脱走
消灯の鐘が鳴った。
エルネストは寮の自室で、最後にノートを一冊だけ鞄に入れた。千ページ近い文献の内容を凝縮した、古代語文法の手書きの要約書。他の私物は置いていく。
窓から外を見た。学院の石壁が月明かりに白く浮かんでいる。一年間過ごした場所。入学した日の緊張。図書館での発見。決闘。武闘祭。地下教室。——全てが、ここから始まった。
(さよなら、は言わない。いずれ——戻ってくる)
部屋を出た。
* * *
地下教室には、すでに全員が揃っていた。
十四人。暗闇の中で、カンテラの光が揺れている。
誰も言葉を発しなかった。緊張のためではない。これから先、声を出すこと自体がリスクになる。
エルネストは無言で手を挙げ、南に向かって指を差した。
テオが床に掌を当て、探知連句で地下水路の安全を確認する。小さく頷いた。——安全。
一列になって、地下貯水槽から南の水路へ入った。
乾いた石の通路を南へ進む。テオが先頭で地中を探知し続ける。最後尾では、クララが「無音の真空膜」を十四人全員の周囲に張り続けていた。素人同然の下級生たちが立てる足音や衣擦れを外へ一切漏らさないための、極めて高度で消耗の激しい風魔法だ。
五百メートル。西へ折れる。
古い地下水路は崩落寸前の箇所がいくつもあった。テオの連句詠唱が崩れかけた天井を一時的に補強し、全員が通過した後に補強を解除する。
三十分の行軍。
やがて——傾斜が上がり、夜風が顔を撫でた。出口だ。
月光の下に出た。学院の敷地の外。南門から二百メートルほど離れた、農道の脇。
クララが酸欠と魔力切れでよろめき、ライナーが大きな腕で無言のまま抱き止めた。限界ギリギリの連携。一人でも欠ければ、道中で見つかっていたはずだ。
馬車が二台、暗闇の中に停まっていた。御者はフラム家の使用人で、レオンハルトが事前に手配していた。
「南門の警備隊は?」
エルネストの問いに、レオンハルトがにやりと笑った。
「フラム家の『寄付』で、今日の深夜だけ巡回ルートを西門側に逸らさせておいた。盤外戦術さ」
全員が分乗した。エルネスト、ティア、ライナー、クララ、テオが一台目。レオンハルトと残りの八人が二台目。
「出せ」
レオンハルトの命令で、馬車が動き始めた。
車輪が砂利を噛む音だけが、夜の静寂に低く響いた。
* * *
馬車が動き出して一時間。
王都の外壁はとうに見えなくなっていた。街道の両側に暗い森が迫り、月明かりの下を二台の馬車が黙々と南西に進んでいく。
追手の気配はなかった。
「……出られた、のかな」
ライナーが小声で呟いた。
「まだだ。朝になって寮の点呼で不在が確認されるまで、あと三時間の猶予がある。追手が出るのはその後だ」
「追手は騎馬ですよね。馬車で逃げ切れるんですか」
「逃げ切る必要はない。灰ノ原の自治領域に入ってしまえば、王宮直属の鎮語官でも簡単には手を出せない。灰ノ原まであと——」
「馬車で約八時間。日の出前に発ったから、昼前には着く計算だ」
レオンハルトの声が後ろの馬車から聞こえた。
「順調に行けば、な」
順調には——いかなかった。
馬車が森の中の街道を進んでいた時。突然、テオが床に手を叩きつけた。
「——止めてください! 前方百メートル、地面に異常! 何か——魔法的な結界が張られています!」
御者が手綱を引き、馬車が急停止した。
エルネストが幌の隙間から外を覗いた。
街道の先——月光に照らされた中に、三人の人影が立っていた。
黒いローブ。フードを深く被った長身の魔導士たち。手にはそれぞれ異なる材質の短杖を握り、微動だにしない。
