帰路の碑文
森の道は、来た時よりも穏やかだった。
沈黙の楔が砕かれたことで、大森林「風の通り道」は本来の姿を取り戻しつつある。鳥のさえずりが木々の合間を縫い、柔らかな風が下草をそよがせている。
一行の先頭を歩くアイラが、時折口笛を吹いた。
探知の旋律だ。だが、昨日までの緊迫した短音ではなく、のびやかに高低差をつけた長音。まるで森に「おはよう」と挨拶しているような、穏やかな響きだった。
「魔獣の気配は……遠くに三頭。でもこっちには来ないわ。楔がなくなって正気に戻ったみたい」
アイラが振り返って報告した。肩や背中の風紋のタトゥーが、朝陽を受けて淡く光っている。
「あの楔一つで、ここまで生態系が変わるものなんだな」
レオンハルトが呟いた。
「魔獣が狂暴化していたのは鎮語官のせいだったとすると、この森は元々そこまで危険な場所じゃなかったわけだ」
「ええ。本来の『風の通り道』は、穏やかな森よ」
アイラの声に、故郷への愛着がにじんだ。
「魔獣と人間は棲み分けができていた。狩りの時だけ森に入って、それ以外は干渉しない。何百年もそういう暮らしだったの」
「鎮語官がそのバランスを壊した、と」
エルネストが歩きながらノートをめくった。彼の視線は会話に参加しつつも、手元のページに落ちている。封印碑銘録の書き写しだ。
「バランスを壊すのは一瞬だが、元に戻すには長い時間がかかる。——言語も同じだ。千年かけて壊れた文法を、僕が一朝一夕で直せるわけじゃない」
「でも、直せる可能性があるんでしょう?」
ティアが隣に並んだ。
「永久完了相が実装できれば。……ただ、碑石八基の同時起動なんて前例がない。理論上は可能でも、実際にやってみたら何が起こるか——」
「先生がそういう顔をしている時は、大体うまくいきます」
ティアが微笑んだ。
「根拠は?」
「学院時代から数えて、先生の『理論上は可能だ』が外れたことがないからです」
「それは僕が慎重に理論を組んでいるからであって——」
「はいはい。それが『根拠』なんですよ」
後方でライナーが声を上げた。
「先生ー! こっち見てくだせえ! 変な石碑があるだ!」
* * *
ライナーが見つけたのは、森の中に半ば埋もれた碑石だった。
灰ノ原の城壁外縁にある碑石とは違い、これは高さ一メートルほどの小さな柱状のものだ。苔に覆われ、ほとんど地面と同化していたが、表面にはかすかに文字が刻まれている。
「これは……灰ノ原の結界碑石じゃないな」
エルネストは碑石の前にしゃがみ、苔を丁寧に剥がした。
下から現れたのは、見慣れた古代語の文字列——だが、その配列は灰ノ原のものとは微妙に異なっていた。
「アイラ。この碑石について、部族に伝わる話はあるか?」
「ええ。それは『道標の石』よ。昔から森の中に点在していて、旅人の方角を示すものだと長老たちは言っていたわ」
「道標……」
エルネストは文字をノートに書き写しながら、目を細めた。
「いや、これは道標じゃない。——碑文の構造を見ろ。動詞が二重に入れ子になっている。『守る者が守られる場所を守れ』。再帰構文だ」
「つまり?」
レオンハルトが碑石を覗き込んだ。
「灰ノ原の結界碑石と同じ体系の、外縁哨戒碑だ。街の結界の外側に、さらにもう一層の防御網が張られていたことになる。この森全体が、千年前には巨大な多層結界の一部だったんだ」
「それ、修復に使えるのか」
「直接は使えない。残留魔力がほぼゼロだ。——だが」
エルネストの口角が、わずかに吊り上がった。
「この碑文には、灰ノ原の碑石にはなかった動詞の活用形が刻まれている。『ヴァッハ』の再帰形——『ヴァッハル』。『見張る者自身が見張られる』。これは永久完了相のパズルの、もう一つのピースだ」
ノートに書き加える。手が震えている。興奮ではなく、パズルが嵌まっていく時の、あの身体の芯が熱くなる感覚だ。
「ありがとう、ライナー。君の目敏さに助けられた」
「へっ、たまには役に立つべ!」
ライナーが照れくさそうに後頭部を掻いた。
* * *
昼過ぎ。
森の中の小さな泉のほとりで、一行は休憩を取った。
エルネストはいつの間にかノートに没頭している。碑石から得た再帰形を、長老の歌の構造と照合し、永久完了相の文法テーブルに組み込んでいく作業だ。
