EP 10
忍び寄る死蟲の影
世界には、決して触れてはならない闇がある。
大陸の深部、冒険者たちを誘い込む金銀財宝の噂が絶えない悪夢の迷宮『天魔窟』。
そこは、かつて女神ルチアナと邪神デュアダロスによって封印された、古代の厄災『死蟲王サルバロス』の魂が眠る玉座である。
「——おかしいねェ。実に、滑稽でおかしい」
薄暗い洞窟の奥深く。
金貨と宝石の山の上に敷かれた豪奢な絨毯の上で、一人の男が本を閉じた。
表紙には『群衆心理』と書かれている。
道化師のような派手な衣装に、顔の上半分を覆う不気味な仮面。手には身の丈ほどもある巨大な大鎌を携えたその男の名は、魔人ギアン。
死蟲王サルバロスの復活を目論み、魂を集める『死蟲軍』の冷酷なる指揮官である。
ギアンは手にした極細の魔力糸をクイッと引いた。
すると、迷宮に迷い込み、彼の操り人形と化した哀れな冒険者たちが、ギトギトの虚ろな目で滑稽なダンスを踊り始める。
「ルナミス帝国の裏部隊『漆黒の牙』。三十人もの手駒が、緩衝地帯のポポロ村に入った途端、忽然と姿を消した。……魔法による爆発跡も、闘気による破壊痕もない。ただ、スッと消えたんだ」
ギアンは長い舌で唇を舐め、空中に黒い魔法陣を展開した。
そこに映し出されたのは、偵察用に放っていた『死蝿型』の蟲機から送られてくる映像だった。
映像には、夕焼けの中、楽しそうに笑いながら鍬を振り下ろす元・傭兵たちの姿があった。
「……農作業? あの大陸有数の荒くれ者たちが、汗を流して芋の苗床を作っているだって?」
ギアンの仮面の奥の瞳が、面白そうに細められた。
群集心理を操り、人間を絶望と狂気に陥れることを至上の芸術とする彼にとって、この光景はあり得ないイレギュラーだった。
映像の視点が動く。
荒れ地を開墾する男たちの中心に、一人の少年が立っていた。
魔力も闘気も、一ミリたりとも感じられない。農民のような簡素なエプロンをつけた、ヒョロヒョロの少年だ。
だが、その少年が「もっと腰を入れろ!」と叫んだ瞬間、映像越しにすら伝わってくる『巨大な龍の幻影』のような気迫に、ギアンは思わず息を呑んだ。
「……ほう。ほうほうほうほう!」
ギアンは仮面を押さえ、歓喜に肩を震わせた。
「素晴らしい。一滴の血も流さず、恐怖と……いや、謎の『母性』のような包容力で群衆を支配している……! なんて美しく、特異な魂だ。あんな極上の魂をサルバロス様に捧げれば、復活は一気に早まる……!」
ギアンの殺意が、ねっとりと膨れ上がった。
あの少年を絶望させたい。あの大いなる気迫が、無慈悲な暴力の前に膝を折り、泣き叫ぶ顔が見たい。
「行け、可愛い僕たち。あの村の平穏を蹂躙し、絶望の種を撒き散らしておいで」
ギアンが指を鳴らすと、天魔窟の奥底から、無数の不気味な駆動音が鳴り響いた。
暗闇から這い出してきたのは、機械と蟲が融合した冒涜的な兵器たち。
その中でも、分厚く強固な黒光りする装甲で覆われた、戦車サイズの巨大な蟲。
魔法を弾き、物理攻撃を跳ね返す、死蟲軍における絶対的な蹂躙兵器——『死甲虫型』の群れだった。
「少年以外の魂は食い散らかして構わないよ。さぁ、極上の悲劇の開演だ」
ギアンの嗤い声が、冷たい洞窟の中に響き渡った。
***
その頃、ポポロ村の村長宅。
「うぅーん……もう、お腹いっぱい……」
「キャルルちゃん、私の寝相を蹴らないでよぉ……」
昨夜の泥沼の枕投げ抗争(大地の説教により五秒で鎮圧)から一夜明け、四人の美女たちは修復中の自室でスヤスヤと平和な寝息を立てていた。
大地の作った肉じゃがの余韻と、日中の畑仕事の疲労が、彼女たちに深い眠りをもたらしていた。
だが——。
ピクッ。
真っ暗な部屋の中で、キャルルの長い兎耳が、微かな異音を捉えて跳ね上がった。
「……!」
同時刻。
自然と交信するエルフのルナが、ガバッとベッドから跳ね起きた。
その美しい顔は、恐怖で青ざめている。
「森が……森が悲鳴を上げてる……! 冷たくて、命のない機械の群れが、村の結界を食い破ろうとしてる……っ!」
「……ええ。私の耳も、この距離でハッキリと『それ』を捉えたわ」
キャルルがベッドから降り、枕元に置いてあったダブルトンファーを手に取った。
ダイヤもまた、無言でクリムゾンアーマーの留め具を締め始めている。
リーザも起きてきて、不安そうにキャルルの背中に隠れた。
「キャルル……これ……」
「ええ。間違いないわ。大国の傭兵なんかじゃない。もっと純粋で、悪意に満ちた『死』そのものが近づいてきてる」
ギチ……ギギギ……ガシャァン……!!
村の静寂を切り裂いて、金属と甲殻が擦れ合う、おぞましい駆動音が夜風に乗って響いてきた。
「絶対の平穏」であるはずのポポロ村の夜に、第一章最大の脅威が、今まさにその巨大な顎を開こうとしていた。




