。
「そうだ。だが、八基を永久完了相で恒久的に起動できれば、四基が沈黙していても結界の『文法的完全性』は——」
エルネストはチョークで碑石の配置図に線を引いた。
「八割の結界強度を維持できる。鋼牙獣の群れ程度なら、余裕を持って防げるレベルだ」
「八割か。悪くない数字だな」
レオンハルトが腕を組んだ。
「問題は、その八基を同時に永久完了相で上書きする手順だ。一基ずつ順番に直したのでは、先に直した碑石の魔力が後の作業中に消耗して——」
「元に戻る。だから同時にやらなきゃいけない」
アイラが補った。
「そういうことだ。八基の碑石を、同時刻に、同期させて起動する必要がある。——そして、そのためには六日間の準備が要る」
エルネストは石板の空白部分に、六日間の工程表を書き始めた。
「第一日・第二日。碑石八基の碑文を一基ずつ巡回し、方言の文法構造を完全に解読する。碑石ごとに方言の癖が微妙に違う。その差異を全て記録する」
「全部先生が回るんですか?」
テオドールが心配そうに尋ねた。
「碑文を読めるのは僕だけだ。——だが、護衛と記録は分担する」
エルネストは弟子たちを見渡した。
「ティアとレオンハルトが僕の護衛。碑石の周辺で魔獣が来ないよう警戒してくれ。ライナーとクララは自警団と共に防衛線の維持。テオドールは——」
「記録係ですね」
テオドールがノートを掲げた。エルネストの弟子の中で最も筆記が正確な男だ。
「僕が読み上げた碑文を、一字一句正確に書き写してくれ。間違いは許されない。一つの文字のズレが、結界の文法を崩す」
「任せてください」
「第三日・第四日」
エルネストは工程表の次の段に進んだ。
「解読した碑文を元に、八基分の個別詠唱を設計する。碑石ごとに方言が違うから、起動の鍵となる詠唱も八通り必要だ。ここが最も時間がかかる」
「八通りの詠唱を、全部先生一人で唱えるの?」
アイラが目を丸くした。
「ロカール・キャストの起動には内的同期が必要だ。碑石の脈動に自分を合わせられるのは、ノイズのない僕の魔力だけ。——ただし」
エルネストはアイラを見た。
「起動した碑石の魔力を次の碑石へリレーするのは、僕にはできない。僕の出力では碑石間の距離を埋められない」
アイラが小さく頷いた。
「そこが私の仕事ね。碑石と碑石の間を、口笛で繋ぐ」
「その通りだ。君の口笛は構文ジャマーの影響を受けない独立系の言語だ。仮に結界碑石が標準古代語のノイズに晒されても、君の口笛なら碑石間の同期を安全に橋渡しできる」
「先生」
ティアが手を挙げた。
「永久完了相の詠唱は、私の担当ですよね。二十七秒の完了相詠唱——あの、碑銘録から翻訳した呪文」
「ああ。あれはまだ調整中だが、最終的には二十七秒で全八基の碑石に循環因果の文法を上書きする必要がある。普通の完了相では持続時間が足りない。永久完了相——つまり、文の終止を始点への回帰に変換する再帰構文でなければならない」
「練習します」
ティアの声は静かだが、揺るぎない決意が込められていた。
「第五日」
エルネストは工程表の五段目を書いた。
「リハーサルだ。碑石を実際には起動せず、配置と手順だけを確認する。僕が碑石に触れる順序、アイラの口笛リレーのタイミング、ティアの詠唱の開始点——全てを秒単位で合わせる」
「秒単位って……」
ライナーが目を剥いた。
「三者の同期がずれたら、循環因果は成立しない。碑石が暴走するか、最悪の場合は残留魔力が爆発する。だから——リハーサルは完璧でなければならない」
「先生、ちょっと楽しそうにされてますね?」
クララが小さな声で指摘した。
「……そう見えるか?」
「はい。難しい課題ほど目が輝くの、学院時代から変わりませんね」
エルネストは咳払いをした。
「第六日。——本番だ」
石板に大きく丸を書いた。
「早朝、灰ノ原の結界碑石八基を同時に起動し、永久完了相で上書きする。これが——灰ノ原防衛戦の最終手段になる」
大広間が静まった。
全員が、石板に描かれた六日間の設計図を見つめている。碑石の配置図の周囲に、びっしりと書き込まれた古代語の活用表。方言の対照表。詠唱の秒数と同期タイミング。
これは戦争のプランではない。言語学者が設計した、巨大な翻訳作業の工程表だ。
「質問は?」
「一つだけ」
レオンハルトが口を開いた。
「六日間、碑石の解読に回っている間——街の防衛は手薄になる。鎮語官が動く可能性は?」
沈黙が落ちた。
鎮語官。王国暗部の「言葉狩り」。彼らが風詠みの隠れ谷に沈黙の楔を打ち込んでいた以上、灰ノ原への介入も時間の問題だ。
「可能性は高い」
エルネストは正直に答えた。
「だが、僕には六日間を短くする方法がない。碑文の解読を急げば、一つの読み間違いで結界が崩壊する。ここだけは——妥協できない」
「なら、防衛は俺が引き受ける」
レオンハルトがまっすぐに言った。
「鎮語官が来るなら来い。B判定の火力がある。六日間、お前の研究室を守ってやる。——それが共同研究者(共犯者)の仕事だ」
「レオンハルト……」
「感謝するなら酒の一杯でもおごれ。この辺境の泥水みたいな酒じゃなく、王都の上等なやつをな」
レオンハルトが鼻を鳴らした。
「俺たちも守るだ!」
ライナーが拳を突き上げた。
「先生が碑石を回ってる間、防衛線はあっしらが持つ!」
「私も」
クララが静かに、しかし力強く頷いた。
「僕もです。土の壁なら、いくらでも積み上げます」
テオドールがノートを閉じて、胸を張った。
「それじゃ、私たち風詠み族も参加するわ」
アイラが立ち上がった。
「谷から何人か呼ぶ。ガロや若い狩人たちなら、口笛で森の魔獣を牽制できる。灰ノ原の防衛に風詠み族が加わるのは初めてだけど——今は、そんなことを言ってる場合じゃないでしょ」
自警団長のグスタフが大広間の入口から大声を上げた。
「先生! こっちも準備はできてるぞ!」
自警団の面々が、杖や武器を構えて廊下に並んでいた。全員の目に、疲労はあっても恐怖はない。エルネストが教えた「新しい言葉」が、彼らの腕に自信を与えている。
「文法修正で鍛えた俺たちの火力、六日間だけじゃなく六十日でも持ちこたえてみせる。——だから先生は、先生にしかできないことをやってくれ」
エルネストは、目の前に広がる光景を見渡した。
弟子たち。護衛。風詠み族。自警団。
彼らは才能あふれる英雄ではない。D判定やE判定の、世界の隅に追いやられた人々だ。だが今、それぞれが自分にしかない「言葉」を武器にして、この街を守ろうとしている。
——これが、教室だ。
エルネストは小さく息を吐き、チョークを持ち直した。
「ありがとう。全員に」
それだけ言って、石板に向き直った。
「さあ。初日の碑石は、北壁の第三番から始める。ティア、レオンハルト、テオドール——行くぞ」
「はい!」
「了解だ」
「筆記用具、万全です!」
朝の灰色の光が窓から差し込む中、灰色の教室が再び動き出した。
六日間のカウントダウンが、始まる。




