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魔法が全く使えない「言語学者」、異世界の古代語を解読したら全ての呪文の"誤訳"に気づいてしまった  作者: なは
第5章:地下の翻訳教室

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碑銘録

 脱走の三日前。


 エルネストは一人で、学院長室の前に立っていた。


 ノックはしなかった。ただ扉を見つめた。


 ここに来たのは、挨拶のためではなかった。確認のためだ。


(学院長は僕たちの脱走を止めるのか、止めないのか。それを知らなければ、計画は成り立たない)


 扉が内側から開いた。エルネストがノックする前に。


「入りなさい」


 ゲルハルトの声。やはり——気づいていた。


 学院長室は以前と変わらなかった。壁一面の書棚。大きな窓。穏やかな老魔導士。


 だが今回、エルネストは椅子に座らなかった。立ったまま、ゲルハルトと向かい合った。


「鎮語官の派遣を知っているかね」


「はい。二週間以内に来ると」


「予定が早まった。——あと五日で、彼らはこの学院に到着する」


 エルネストの心臓が跳ねた。予定より数日早い。


「レイバンが王宮に報告書を提出した翌日に、鎮語官の待機命令が出たらしい。馬鹿な男だ、自分が報告した相手の背後にどれほど恐ろしい影が潜んでいるかも知らずにな。……想定より彼ら上層部の危機感が強かった。君の教え子たちの成長が、目覚ましすぎたのだろう」


「学院長。……鎮語官。レオンハルトは奴らのことを『不吉な言葉を狩る者』だと呼んでいました。彼らが僕を追うのは——僕の文法修正が、彼らの守る禁忌に触れたからですか」


 ゲルハルトは皮肉っぽく、だが悲しげに笑った。


「彼らは『剪定者』だ。エルネスト君、君は疑問に思ったことはないかね。なぜこれほどまでに、公式の呪文が劣化し、文法が壊れているのかを。……それは偶然ではない。鎮語官たちが数百年、いや千年近くかけて、意図的に魔法を壊してきた結果なのだ」


 エルネストの息が止まった。


「……意図的に?」


「正しい文法構造は、強い魔力を生む。だがそれ以上に、それはある存在を呼び覚ます標識となる。——ある災厄だ。それは言葉の真理を喰らう。だから鎮語官は、人類から『正しい言葉』を奪った。呪文を誤訳させ、語順を歪め、意味を散らす。人類を弱く保つことで、災厄の目から隠し、生存させる。それが彼らの——血塗られた正解なのだ」


「……なるほど。古代語の劣化にしては、不自然なほど規則的に特定の文法が欠落していると感じていました。あれは、強大な魔力を生み出さないよう人為的に設計された『安全な誤用』だったのですね」

 腑に落ちた。と同時に、底知れぬ探求心が鎌首をもたげた。彼らは魔法を意図的に壊した。つまり『壊れる前の正解』の全容を知っている言語のかつての管理者だ。


「……学院長。彼らと対話することはできないのでしょうか。もし歩み寄ることができれば、研究が一気に進むかもしれない」


「対話など成立するはずがない。君の研究は、彼らにとっては世界を滅ぼす禁忌そのものだ。君は安全装置を壊し、封印を開こうとしている。彼らが命懸けで君を消し去ろうとするのは、彼らなりの『正義』ゆえだ。……単なる悪党よりも、はるかに厄介だよ」


「学院長は——僕たちを引き渡すつもりですか」


 直球の問い。ゲルハルトは長い沈黙で答えた。


 窓の外に目を移す。夕日が書棚の背表紙を琥珀色に染めている。


「エルネスト君。……私は五十年間、封印の問題に向き合ってきた。正しい古代語を広めることの危険を知りながら、同時に、封印の劣化を止めるには正しい古代語が必要であることも知っていた。矛盾だ。五十年間、この矛盾の中で立ち往生していた」


「……」


「君が現れた時——正直に言えば、恐ろしかった。E判定の新入生が古代語の文法を独力で解読し、次々と修正呪文を生み出す。私が五十年間避けてきたことを、君は一年足らずで実行してしまった。止めるべきだと思った」


「止めなかった」


「止められなかった。……が、正確に言えば——止めるべきではないと思った。君の目を見て」


 ゲルハルトがエルネストを見た。老いた碧眼に、五十年分の疲労と——わずかな希望が浮かんでいた。


「五十年の停滞を破るには、私のような老人では駄目なのだ。矛盾を受け入れて立ち止まるのではなく、矛盾を突破する力が必要だ。——君にはその力があると、思った」


「学院長。僕は……学院を出ます」


「知っている」


「止めませんか」


「……止めない」


 ゲルハルトが机の引き出しを開け、一冊の薄い本を取り出した。古い革装丁。ページは黄ばみ、角が焼けて欠けている。


「これを持っていきなさい」


 エルネストが受け取った。表紙に古代文字が刻まれている。


「これは……」


封印碑銘録(ふういんひめいろく)。千年前に施された封印の碑文を転写したものだ。私が五十年間研究してきた資料の中で、最も重要な一冊。——封印の文法構造が記されている」


「学院長。これは——あなたの研究の全てでは」


「全てだ。だが私には、これを読み解く力が足りなかった。古代語の文法を体系的に理解していない。言語学者ではないのだから。——だが君なら、読める」


 エルネストは封印碑銘録を胸に抱えた。


「ありがとうございます」


「礼はいい。……だが一つだけ」


 ゲルハルトの目が、初めて真剣に——いや、懇願するような色を帯びた。


「辺境で見るだろう。結界の劣化を。魔獣の異常発生を。文字の滲みを。——それらはすべて、封印の崩壊と連動している。封印が完全に崩壊した時、何が出てくるか——」


「バベル」


 エルネストの口から、自然にその名前が出た。


 ゲルハルトの顔が——凍った。


「……どこでその名を」


「推論です。星空が単なる光ではなく、巨大な古代文字だと気づいた時、図書室で読んだ一つの神話を思い出しました。言葉が崩壊し世界が落ちる伝承――『バベル』。古代語の劣化が安全装置だったのなら、封じているのはその言語に関わる災厄しかないと絞り込めました」


 ゲルハルトは長い溜息をついた。


「……やはり、君は危険な人間だ。だが——君以外に託せる者が、もういない」


「学院長ご自身は?」


「私は学院に残る。鎮語官を相手に時間を稼ぐ。……それくらいは、老いぼれにもできる」


 エルネストは深く頭を下げた。


「必ず——封印の真実を解明します」


「信じている。——行きなさい、エルネスト君」


 エルネストは学院長室を出た。封印碑銘録を外套の内側に隠し、廊下を歩く。


 脱走まで、あと三日。


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>>正しい文法構造は、強い魔力を生む。だがそれ以上に、それはある存在を呼び覚ます標識となる。——そう、君も気づいているバベルだ。 今回の会話の前半でいきなりバベルという単語が出てきて、厄ネタの名前っ…
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