前夜再び
脱走の前夜。
地下教室に全員が集まっていた。
十四人。エルネスト、ティア、レオンハルト。そしてライナー、クララ、テオの三人と、後から加わった八人の生徒たち。ディルクだけが、この場にいない。
全員の顔に、緊張と覚悟が同居している。
「明日の消灯後、ここに集合する。荷物は着替えと食料を一日分だけ。杖は必ず持て。南門外にレオンハルトの手配した馬車が二台。それに分乗して灰ノ原に向かう」
エルネストが最終確認を淡々と行った。
「移動中は詠唱を禁止する。魔力の放出は探知される可能性がある。追手が来た場合に限り、レオンハルトが殿を務める」
「追手が来た場合の交戦規則は?」
レオンハルトが問うた。
「殺傷は禁止。足止めだけでいい。相手は学院の教官か鎮語官——どちらも本来は味方であるべき人間だ。殺すべき敵ではない」
「了解」
「明日になったら、もう——学院には戻れないんですよね」
後発組の一人が、かすれた声で言った。
沈黙。
「その通りだ」
エルネストの声は静かだった。
「学院を出れば、君たちは『脱走者』だ。経歴に傷がつく。家族にも迷惑がかかるかもしれない。だから——今ならまだ、残る選択ができる。誰も責めない」
誰も動かなかった。
「……先生」
テオが挙手した。
「僕、質問があります」
「何だ」
「灰ノ原に着いたら、教室は続けるんですか?」
エルネストは少し驚いたように、テオを見た。
「続ける。場所が変わるだけだ。正しい古代語の文法を教えること——それが僕の仕事だ。学院の中でも外でも、変わらない」
テオは満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、行きます。教室があるところに行きます」
クララも、ライナーも、後発の八人も——全員が頷いた。
* * *
最終確認が終わり、全員が解散した後。
地下教室に残ったのは、エルネストとティアの二人だけだった。
「この前を思い出しますね」
ティアが壁にもたれかかりながら言った。
「この前?」
「武闘祭の前夜。あの時も、旧練習場で二人きりで話しました。私が転生者のことを見抜いた夜」
「ああ。……そうだったな」
「あの時、エルネストは言いましたよね。『前世の知識がなかったら』って。言いかけて、止めた」
「覚えているのか」
「全部覚えています。あの夜から——ずっと」
ティアはエルネストの横に座った。肩が触れるか触れないかの距離。
「また、全部を捨てて新しい場所に行くんですね。学院を出て、辺境に。でも今回は——」
「今回は?」
「一人じゃないですよ」
エルネストは天井を見上げた。乾いた石造りの天井。かつて水が満ちていた地下貯水槽の、枯れた底。
ここが教室になった。ここで弟子たちが育った。ここで——前世で叶わなかった夢が実現した。
「ティア」
「はい」
「ありがとう」
「感謝は灰ノ原に着いてからにしてください」
「……ああ。そうだな」
二人は地下教室を出た。
螺旋階段を上り、錆びた鉄扉を押し開ける。夜空が広がっていた。
星が——滲んでいた。
以前よりもはっきりと。複数の星座で、古代文字の輪郭が崩れ、意味が解体されている。
「前よりひどくなっている」
「ええ。……世界の文法が、壊れ始めている」
エルネストは封印碑銘録の重みを外套越しに感じながら、滲む星空を見上げた。
「急がなければ」
明日——新しい旅が始まる。