その少し離れた場所で、泉の水で顔を洗っていたティアの隣に、アイラがやってきた。
「ねえ、ティア」
「はい?」
「あなた、エルネストのことが好きなの?」
ティアの手が止まった。水滴が頬を伝い落ちる。
「……なんですか、唐突に」
「いいじゃない、女同士の話。——だって、あなたずっと先生の隣にいるし、あの人が無茶をしそうになると真っ先に止めに入るし」
「それは弟子として当然のことです」
ティアは淡々と答えたが、耳が赤い。
「ふうん。じゃあ、昨日の宴で私がエルネストに木の実を食べさせた時、あなたが飛び上がったのも『弟子として当然』?」
「…………」
ティアの頬がみるみる赤くなった。
「あれは……衛生的に問題があると思っただけで……」
「はいはい」
アイラはくすくすと笑い、泉の水をすくった。
「安心して。私もエルネストには興味があるけど、あの人が見ているのは『発声器官の筋肉の動き』だけだってことは、昨日でよーくわかったから」
「……ですよね」
ティアはため息をつき、苦笑した。
「先生は本当に……言語のことしか頭にないんです。学院時代、同級生の女子が告白してきた時も、『君の軟口蓋の震え方が興味深い。ぜひ研究に協力してほしい』って真顔で返して——」
「ひどい。最悪」
「最悪でしょう?」
二人は顔を見合わせ、同時に吹き出した。
泉のほとりに、乾いた笑い声が響く。この奇妙な男を中心にして、王国の令嬢と辺境の少女が、いつの間にか同じ「被害者の会」の仲間になっていた。
「でもね」
アイラが膝を抱えて空を見上げた。
「あの人が私たちの言葉を聞いた時の顔……王国の魔導士にされたことがない顔で、『素晴らしい』って言ってくれた。あれは嘘じゃないと思う」
「ええ。先生の言語への感動だけは、いつも本物です」
二人は並んで泉を見つめた。
木漏れ日が水面に踊る、穏やかな午後だった。
* * *
大森林を抜けたのは、夕刻のことだった。
灰色の荒野が眼前に広がる。見慣れた風景——だが、出発前とは何かが違う。
「空が赤い」
クララが小さく呟いた。
「夕焼けにしては……色が強すぎませんか」
「あれは夕焼けじゃない」
レオンハルトの声が低くなった。
「火だ。——灰ノ原の北西方面で、何かが燃えている」
一行は足を速めた。
街の入り口で、息を切らしたグスタフが待ち構えていた。
「エルネスト先生! 待ってたぞ!」
グスタフの顔は煤で汚れ、左腕に包帯が巻かれている。
「何があった」
「昨夜から二度、鋼牙獣の群れが来た。数が前と段違いだ。一回目は三十頭、二回目は四十頭以上。——こっちも先生に教わった文法で応戦して何とか凌いだが、結界が沈黙している北西の碑石群周辺が完全に突破された」
「北西……結界が最も破綻している区画か」
エルネストは地図を頭の中で展開した。
「あの区画は碑文が完全に消失している碑石が集中していて、ロカール・キャストすら使えない。魔獣にとっては完全な空白地帯だ」
「その空白から、どんどん入ってきやがる。自警団も連戦で疲弊している。怪我人も出た。——先生、結界を何とかしてくれねえか」
グスタフの声には、すがるような響きがあった。
エルネストは荒野の北西を見つめた。赤い空の下、結界の沈黙した碑石が並ぶ稜線が見える。あの四基の文法を復元し、永久完了相で上書きできなければ——この街は持たない。
「グスタフさん」
エルネストは静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「六日間、時間をください。碑石八基分の方言の文法を完全に解読し、永久完了相で結界を恒久的に復元する。——その六日間だけ、街を守り切ってくれますか」
「六日……」
グスタフは傷ついた左腕を見下ろした。そして、歯を食いしばって顔を上げた。
「任せろ。俺たちの『新しい言葉(文法)』なら、六日くらいは持ちこたえてみせる」
「ありがとうございます。——さあ」
エルネストは仲間たちを振り返った。
ティア、レオンハルト、ライナー、クララ、テオドール、そしてアイラ。七人の顔が、夕暮れの赤い光の中で頷いた。
「灰色の教室、再開だ。今日から六日間——碑石の解読と、永久完了相の実装に入る」




