第181話 過ぎ去ったこと
不審人物の来訪にそれまでの和やかな雰囲気が一変していた。
明澄を部屋に留めて、インナーテラスから庭に出た庵は黒髪の少女が待つ門へ。
「うちに何か御用ですか?」
ご時世的に物騒なのもあって門から一定の距離を取りつつ、庵は横の塀に立てかけてあったエアレーターに手を添えながら怪訝な顔付きを抑えて対応した。
「その……、久しぶり……」
対面する少女に敵意や害意は感じられず、目を伏せる様子から後ろめたさは抱えているように見えた。
服装は制服なので歳は近いだろう。スレンダーな体躯だが上背は明澄と同じかやや高いくらい。インナーカラーが赤の黒髪と両耳に複数のピアス、ダーク系のネイルには威圧感があった。
ギターケースを背負っている事や昼前という時間帯から、夏休みの部活動帰りの軽音部員だろうと、大まかな人物像が掴める。
不躾にならないようひっそり観察していた庵に、少女はちろっと目線を上げた。
「申し訳ないが、思い出せないから誰か名乗ってもらってもいいだろうか?」
「あっ。そ、そうだよね。ごめん。私、水上凪沙。そりゃ、覚えてないよね」
庵に問われた彼女は、卑屈気味に自身の名前を告げた。
すぐには思い出せなかったが、数秒ほどの沈黙を経て、記憶の残滓から彼女の正体が浮かび上がった。
「……あ! 水上か! 思い出した。小中同じだったよな。あと、確かお兄さんが甲子園に出てた」
メイクをしているが顔の印象は中学の卒業時とあまり変わっておらず、顔と名前が一致した庵は警戒を少し緩める。
「そう。その水上。まぁ、兄は殆どベンチだったけどね」
「それで、俺たちを見てたみたいだけど何か用だったか?」
「……とても綺麗なピアノと歌声が聞こえてきたから気になって」
「そうか。ありがとう。でも、それだけか?」
凪沙の返答は彼女が尋ねてきた本題ではない、と直感で分かった。
「そりゃ、覗いてたの気付いてる……よね」
「だよな。なんで、最近覗いてたんだ?」
「あ、……いや、えっと……」
正直な話、庵の中では面倒くさい気持ちが募り始めていた。
苛立ちはないが、早く用件を言ってくれと急かすような口調になったのが、凪沙へ怯えを与えてしまったらしい。
彼女は瞳を右往左往させ、どもりながら卑屈そうな笑みを張り付かせ、また視線が外れる。
「庵くん。少し小陰に入っていただいては? とても悪い人には見えませんし、何かご事情があるように見えます」
はっきり喋る庵とこのもごもごしている凪沙とではどうにも相性が悪いらしい。
部屋から二人の様子を窺っていた明澄だが、凪沙の雰囲気を察して出てきたようだ。
悪人に見えないというだけで万が一もあるし、判断は庵に任せると言った感じで、対応に苦慮していた庵に助け舟を出してくれた。
「……そうだな。水上、そこの縁側まで来てもらえるか」
「あ、……はい。お邪魔します」
ずっと縮こまったままの凪沙を案内し縁側に座らせる。
明澄には家の中に戻ってもらい窓際に居てもらう。念の為、窓のレールを境にしガードするようにして庵も縁側に座った。
「ええと、……」
「あぁ、彼女は水瀬明澄。俺の彼女だ」
どうしたらいいか、と会話の再開を探す凪沙にまずは明澄の紹介をすると彼女の瞼が瞬き、それから「やっぱり彼女なんだ……」と、小さい独り言のように呟いた。
初めまして、と明澄は緊張を与えないよう聖女様スマイルを浮かべたが「……ども。水上凪沙です」と凪沙は気まずそうに会釈していた。
「明澄に聞かれたくないなら、席を外してもらうけど、どうする?」
「ううん。大丈夫」
