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魔法が全く使えない「言語学者」、異世界の古代語を解読したら全ての呪文の"誤訳"に気づいてしまった  作者: なは
第6章:完了形の必殺技

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お揃いの風紋

 隠れ谷での三日目。


 朝から、谷の女性たちが妙にそわそわしていた。何やら布や器を持って集まり、ひそひそと話し込んでいる。


「何かのお祭りですか?」


 クララが不思議そうに尋ねると、アイラがにやりと笑った。


「お祭りじゃないわ。——『風紋の儀』よ。子供が大人になる時や、大切な仲間を迎え入れる時に、風紋のタトゥーを描く儀式。今日は特別に、あなたたちにも描いてあげようと思って」


「えっ……私たちに?」


 ティアが目を丸くした。


「心配しないで。本物のタトゥーじゃないわ。『風露草』っていう植物の絞り汁で描くの。三日で消える一時的なものよ」


 アイラは腕に巻いた革袋から、深い藍色の液体が入った小さな壺を取り出した。


「風詠み族では、仲間に風紋を描くのは最高のもてなしなの。村を救ってくれたお礼に——って、長老にも許可をもらったわ」


「素敵……!」


 クララの目がきらきらと輝いた。もともと風詠み族の口笛や文化に興味津々だった彼女は、もう袖をまくり上げている。


「わ、私は……」


 ティアは少し躊躇った。


 王国の令嬢として育った身だ。肌に模様を入れるという行為自体に、どこか抵抗がある。貴族社会では「蛮族の風習」として蔑まれている慣習でもある。


「嫌なら無理にとは言わないわ」


 アイラが察したように言った。その声には嫌味がなく、純粋な配慮だった。


「……いえ」


 ティアは首を横に振った。


「やってもらいます。——蛮族だなんて、先生の前で言ったら怒られますから」


「先生?」


「エルネスト先生は、あらゆる言語文化を等しく尊重する人です。ましてや、風詠み族の文化を『蛮族』と呼ぶ人間を、先生は軽蔑するでしょう。——なら、弟子の私が尻込みしているわけにはいきません」


 アイラは一瞬ぱちくりとまばたきし、それからふわりと笑った。


「あなた、やっぱり好きなのね」


「だからそういうのでは——」


「はいはい。じゃあ始めましょう。——クララ、あなたから」


     * * *


 風紋の儀は、アイラの大テントの中で行われた。


 地面には毛皮が敷かれ、アイラの母親の代から使われているという古い筆と、藍色の染料が並んでいる。三人の女の子を囲むように、年長の風詠み族の女性たちが数人座っていた。


「風紋は、描く場所によって意味が変わるの」


 アイラは筆を取り、クララの手首の内側にそっと触れた。


「手首は『帰る場所』。足首は『歩む道』。肩は『守るもの』。そして——」


 自分の背中の大きなタトゥーを指差した。


「背中は『魂の記憶』。部族の歴史を刻む、最も神聖な場所よ」


「私は……手首がいいです」


 クララが控えめに言った。


「帰る場所、って意味が好きです。地下教室に帰れた時のこと、思い出すから」


「いい選択ね」


 アイラの筆が、クララの白い手首の上を滑り始めた。


 冷たい染料が肌に触れるたびに、くすぐったいような、心地よいような不思議な感覚が走る。アイラの手つきは驚くほど繊細で、一筆一筆に迷いがない。


「アイラさん、すごく上手……」


「おばば様に小さい頃から仕込まれたの。風紋を描くのは、口笛と同じくらい大切な技術なのよ。どちらも『伝える』ための手段だから」


 十分ほどで、クララの手首に小さな渦巻き模様の風紋が浮かび上がった。藍色の線が肌の上で淡く光を帯びている。


「わあ……」


 クララが息を飲んだ。


「綺麗……本当にこれ、消えちゃうんですか?」


「三日で消えるわ。でも、記憶は残る。それが風露草の風紋の意味よ。——形は消えても、想いは残る」


 クララは何度も手首を見つめて、嬉しそうに頬を染めた。


「次、ティア。あなたはどこにする?」


「……肩に、お願いします」


 ティアは静かに、しかし迷いなく答えた。


「『守るもの』の意味ですね」


「へえ。——誰を守りたいの?」


 アイラの目が悪戯っぽく光った。


「先生を、とか?」


「先生と、『灰色の教室』の仲間全員を、です」


 ティアは恥ずかしそうに、だが毅然とした目で答えた。


「私は水属性のC判定で、昔は自分の才能のなさに劣等感しかありませんでした。でも先生が、私の声が世界を変える鍵だと言ってくれた。——だから、私はその声で皆を守りたい」


