第1章 休日の緊急呼び出し
休日の昼下がり。
ようやく家事を終えた私は、お気に入りのティーポットに茶葉を入れた。
今日は少し奮発して買ったダージリン。
窓から差し込む柔らかな日差しを眺めながら、誰にも邪魔されずにゆっくり紅茶を飲む。
そんなささやかな贅沢を楽しもうと、カップを口元へ運びかけた――その時だった。
テーブルの上のスマートフォンが、けたたましく震えた。
画面に表示された名前を見て、私は思わずため息をつく。
『翔太』
二十八歳になる一人息子だ。
三年前に結婚し、今は妻の結衣さんと二人でマンションに暮らしている。
普通なら、息子からの電話を喜ぶ母親もいるのだろう。
けれど、翔太の場合は違う。
楽しい報告ならメッセージで済ませるくせに、困ったことが起きた時に限って電話してくるのだ。
私は嫌な予感を覚えながら通話ボタンを押した。
「……はい、もしもし」
『母さん!?』
耳元で爆発したような声に、私は思わずスマートフォンを離した。
『今すぐ来てくれ! とんでもないことになった!!』
「翔太、声が大きいわよ。一体どうしたの」
『結衣の奴が俺の宝物を勝手に捨てやがったんだ!』
「……宝物?」
『限定フィギュアとカードだよ! 俺の資産だぞ!? 何十万、いや将来何百万になるか分からない物なんだぞ!』
興奮しきっているらしい。
電話越しにも荒い息遣いが聞こえてくる。
『母さんからもガツンと言ってやってくれよ! あいつ、俺の許可も取らずにゴミに出しやがった!』
「ちょっと待ちなさい。結衣さんが理由もなくそんなことをするとは――」
『いいから早く!!』
ブツッ。
一方的に電話が切れた。
「……まったく」
私は、すっかり飲む気をなくした紅茶を見つめた。
結衣さんは、私から見てもよくできた女性だ。
穏やかで、真面目で、働き者。
結婚前から翔太のわがままにも根気強く付き合ってくれていた。
そんな彼女が、夫の所有物を腹立ち任せに捨てるだろうか。
あり得ない。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな不安が生まれた。
私は紅茶を諦め、上着を羽織った。
翔太たちのマンションへ着いたのは、それから四十分ほど後だった。
以前、緊急時のためにと渡されていた合鍵で玄関を開ける。
「お邪魔します」
返事はなかった。
リビングへ向かうにつれ、空気が妙に冷たいことに気づいた。
暖房がついていない。
カーテンも半分閉じられ、休日の午後だというのに部屋は薄暗かった。
そして――。
「母さん! 遅いよ!」
リビングへ入った途端、翔太が飛んできた。
顔を真っ赤にしている。
「もう一時間近く待ってたんだぞ!」
「あなたが突然呼びつけたんでしょう。四十分で来たなら十分じゃない」
「そんなことより、見てくれよ!」
翔太が床を指差した。
リビングの一角には、大量の空箱や透明なケースが積み重なっている。
以前来た時には、そこに所狭しとフィギュアが並び、棚にはカードを詰め込んだファイルが山積みになっていた。
翔太はそれらを「資産」と呼び、誰にも触らせようとしなかった。
「全部捨てたんだぞ! 限定品も! レアカードも!」
「……全部?」
「そうだよ!」
翔太は勢いよく振り返った。
「母さんからも言ってやってよ!」
その視線の先。
ダイニングテーブルの椅子に、一人の女性が座っていた。
結衣さんだった。
「こいつ、俺の許可なく俺の資産をゴミに出したんだぜ! 常識外れにも程がある!」
翔太は鼻息を荒くしている。
けれど私は、もう息子の話など聞いていなかった。
「……結衣さん?」
彼女の様子がおかしかった。
頬が以前より明らかに痩せている。
目の下には濃いクマ。
艶のあった髪も、今日は雑に後ろで束ねられていた。
何より――目に力がない。
「結衣さん、大丈夫?」
私が近づいても、しばらく反応がなかった。
「具合でも悪いの?」
ようやく彼女が顔を上げた。
「……大丈夫です」
とても大丈夫な人間の顔には見えなかった。
翔太が横から口を挟む。
「そんなことよりさ!」
「翔太、黙って」
「は?」
「今は結衣さんに聞いているの」
低い声で言うと、翔太は不満そうに口を閉じた。
私は結衣さんの隣に座る。
「何があったの?」
しばらくの沈黙のあと、結衣さんは呟いた。
「……虫がいたんです」
「虫?」
「あのフィギュアの箱とか、カードの段ボールとか……何年も掃除させてもらえなくて。埃だらけになって、裏に小さな虫が湧いていました」
「おい! だから勝手に触るなって言ってただろ!」
「翔太!」
私が睨むと、息子は舌打ちした。
結衣さんは淡々と続ける。
「あれだけリビングを占領しているのに、掃除もできない。売って家計の足しにしたらどうかと言っても怒鳴られる。それで……」
一度だけ目を伏せた。
「もう、嫌になりました」
「だからって捨てていいわけないだろ!」
翔太が再び叫ぶ。
「俺の財産だぞ! 将来プレミアがつけば何十万にもなるんだ! 弁償しろよ!」
結衣さんは何も言わない。
「慰謝料だって請求してやる! 夫婦の共有財産を勝手に処分したんだからな!」
その瞬間だった。
結衣さんが、ゆっくり私を見た。
そして。
「……共有財産なんて、ありませんよ」
「え?」
「この人」
翔太を見ることさえなく言った。
「結婚してから三年間、一円も生活費を入れてませんから」
一瞬。
言葉の意味が分からなかった。
「……え?」
聞き間違いだと思った。
「今、なんて?」
結衣さんの声は変わらない。
「翔太さんから生活費を受け取ったことは、一度もありません」
私は息子を見る。
翔太は――。
私と目を合わせようとしなかった。
冷え切っていたはずのリビングで、私の頭だけが急激に熱くなっていった。
「翔太」
「いや、母さん。これにはちゃんと理由が――」
「三年間?」
「だから説明するって」
「一円も?」
翔太は小さく舌打ちした。
「……言い方の問題だって」
その瞬間。
私の中で、何かが音を立てて崩れた。




