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魔法が全く使えない「言語学者」、異世界の古代語を解読したら全ての呪文の"誤訳"に気づいてしまった  作者: なは
第6章:完了形の必殺技

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帰路の碑文

 森の道は、来た時よりも穏やかだった。


 沈黙の楔が砕かれたことで、大森林「風の通り道」は本来の姿を取り戻しつつある。鳥のさえずりが木々の合間を縫い、柔らかな風が下草をそよがせている。


 一行の先頭を歩くアイラが、時折口笛を吹いた。


 探知の旋律だ。だが、昨日までの緊迫した短音ではなく、のびやかに高低差をつけた長音。まるで森に「おはよう」と挨拶しているような、穏やかな響きだった。


「魔獣の気配は……遠くに三頭。でもこっちには来ないわ。楔がなくなって正気に戻ったみたい」


 アイラが振り返って報告した。肩や背中の風紋のタトゥーが、朝陽を受けて淡く光っている。


「あの楔一つで、ここまで生態系が変わるものなんだな」


 レオンハルトが呟いた。


「魔獣が狂暴化していたのは鎮語官のせいだったとすると、この森は元々そこまで危険な場所じゃなかったわけだ」


「ええ。本来の『風の通り道』は、穏やかな森よ」


 アイラの声に、故郷への愛着がにじんだ。


「魔獣と人間は棲み分けができていた。狩りの時だけ森に入って、それ以外は干渉しない。何百年もそういう暮らしだったの」


「鎮語官がそのバランスを壊した、と」


 エルネストが歩きながらノートをめくった。彼の視線は会話に参加しつつも、手元のページに落ちている。封印碑銘録の書き写しだ。


「バランスを壊すのは一瞬だが、元に戻すには長い時間がかかる。——言語も同じだ。千年かけて壊れた文法を、僕が一朝一夕で直せるわけじゃない」


「でも、直せる可能性があるんでしょう?」


 ティアが隣に並んだ。


「永久完了相が実装できれば。……ただ、碑石八基の同時起動なんて前例がない。理論上は可能でも、実際にやってみたら何が起こるか——」


「先生がそういう顔をしている時は、大体うまくいきます」


 ティアが微笑んだ。


「根拠は?」


「学院時代から数えて、先生の『理論上は可能だ』が外れたことがないからです」


「それは僕が慎重に理論を組んでいるからであって——」


「はいはい。それが『根拠』なんですよ」


 後方でライナーが声を上げた。


「先生ー! こっち見てくだせえ! 変な石碑があるだ!」


     * * *


 ライナーが見つけたのは、森の中に半ば埋もれた碑石だった。


 灰ノ原の城壁外縁にある碑石とは違い、これは高さ一メートルほどの小さな柱状のものだ。苔に覆われ、ほとんど地面と同化していたが、表面にはかすかに文字が刻まれている。


「これは……灰ノ原の結界碑石じゃないな」


 エルネストは碑石の前にしゃがみ、苔を丁寧に剥がした。


 下から現れたのは、見慣れた古代語の文字列——だが、その配列は灰ノ原のものとは微妙に異なっていた。


「アイラ。この碑石について、部族に伝わる話はあるか?」


「ええ。それは『道標の石』よ。昔から森の中に点在していて、旅人の方角を示すものだと長老たちは言っていたわ」


「道標……」


 エルネストは文字をノートに書き写しながら、目を細めた。


「いや、これは道標じゃない。——碑文の構造を見ろ。動詞が二重に入れ子になっている。『守る者が守られる場所を守れ』。再帰構文だ」


「つまり?」


 レオンハルトが碑石を覗き込んだ。


「灰ノ原の結界碑石と同じ体系の、外縁哨戒碑だ。街の結界の外側に、さらにもう一層の防御網が張られていたことになる。この森全体が、千年前には巨大な多層結界の一部だったんだ」


「それ、修復に使えるのか」


「直接は使えない。残留魔力がほぼゼロだ。——だが」


 エルネストの口角が、わずかに吊り上がった。


「この碑文には、灰ノ原の碑石にはなかった動詞の活用形が刻まれている。『ヴァッハ』の再帰形——『ヴァッハル』。『見張る者自身が見張られる』。これは永久完了相のパズルの、もう一つのピースだ」