 アイラの筆が止まった。


 彼女はティアの目をじっと見つめ、やがてそっと微笑んだ。


「……わかった。じゃあ、特別な紋様を描いてあげる。『風の盾』。私たちの長老が、村を守る戦士にだけ描く紋様よ」


「えっ、そんな大切なものを——」


「いいの。あなたは——あなたたちは、この村を守ってくれた恩人だもの」


 アイラの筆がティアの肩を滑り始めた。


 今度の紋様は、クララの手首のものよりも複雑だった。二重の渦巻きの中に、風を切る鳥の翼のような曲線が絡み合う。描くのに三十分近くかかった。


 その間、テントの中は不思議な静けさに包まれていた。筆が肌を滑る微かな音と、時折アイラが口ずさむ短い旋律だけが響く。


「……アイラ、その鼻歌は?」


「紋様を描く時に歌う歌よ。紋様に風の祝福を込めるための。——意味は、『この風紋を身につける者に、風の加護あれ』」


「それって……詠唱の一種?」


「さあ。ただの歌よ」


 アイラはあっけらかんと答えたが、ティアには分かった。この少女にとって、歌と魔法と暮らしの全てが、一つの言語体系の中に自然と溶け込んでいるのだ。


 紋様が完成した。


 ティアが鏡代わりの水面で肩を覗き込むと、藍色の美しい風紋が、彼女の白い肌の上で静かに輝いていた。


「……綺麗」


 ティアは思わずため息を漏らした。それは王国の宝飾品とは全く異なる、自然の力強さと繊細さが同居した美しさだった。


「似合うわよ、ティア」


「ティアさん、とっても素敵です!」


 クララが手首の風紋を掲げながら、目を輝かせた。


「最後は——アイラ、あなたはどうするの?」


 年長の風詠み族の女性が尋ねた。


「私は……」


 アイラは腕に巻いた革袋から新しい壺を取り出した。中の染料は、先ほどの藍色ではなく、透明に近い銀色だった。


「これは『風嵐草』の汁。一日で消える代わりに、日の光の下だけ光って見える特別な染料よ」


 アイラは自分の左手の甲に、小さな丸い紋様を描いた。


「これは『』。終わりのない円。——エルネストが碑石の前で言っていた、『因果の循環』。永久に続く守りの形。私、あの言葉を聞いた時に思ったの。それって、私たちの風紋と同じだって」


「永久完了相と、風紋……」


 ティアが呟いた。


「形は違うけれど、込められた祈りは同じ。——永遠に消えない守り」


 三人は、それぞれの風紋を見せ合った。手首の渦巻き。肩の風の盾。手の甲の永遠の輪。


「お揃いだね」


 アイラが笑った。


「王国と辺境と、生まれも育ちも全然違うけど——お揃い」


     * * *


 テントの外に出ると、まぶしい午後の光が降り注いでいた。


 広場の端で、子供たちにまだ文字を教えているエルネストがこちらに気づいた。


「お。ティア、クララ、それは——」


「風紋です。アイラに描いてもらいました」


 ティアがそっと肩を見せた。エルネストの目が、いつもの学究的な輝きを帯びた。


「風の盾の紋様か。二重渦巻きと翼状曲線の組み合わせ——これは音韻構造と対応しているのか? アイラ、この渦巻きの巻き方は口笛のピッチの上下と連動して——」


「やっぱりそう来ると思った」


 アイラがため息をついた。


「アイラ、頼むから教えてくれ。この視覚言語と音声言語のクロスモーダルな対応関係は——」


「先生」


 ティアがぴしゃりと遮った。


「今は研究じゃなくて、まず『綺麗だね』って言ってください」


「……綺麗だな」


 エルネストは言われたまま素直に答え、それから少し考えて付け加えた。


「本当に。文字でも音でもない、第三の伝達体系としての美しさがある。君たちによく似合っている」


 ティアとアイラとクララは顔を見合わせた。


 褒め方が独特すぎる。だが——嘘がないことだけは、確かだった。


 三人は揃って、小さく吹き出した。


 隠れ谷に、女の子たちの笑い声が風に乗って広がっていった。


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