第4章 幻の一千万円
「一千万だぞ!」
翔太は床を叩いた。
「分かってるのか!? 限定版だぞ! 今は価値が分からなくても十年後には――」
「大丈夫」
結衣さんが言った。
「何が大丈夫なんだよ!」
「価値は確認しました」
ぴたり。
翔太が止まった。
「……は?」
結衣さんは棚の引き出しを開けた。
中から透明なクリアファイルを取り出す。
その中に入っていた一枚の紙を、翔太へ差し出した。
「捨てる前に、専門の買取業者さんに査定していただき、そのまま引き取ってもらいました」
「査定……?」
「はい」
翔太は紙を奪い取った。
視線が上から下へ走る。
やがて。
動きが止まった。
「……十万?」
か細い声だった。
「ええ」
「十……万円?」
「全部で」
「嘘だ!」
紙を何度も見直す。
「限定版だぞ!? このフィギュアだけでもネットで三万とか――」
「箱が日焼けしていたそうです」
「カードだって!」
「湿気で反っているものが多かったそうです」
「でも限定……!」
「虫害の痕跡もあったそうです」
翔太が絶句した。
「保管状態が悪いので、将来的な値上がり以前の問題だと言われました」
「……」
「十万円でもかなり頑張った査定だそうです」
紙を持つ翔太の手が震えていた。
「俺の……」
「はい?」
「俺の人生の結晶が……」
「十万円でした」
容赦がない。
「もちろん、勝手に処分したことについては私にも落ち度があります」
結衣さんはそこだけは冷静に認めた。
「だから、その金額についてはきちんと整理します。ただし」
声が低くなる。
「あなたが三年間負担しなかった生活費とは、桁が違いますけどね」
翔太はその場に座り込んだ。
「嘘だろ……」
もはや怒鳴る力さえない。
「十年後に一千万になるって……」
「誰が言ったの?」
私が尋ねた。
「ネットで……」
「誰が?」
「掲示板とか……動画とか……」
「専門家じゃないのね?」
「……」
何も答えなかった。
そして数秒後。
突然、翔太がこちらを見た。
「母さん」
嫌な予感がした。
「何?」
「実家」
「え?」
「俺の部屋、空いてるよな?」
私は黙って翔太を見た。
「もし離婚になってもさ、しばらく実家に――」
「ないわよ」
「え?」
「あなたの部屋なんて、もうない」
「いや、あるだろ」
「あなたが結婚して半年後に、私の趣味部屋へリフォームしたの。あなたのベッドも私物も、もう全部処分したわ」
「聞いてない!」
「独立した息子に、いちいち家の改装を報告する必要ある?」
翔太の顔が引きつった。
「じゃ、じゃあ俺どこ住むんだよ」
「賃貸を借りればいいでしょう」
「金ないって!」
「二十万円あるでしょう?」
「敷金礼金払ったらなくなるだろ!」
「三年間生活費を払わなかった結果でしょう」
「母親だろ!?」
翔太が叫んだ。
「俺が困ってるんだぞ!」
その言葉を聞いた瞬間。
私は胸の奥が急に冷えた。
「……そうね」
「だったら――」
「私はあなたの母親よ」
私は静かに言った。
「だからこそ、これ以上あなたを甘やかさない」
翔太が固まる。
「子どもの頃、失敗したあなたを助けることはあった。でも、もう二十八歳でしょう」
「……」
「妻を三年間苦しめた結果まで、母親が後始末してくれると思わないで」
「でも……」
「あなたが本当に自分が正しいと思うなら」
私は彼のスマートフォンを指差した。
「会社の人たちに相談してみなさい」
「は?」
「上司でも同僚でもいい」
翔太の顔が強張った。
「『三年間妻に生活費を全部払わせて、自分の給料は趣味に使っていたら怒られました。僕は悪くないですよね』って」
「……」
「聞けばいいじゃない」
「それは……」
「どうしたの?」
「会社には関係ないだろ」
「さっき佐々木さんを第三者として頼ったでしょう?」
「……」
「都合の悪い時だけ関係ないの?」
翔太は何も言えない。
私は息子を見つめた。
「本当は、少し分かってきたんでしょう?」
「何が」
「自分がどれほど恥ずかしいことをしていたか」
「……」
「だから会社の人には知られたくない」
図星だった。
翔太は顔を伏せた。
その時だった。
再びスマートフォンが鳴った。
佐々木さんからだ。
『さっきの話マジなら、一回ちゃんと奥さんと話せよ。三年生活費ゼロは普通じゃないぞ』
続けて。
『あとコレクションを投資って言ってたけど、それ投資じゃなくて趣味だからな』
翔太は画面を見つめた。
私は何も言わなかった。
結衣さんも何も言わない。
逃げ道は。
もうどこにも残っていなかった。