ふるふると凪沙は首を振る。そして、意を決し――
「あのね……ごめんなさい!」
がばっ、と凪沙が謝罪の言葉と共に勢いよく頭を下げた。
「急に謝られても分からない。覗いてた事ならもういいし」
「いや、違くて。ずっとあの事を謝りたくて」
「何かあったっけ?」
「庵はもう覚えてないかもだけど昔さ、虐められてたでしょ」
おどおどしていた凪沙だが本題を切り出すと、その表情は一層不安と心苦しさを増している。
まさかここまで重い話題が出てくると思ってなかったのだろう。一歩下がって正座して見守る明澄の口から「いじめ……」と、ぽつりと溢れ、瞳に険しさが宿った。
「あぁ、あれか。いじめってか、嫌がらせっていうか」
「違うよ。あれは嫌がらせなんかじゃないよ。立派ないじめ。だから、謝りたくてさ。ずっとストーカーみたいに窺ってて、ごめん」
庵は重く受け止めなかったが、くいと顔を上げた凪沙が悲しそうに否定したのは、庵にあれを単なる嫌がらせで済ませてはいけない、と気付いて欲しかったからのようだった。
悲痛な声を絞り出しながら謝りに来たのは、それだけ凪沙にとっては負い目だったのだろう。
しかしながら、庵が学校で過去に受けた仕打ちに彼女は関わっていない。庵は首を捻るしかなかった。
「謝る? なんで? 水上は何もしてないだろ」
「そんな事ない……! 私は見てるだけで先生に言えなかったから。友達があんな目に遭ってるのに、私は見ないふりをしたの。絶対に庵を傷付けてた」
「それはなぁ……」
「私は、ずっと庵に謝りたかった。小学二年で同じクラスになって隣に座って仲良くしてくれて、積極的に遊んだりはなかったけど、庵は優しかったし友達だって言ってくれたの覚えてる。なのに、私は自分の事しか考えてなくて」
「それを負い目に?」
「うん。庵は絵を描くの好きだったけど、あの件からもう学校じゃ描かなくなったし、殆ど誰とも関わらなくなったでしょ。みんな、素っ気なくなった庵をそういう人間として見てたけど、庵は何一つ悪くなかった。それに、もしかしたらもう絵を描かなくなっちゃったんじゃないかって、自分が許せなかった。でも、庵がこっちに帰ってきたの見つけて、謝らなくちゃいけないって。だから……」
それは随分勝手な言い分に聞こえただろう。少なくとも眉を顰めている明澄には。
時間が経ち過ぎた上に凪沙は直接関わった人間ではない。これが当事者ならまだしも、無闇に蒸し返す行為まである。
いじめや嫌がらせを周囲が止めるなんて子供には困難極まりないし、教師や親などの大人を頼るのも難しい。人によっては今更迷惑だ、と一喝してもおかしくないものだった。
それでも、力が抜けたように天を仰いで大きく息を吐き、なんとも言えない顔をしたのは庵の鈍感さと寛容さによるものだろう。
「そっか。はぁ〜……」
「庵くん?」
「いやなぁ、今更そんな事言われたって困るんだよ」
「……だよね。今更過ぎるし、庵から見たら謝ってきたのも、私が負い目を消す為だけに謝ってるように見えるよね」
「違うって。俺には実感がないってだけ。あいつらの事はどうでもよかったし、一人で自由にやってきたからまさかそんな事思われてたのかなんて思わないだろ。俺からすればもう過ぎた事なんだよ」
今も幼い頃の関係として友達だと思う凪沙と、小中時代の思い出は思い出でしかない庵では時間の進みが違う。
話しているうちに、凪沙とはそれなりに会話していた事や、低学年の頃には皆で校庭に出て遊んでいた記憶も段々と蘇ってきたし、確かに友達ではあったのだろう。
しかし、それだけ。たったそれだけの記憶の断片。