 ノートに書き加える。手が震えている。興奮ではなく、パズルが嵌まっていく時の、あの身体の芯が熱くなる感覚だ。


「ありがとう、ライナー。君の目敏さに助けられた」


「へっ、たまには役に立つべ!」


 ライナーが照れくさそうに後頭部を掻いた。


     * * *


 昼過ぎ。


 森の中の小さな泉のほとりで、一行は休憩を取った。


 エルネストはいつの間にかノートに没頭している。碑石から得た再帰形を、長老の歌の構造と照合し、永久完了相の文法テーブルに組み込んでいく作業だ。


 その少し離れた場所で、泉の水で顔を洗っていたティアの隣に、アイラがやってきた。


「ねえ、ティア」


「はい?」


「あなた、エルネストのことが好きなの?」


 ティアの手が止まった。水滴が頬を伝い落ちる。


「……なんですか、唐突に」


「いいじゃない、女同士の話。——だって、あなたずっと先生の隣にいるし、あの人が無茶をしそうになると真っ先に止めに入るし」


「それは弟子として当然のことです」


 ティアは淡々と答えたが、耳が赤い。


「ふうん。じゃあ、昨日の宴で私がエルネストに木の実を食べさせた時、あなたが飛び上がったのも『弟子として当然』?」


「…………」


 ティアの頬がみるみる赤くなった。


「あれは……衛生的に問題があると思っただけで……」


「はいはい」


 アイラはくすくすと笑い、泉の水をすくった。


「安心して。私もエルネストには興味があるけど、あの人が見ているのは『発声器官の筋肉の動き』だけだってことは、昨日でよーくわかったから」


「……ですよね」


 ティアはため息をつき、苦笑した。


「先生は本当に……言語のことしか頭にないんです。学院時代、同級生の女子が告白してきた時も、『君の軟口蓋の震え方が興味深い。ぜひ研究に協力してほしい』って真顔で返して——」


「ひどい。最悪」


「最悪でしょう?」


 二人は顔を見合わせ、同時に吹き出した。


 泉のほとりに、乾いた笑い声が響く。この奇妙な男を中心にして、王国の令嬢と辺境の少女が、いつの間にか同じ「被害者の会」の仲間になっていた。


「でもね」


 アイラが膝を抱えて空を見上げた。


「あの人が私たちの言葉を聞いた時の顔……王国の魔導士にされたことがない顔で、『素晴らしい』って言ってくれた。あれは嘘じゃないと思う」


「ええ。先生の言語への感動だけは、いつも本物です」


 二人は並んで泉を見つめた。


 木漏れ日が水面に踊る、穏やかな午後だった。


     * * *


 大森林を抜けたのは、夕刻のことだった。


 灰色の荒野が眼前に広がる。見慣れた風景——だが、出発前とは何かが違う。


「空が赤い」


 クララが小さく呟いた。


「夕焼けにしては……色が強すぎませんか」


「あれは夕焼けじゃない」


 レオンハルトの声が低くなった。


「火だ。——灰ノ原の北西方面で、何かが燃えている」


 一行は足を速めた。


 街の入り口で、息を切らしたグスタフが待ち構えていた。


「エルネスト先生! 待ってたぞ!」


 グスタフの顔は煤で汚れ、左腕に包帯が巻かれている。


「何があった」


「昨夜から二度、鋼牙獣の群れが来た。数が前と段違いだ。一回目は三十頭、二回目は四十頭以上。——こっちも先生に教わった文法で応戦して何とか凌いだが、結界が沈黙している北西の碑石群周辺が完全に突破された」


「北西……結界が最も破綻している区画か」


 エルネストは地図を頭の中で展開した。


「あの区画は碑文が完全に消失している碑石が集中していて、ロカール・キャストすら使えない。魔獣にとっては完全な空白地帯だ」


「その空白から、どんどん入ってきやがる。自警団も連戦で疲弊している。怪我人も出た。——先生、結界を何とかしてくれねえか」


 グスタフの声には、すがるような響きがあった。


 エルネストは荒野の北西を見つめた。赤い空の下、結界の沈黙した碑石が並ぶ稜線が見える。あの四基の文法を復元し、永久完了相で上書きできなければ——この街は持たない。


「グスタフさん」


 エルネストは静かに、しかしはっきりとした声で言った。


「六日間、時間をください。碑石八基分の方言の文法を完全に解読し、永久完了相で結界を恒久的に復元する。——その六日間だけ、街を守り切ってくれますか」


「六日……」


 グスタフは傷ついた左腕を見下ろした。そして、歯を食いしばって顔を上げた。


「任せろ。俺たちの『新しい言葉(文法)』なら、六日くらいは持ちこたえてみせる」


「ありがとうございます。——さあ」


 エルネストは仲間たちを振り返った。


 ティア、レオンハルト、ライナー、クララ、テオドール、そしてアイラ。七人の顔が、夕暮れの赤い光の中で頷いた。


「灰色の教室、再開だ。今日から六日間——碑石の解読と、永久完了相の実装に入る」




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