彼らの足元に——古代文字で書かれた魔法陣が淡く光っていた。封鎖結界。この先に進ませない、という意思表示。
「……鎮語官か」
エルネストの声が低くなった。
「早すぎる。学院長はあと五日と言ったのに——」
中央のフードの男が口を開いた。低く、抑揚のない声。
「学院の許可なく生徒を連れ出す行為は、王国法第四十七条に基づき拿捕対象となる。エルネスト・ラング。および全同行者。速やかに投降せよ」
レオンハルトが馬車から降り、杖を構えた。
「レオンハルト。待て」
「投降するわけないだろ」
「しない。だが——相手を見極める」
エルネストも馬車を降り、月光の下に立った。
鎮語官の男は三人。ただ立っているだけだが、彼らの纏う魔力の密度が異常に高い。A判定からB判定の上位に相当する魔力波長が、三つ重なっている。武闘祭の対戦相手たちとは次元が違う、実戦をくぐり抜けてきた「プロ」の魔導士の気配。
「名前を聞いてもいいか」
「名乗る必要はない。我々は秩序を守るための機構に過ぎない」
右側の鎮語官が、一切の予備動作なしに短杖を振った。
「風——縛」
極限まで短縮された詠唱。風の鎖が、不可視の速さでレオンハルトの腕に巻きつこうとする。
「——!」
レオンハルトは咄嗟に身をよじって躱したが、風の鎖はそのまま馬車の車輪に絡みつき、木を軋ませた。
「速いな。それに、無駄がない」
エルネストは冷静に分析した。
「あれが鎮語官。通常詠唱を極限まで鍛え上げた実力者たちか。……手強いぞ」
だがエルネストの目は、鎮語官たちではなく——足元の封鎖結界に向けられていた。
古代文字で書かれた魔法陣。月光の下で淡く輝く碑文。
(読める)
学院の屋上で守護碑文を修復した時と同じだ。古代語の文法構造が、一文字ずつ頭の中で解析されていく。
封鎖結界の碑文——「留まりたれこの地に、通すなかれ何者をも」。完了相の命令構文。「すでに留まっている」「すでに通さない」。正しく書かれた、強固な封印碑文だ。
だが——。
(三文目の接続詞。ここが古い形式だ。現代の鎮語官が刻んだ碑文だが、原典を忠実に写しすぎている。口伝で変質した綴りと、原典の綴りが混在して——文法的な矛盾が生じている)
エルネストは馬車の陰から這い出て、地面に片膝をついた。
「レオンハルト。十秒だけ時間をくれ」
「何をする」
「結界を——壊す」
レオンハルトの碧眼が鋭く光った。だが何も言わず、杖を構えて鎮語官たちを牽制した。
エルネストは地面に描かれた魔法陣の碑文に指先を当てた。
碑文の三文目。「在りつつたれ——永久にして」。ここだ。鎮語官たちが使った綴りでは接続詞が古形と新形のどちらにも属さない——文法的に宙ぶらりんの状態になっている。意味が曖昧なまま魔力で無理やり保持されている箇所。
エルネストは、その一文字——接続詞の語尾——を、正しい古代語の形に「修正」した。
「在つたり」
正しい短縮形を、囁くように唱えた。E判定の微弱な魔力が、碑文の一箇所に流れ込む。
修復ではない。破壊だ。
曖昧なまま保持されていた接続詞が「正しい形」に確定したことで、前後の文法構造との矛盾が露呈した。碑文全体の意味構造が——内部崩壊を始めた。
パキッ。
地面に刻まれた魔法陣に、亀裂が走った。
「な——」
中央の鎮語官が、初めて動揺した。自分たちの結界が、内側から崩れていく。攻撃されたのではない。結界の碑文そのものが——自壊している。
「何をした……!」
「文法を直しただけだ。正しくない文は——正しくされた瞬間に、自分の矛盾で壊れる」
封鎖結界が——砕けた。月光の下で、古代文字の光が消え、地面ただの石に戻る。
道が、開いた。