だから、庵も背を反らし縁側に手を着いて空を見上げても、あの頃の感情は込み上げすらしない。
「水上が申し訳なく思わなくたっていいんだ。そもそも俺も色んな事を見ないふりしてきたし、見てたやつを同罪なんて言えないさ。だから、これで終わりにしよう」
「庵にそう言われたら、もう私は何も言えないよ。ほんとにごめんね。でも、終わりにしてくれてありがとう」
罪悪感は人に与える罰として適した感情だろう。
きっと凪沙の心の隅の隅の更に奥にある自分勝手な罪悪感も、彼女の誠実さでありその善性に基づくもの。
悪いのは庵へ悪意を具現化した彼らなのだから。
凪沙もまた被害者であり、あの空間にいた他者も痛みを抱えてしまうのだと理解して、ここでその罪悪感を断ち切ってやるのが、唯一してやれる事だった。
漸く小さくも笑みを滲ませた凪沙に「こちらこそ、謝りに来てくれてありがとうな」と、庵は目尻を緩く垂れさせた。
「あ!」
一段落だ、と背後に倒れ込んだ庵だったが、突如凪沙が声を上げるので反射的に体が起きた。
「なに?」
「水瀬さん」
「はい、なんでしょう?」
わざわざ体を起こしたのに凪沙の目的は明澄に向けられたものだった。庵を飛ばして会話する二人を余所に、再びぐでんと寝っ転がり、やがて会話が腹の上を行き来し出した。
「別に私、庵の事狙ってるとか好きとかじゃないから安心してね! 急にこんなチャラめの女が近付いてきて警戒したと思うけど、それはないから」
訴えかける凪沙の眼はまた不安げなものだった。
暫く音沙汰もなければ連絡先を交換しているでもないのに、突然押しかけて来たのだから庵の恋人である明澄に不審に思われても仕方ない。余計な心労をかけさせまいとしたのだろう。
また庵は不貞行為や人の信頼を裏切る人間ではないが、凪沙は彼を深くは知らないし、庵にも万が一の気を持たせないという配慮でもあるのかもしれない。
そんな律儀な凪沙を、明澄は静かに優しい笑みで受け止めた。
「ふふ。ご安心を。庵くんをそう簡単に誰かに盗られたりするつもりありませんし、彼が他の女性に目移りするとは思いませんので。寧ろ、庵くんは友達がいないって言っていましたから、こんな優しい方がいらして良かったなと思ってるくらいです」
それは正妻の余裕を持った返答だった。
加えて見くびるなとも取れるほど自信に満ち溢れている顔だ。
それなりに交流のあるクラスメイトや、明澄と同じくらい付き合いのある澪璃などには多少の不安や焦燥感を感じても、凪沙にはそういう不安は抱かなかった。
ぽっと出の相手に取られるほど自分に魅力がないなんて思わないのは、明澄の良いところだろう。かつ庵への信頼も絶大で極めて冷静な返しも、庵が気恥ずかしくなるくらいの惚気でもあった。
凪沙もぽかんと口を開けて、寝転がっている庵と彼女を交互に目をやりながら、最後には眉を八の字にしつつ目を細めた。
「あ。なんか余計な気遣いだったかも……ほんと急にごめんね。そろそろ帰るよ」
これ以上付き合わせるのは迷惑がかかる。話がつけば、凪沙は最後にぺこりと頭を下げた。
「おう、気にするな」
「お気を付けてお帰りくださいね」
「ありがと。じゃあね」
座していた縁側から立ち上がり、凪沙は潔く手を振って立ち去り、見えなくなるまで明澄と送り出した。
遠くなっていく彼女の背を見つめる庵の瞳は柔和に膨らんでいて、そっと明澄は見上げながら小さく笑みを送った。
この自己中心的ながらも彼女の誠実な行動はこの夏、凪沙がもう一度二人と関わりを持つきっかけになろうとしていた。





