第2章 貯金二十万円の男
「言い方の問題?」
私はゆっくり立ち上がった。
「どういう言い方なら、三年間生活費を払っていないことが正当化されるのかしら」
「だからさ」
翔太は妙に堂々と腕を組んだ。
「俺たちには俺たちなりのルールがあるんだよ」
「ルール?」
「稼いでる方が生活費を出す。合理的だろ?」
「……はい?」
「結衣の方が給料高いんだよ。俺より」
それが当然の説明であるかのように言う。
「だから生活費は結衣が出す。俺の給料は将来のために運用する。それが一番効率いいんだって」
「運用……?」
嫌な予感がした。
翔太は得意げに床の空箱を指差した。
「これ」
私はしばらく言葉を失った。
「……フィギュア?」
「フィギュアだけじゃない。トレーディングカードも限定グッズもある。今は安くても十年後には価値が上がるんだよ」
「それをあなたは、資産運用と呼んでいるの?」
「そうだけど?」
悪びれる様子は一切ない。
「銀行に置いとくだけじゃ金は増えないだろ? 今の時代は投資しない奴がバカなんだよ」
頭が痛くなってきた。
「それで……食費は?」
「結衣」
「電気代、水道代、ガス代は?」
「結衣」
「マンションのローンは?」
一瞬だけ翔太が黙った。
結衣さんが代わりに答えた。
「私です。名義も私単独のものです」
「……全部?」
「はい」
私は額を押さえた。
「翔太。あなたはこの家で、一体何を払っているの?」
「だから自分の物は自分で買ってるって」
「自分の物?」
「服とかゲームとかフィギュアとか。あと昼飯」
「それだけ?」
「それだけって何だよ」
逆に不満そうな顔をされ、私は眩暈がした。
翔太はまだ終わらない。
「家事だってさ、結衣は大げさなんだよ」
「どういうこと?」
「俺はほとんど汚さないから」
「……は?」
「洗濯物だって結衣の方が多いし、料理も結衣が勝手にやってるだろ? 掃除だって俺は別に毎日しなくていいと思ってる。それなのに『私ばっかり家事してる』って怒るんだよ」
翔太は肩をすくめた。
そして、信じられないことを言った。
「だいたい光熱費だって、料理とか洗濯とかしてる結衣の方が使ってるじゃん。俺が払うの変じゃね?」
私は息子の顔を見つめた。
冗談を言っているのかと思った。
違った。
本気だ。
本当に、本気でそう思っている。
「でもさ」
翔太はなおも得意げだった。
「結局どっちの金だろうが夫婦の金なんだから、細かいこと言う方がおかしいんだよ」
「……だったら」
低い声が聞こえた。
結衣さんだった。
「あなたのお給料も、夫婦のお金なんじゃない?」
「俺の給料は俺が働いて稼いだ金だろ」
即答だった。
私は思わず目を閉じた。
結衣さんは笑わなかった。
怒りもしなかった。
ただ疲れきった顔で言う。
「義母さん」
「なに?」
「翔太さんは『将来のためにお金を残している』とずっと言っています」
「ええ」
「この三年間で、翔太さんが貯めたお金がいくらか、ご存じですか?」
私は息子を見る。
ブランド物を買っているわけではない。
車も持っていない。
生活費も住宅費も出していない。
なら、少なく見積もっても数百万円は残っているはずだ。
「……三百万くらい?」
結衣さんは首を振った。
「二十万円です」
「……え?」
「貯金残高、二十万円です」
私は耳を疑った。
「三年間で?」
「はい」
「二十万円?」
「はい」
ところが。
「二十万“も”だろ」
翔太が口を挟んだ。
私はゆっくり振り返った。
「何?」
「普通さ、趣味も楽しみながら二十万貯めるって結構大変なんだぜ? 俺、割と計画的だから」
胸まで張った。
私は本気で、この男は誰なのだろうと思った。
私が産んだ子なのか。
私が育てた息子なのか。
結衣さんが静かに話し始める。
「私は……」
初めて、その声が震えた。
「この三年間、新しい服もほとんど買ってません」
翔太が鬱陶しそうに顔を背けた。
「美容院へ行く回数も減らしました。外食も控えました。食費も、光熱費も、日用品も、固定資産税も、ローンも……できるだけ節約して払いました」
「結衣さん……」
「生活費を少しだけでも出してほしいって、何度も頼みました」
彼女の両手が膝の上で固く握られている。
「でも、そのたびに……」
震えが少しだけ強くなった。
「『金の話ばっかりするな』って怒鳴られました」
私は翔太を見る。
「本当なの?」
「いや、だって毎回毎回うるさいんだよ」
「……」
「足りない足りないってさ。こっちは仕事で疲れて帰ってきてるのに」
「その家の金を一円も払っていないあなたが?」
「だから結衣の方が稼いでるって!」
翔太は逆上した。
「俺だって好きで安月給なわけじゃねぇよ!」
その声に、結衣さんの肩が一瞬震えた。
私は見逃さなかった。
ああ。
これが三年間続いていたのだ。
金を払えと言えば怒鳴られる。
家事を頼めば怒鳴られる。
自分は何も我慢せず、妻だけに節約を押し付ける。
そして、妻が疲弊していくことにも気づかない。
――私は、こんな男を育てたのか。
胸が痛んだ。
情けなかった。
申し訳なかった。
それでも翔太は、まだ勝ったつもりでいた。
「分かっただろ、母さん?」
笑顔すら浮かべている。
「だから結衣がおかしいんだよ。勝手に俺の物を捨ててさ。俺の二十万の貯金までバカにして」
そして。
「母さんから慰謝料払えって言ってやってよ」
私はゆっくり息を吸った。
「結衣さん」
「……はい」
「今すぐ」
私ははっきり言った。
「こんなバカと離婚しなさい」
しん、と部屋が静まった。
「……え?」
翔太の顔から、笑顔が消えた。




