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魔法が全く使えない「言語学者」、異世界の古代語を解読したら全ての呪文の"誤訳"に気づいてしまった  作者: なは
第6章:完了形の必殺技

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言語学者の休日

 隠れ谷での二日目の朝は、鳥のさえずりで始まった。


 前夜の宴の名残がまだあちこちに散らばっている。焚き火の灰、木の実の器、誰かが落としたらしい手作りの笛。谷の民たちは朝早くから後片付けに動き回っていて、エルネストたちの姿に手を振ってくれる者もいた。


「おはよう、王国のはぐれ鳥たち! 朝飯はあっちだよ!」


 声をかけてきたのは、昨夜の宴で風詠みの踊りを披露してくれた若者だった。


「ありがとう。——ところで、この村に子供たちはいるか?」


 エルネストの唐突な問いに、若者が首を傾げた。


「子供? ああ、いるよ。泉の向こうに集まって遊んでるはずだけど……どうして?」


「文字を教えてみたいんだ」


 若者は目を丸くした。


     * * *


 泉の奥の広場に着くと、五人の子供たちが木の実を投げ合って遊んでいた。


 年齢は六歳から十歳くらい。全員がアッシュグレーや淡い青の髪で、腕や頬に小さな風紋のタトゥーが入っている。


「アイラ姉ちゃん!」


「おはよう、みんな。今日は面白い人を連れてきたわよ」


 アイラに続いて広場に入ってきたエルネストを見て、子供たちは一斉にぎゅっと固まった。見慣れない灰色の目の青年に警戒しているのだ。


「大丈夫よ。悪い人じゃないの。ちょっと変だけど」


「変なのか悪いのか、せめてどっちかにしてくれ」


 エルネストは地面にしゃがみ、子供たちと目線の高さを合わせた。ポケットからチョークを取り出す。


「僕の名前はエルネスト。今日は、みんなに『文字』を教えにきた」


「もじ?」


 一番小さな女の子が首を傾げた。


「そう。君たちが口笛で話していること——あれを目に見える形にする技術だよ」


 エルネストは平らな岩の表面にチョークで大きく一文字を書いた。


 『風』。


「これが、君たちが口笛で一番最初に覚える音——『風』を表す文字だ。王国の文字だけど、意味は同じだよ」


「うそ。風にかたちなんてないよ」


 年長の男の子が疑わしそうに腕を組んだ。


「じゃあ——」


 エルネストは別のチョークで、男の子の目の前に波線を描いた。風の流れを視覚化したような、流麗な曲線。


「これならどうだ? 君たちの口笛の、この旋律——」


 エルネストは指でリズムを取りながら、昨日記録した口笛のフレーズを(下手くそに)口で真似た。


「ぶはっ! なにそれ、全然ちがう!」


 子供たちが一斉に笑った。緊張が一気にほどける。


「じゃあ正しいのを教えてくれよ。僕は口笛が下手なんだ」


「いいよ! こうだよ、こう!」


 男の子が得意げに短い口笛を吹いた。透き通る高音が広場に響く。


「なるほど——第二音のピッチが僕の想定より半音高い。舌の位置が……ああ、歯茎硬口蓋接近音か。こういう口の形?」


 エルネストが誇張された口の動きを見せると、子供たちが「違う違う!」と大騒ぎしながら教え始めた。


 気がつけば、エルネストの周りに子供たちが二重三重の輪になって座り、彼が岩に書いた「文字」と自分たちの「口笛」を行き来する奇妙な授業が始まっていた。


 少し離れたところから、ティアがその光景を眺めていた。


「……先生、子供には優しいんですよね」


「優しいと言うか……未汚染の言語習得メカニズムをリアルタイムで観察できる千載一遇のチャンスに、知的興奮を抑えきれないだけだと思うよ」


 アイラが隣に来て呆れ気味に答えた。


「エルネストが子供たちの口の形をあんなに嬉々として観察しているの、村の大人が見たら通報されるわよ」


「大丈夫です、先生は純粋に発声器官にしか興味がありませんから」


「それが一番問題なのよ……」


 二人は顔を見合わせ、小さく笑った。


     * * *


 同じ頃。


 谷の外れにある崖下の広場では、全く異なる種類の交流が繰り広げられていた。


「来いよ、王国の兄ちゃん! 次は俺だ!」


 風詠み族の若い狩人——ガロが、上半身裸で腕を広げた。細身だが、風の中で暮らしてきた体は鋼のように引き締まっている。


「おう。ただし魔法は使わん。素の力比べだ」


 レオンハルトも上着を脱いだ。B判定の魔導士の体は、一般人からすれば十分に鍛えられているが、こういう原始的な力比べには慣れていない。


 二人が組み合った。


「っ——」


 ガロの体が驚くほど低く沈み、レオンハルトの重心を崩そうとする。森で魔獣と闘い続けてきた狩人の間合いだった。


「やるな……!」


 レオンハルトが踏ん張り、逆に押し返す。力そのものでは上回っている。だがガロは柳のようにしなって体勢を立て直し、側面に回り込んだ。


 結局、三回勝負でレオンハルトの二勝一敗だった。


「くそ、あと一歩だったのに」


 ガロが悔しそうに地面を叩いた。だが、その顔は清々しかった。


「お前は強い。風詠み族は俊敏さで戦う文化なんだな。パワーじゃない、角度と位置取りだ」


「兄ちゃんもなかなかだぜ。魔導士って頭でっかちなひょろひょろばかりだと思ってたけど、やるじゃねえか」


「ひょろひょろが一人、あっちにいるがな」


 レオンハルトが顎で示した先では、子供たちに囲まれたエルネストが地面にしゃがみ込んで文字を書いている。


「あいつ、本当に魔導士なのか? 戦いの空気が全くないぞ」


「魔導士じゃない。言語学者だ。——だが、あいつの『言葉』は俺の火よりも強力だぞ」


 ガロが不思議そうな顔をした。


「言葉が火より強い?」


「ああ。あの男の一言で、D判定の自警団員の炎弾が鋼牙獣を一撃で消し飛ばすようになった。俺のB判定の火力でも、碑石を起動するあの男の耳には勝てん」


 レオンハルトは静かに、だが心からの敬意を込めて言った。


「あいつの武器は拳でも杖でもない。世界のあらゆる声を聴き分ける『耳』だ。——俺は、その耳を守る盾になると決めた」


 ガロはしばらく黙ってレオンハルトの横顔を見つめ、やがて深く頷いた。


「……いい主人を持ったな、兄ちゃん」


「主人じゃない。共犯者だ」


 レオンハルトは鼻を鳴らし、差し出された水袋を受け取った。


 木漏れ日の下で、二人の戦士は汗を拭きながら笑い合った。


     * * *


 午後。


 エルネストの「子供教室」はさらに膨れ上がっていた。子供たちだけでなく、大人の風詠み族の何人かも加わり、岩の周囲に車座になって「文字」と「口笛」の交換授業を眺めている。


「じゃあ次は、僕が君たちの言葉を教えてもらう番だ」


 エルネストがそう言うと、一番年上の女の子が得意げに立ち上がった。


「いいよ! じゃあ、まず『おはよう』!」


 女の子が吹いた口笛は、朝露が葉先から落ちるような、短く澄んだ二音だった。


 エルネストはそれを聞き、ノートに波形を記録してから、慎重に口を窄めた。


「——ピュ、ル……?」


「全然違う! もっとこう、くるんって巻くの!」


「くるん……」


 エルネストが何度も挑戦するたびに、子供たちが「ちがう!」「もうちょっと!」「惜しい!」と大騒ぎする。


 十二回目の挑戦で——。


「——ピュルッ!」


「あああ! できた! 今の合ってる!」


 子供たちが飛び跳ねて喜んだ。エルネストも思わず目を見開き、そして珍しく、子供のような笑顔を浮かべた。


「できた……! なるほど、舌先を歯茎に当ててから弾く動作が必要なのか。口笛言語における弾音子音の代替メカニズムだ」


「すぐそうやって難しいこと言う!」


「すまん。——嬉しくてつい」


 アイラが後ろからそっと近づいてきた。


「エルネスト。あなた今、私たちの言葉で『おはよう』って言えたのよ。風詠み族の人間以外で、それができたのは……たぶん、あなたが初めて」


「光栄だな。——次は『ありがとう』と『おやすみ』を教えてくれないか」


 夕暮れまで、広場には口笛と笑い声と、チョークの粉が風に舞っていた。


 言語学者の休日は、彼にとってはどんな研究室よりも贅沢なフィールドワークだった。


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