第180話 意外な特技
「そういえばね、庵。言い忘れてたんだけど、この間調律師さんに来てもらってピアノを調律してもらったの。また庵が弾くかと思ってね」
リビングのソファに明澄と一緒に雑誌を眺めていたら、スポーツウェアとキャップ姿の詩阿が通りがかった。
彼女はショルダーバッグをかけ直しながらそれだけ伝えて、「じゃ、東さんとジム行ってくるからね。勿論明澄ちゃんも好きに使っていいわよ」と追加で一言、二言残すと、家を出ていった。
庵は「ありがとう、気を付けてな」とだけ返事するのだが、隣にいた明澄は「!?」と分かりやすく犬が耳を立てるように驚いた反応をしていた。
「庵くん!」
「はい」
案の定、眼を大きくして新発見に興奮する学者が如く彼の名を呼ぶ。
「庵くんはピアノが弾けるんですか!?」
「ちょっとだけな。小さい時から友達いなかったし暇潰しするなら庭でサッカーボールの壁当てするか、ゲームするか絵を描くか、そこのピアノで遊ぶかくらいだったし」
「あ、あぁ。そうですか。庵くんに友達が少ないのがこんな所にも影響が……」
幼少期の人間関係の事もありつつマイペースでかつやりたい事を優先していたため、必然的に友達出来なかった彼は、一人遊びを極めていた。
庵のスペックの高さの源流は独学であらゆるものに興味を持って手を付けていたからで、ピアノもその内の一つである。
本来なら誇るべき事なのだが彼のピアノの始まりがなんとも言えず、明澄は最初輝かせていた瞳を逸らし気まずそうにしていた。
「別に悲しい事じゃないからな? 同情はやめてくれ。ピアノの経験者がクラスにいなくて合唱祭の伴奏者選びに困った時に誰も俺が弾けるのを知らなくて、候補にも上がらなかったのは有難かったし……うん」
より悲しくなるようなフォローを口にしながらも、最後にはやはり苦しかったのか段々と尻すぼみに庵は口数を減らす。
今いる友人の存在は大事だが、断じて友達が欲しかった訳ではないし、寂しかったとかもない。
ただ、中学生頃までの自分が寂しいやつだったのは分かっているので、そういった類の話では胸が張れないというだけだ。
「ま、まぁそれは置いといて、ちょっとだけ触ってみても良いですか?」
露骨に話題を切り替えた明澄はリビングの隣にあるインナーテラスに置かれたピアノを指差す。
折角、詩阿が調律師を呼んでメンテナンスしてくれたのだから使わないのも勿体ない。雑誌をテーブルに置いて、小さな円形のインナーテラスに場所を移した。
「明澄も弾けるのか?」
「猫踏んじゃったとかぶんぶんぶんとか、音楽室で友達と遊んでたくらいなので、弾けるなんて恐れ多いです」
椅子に座った明澄が鍵盤に指を乗せつつ、期待には添えない事に苦笑いした。
(それは楽しそうだな……)
友達というワードに敏感になっている傍で、彼女はぎこちない指使いで鳴らしていけば「……もう忘れちゃったなぁ」と、残念そうに呟く。
「レミファレドの時のヘ音記号部分はシソドだったはず」
「あぁ! そう言えばそうだったかもです。いえ、こんな私の拙いのよりも庵くんが弾くところを見てみたいのですが、一曲何か弾いてみてくれませんか?」
「良いけど、期待し過ぎないでくれよ。遊んでただけなんだから」
自分では満足に弾けなかったからか、ささっどうぞと明澄が早々に席を譲ってくる。
どうにも今からプロが弾くかのような期待をされている気がして、庵は上がったハードルを下げつつ、そっと静かに鍵盤へ指を添えて、やがて軽やかな旋律を奏で始めた。
「わぁ、G線上のアリア……!」
緩い陽射しと開けた窓から吹き込む心地よい風に身を包みながら、穏やかな昼前のインナーテラスに優美な弦の音色が響くと、明澄がときめいた声を漏らす。
「音が全部綺麗で好きなんだよな、この曲」
「分かります。滑らかで優雅、深みと無駄のないメロディが心を落ち着かせてくれる感じがしますよね」
久しぶりで楽譜を追いながら懸命な庵の演奏を、ピアノの横に置かれた特等席に座っている明澄はゆらゆらとリズムをとりながら楽しんでくれる。
「今度はボレロですね。リズムもメロディも単調なのに凄く迫力に溢れる曲ですけど、ピアノの独奏で聞くとまた違った良さがありますね。大人しいようで力強くて、きちんとあの壮大さも表現されているのが素敵です」
目を瞑った明澄が一音一音逃さぬよう隅から隅まで堪能しきり、そして自然と溢れる感想は明澄が語る時特有の饒舌さだった。
「急にめっちゃ饒舌。明澄、クラシック好きだもんな」
「もしかして私のために?」
「弾ける曲の範囲でな」
どうせなら聞かせる相手が知っている曲や好きな曲を聞かせてやりたいものだ。
一瞬だけ楽譜から目を離した庵がはにかむ。
そうすれば風に揺れるシアーカーテンの隙間から射し込んだ陽の光でよりその笑みが眩しく煌めいて、明澄はぽっと薄紅の花を咲かせる。
期待しないで、と言う割に有名所の曲は網羅しているのかと思わせるほどで、次々と曲を弾き進めていく様は見惚れるものがあった。
うっとりとした表情の明澄が「……庵くんのピアノかっこいいなぁ」と、そんな呟きを音色の裏にぽつりと零しては聞き惚れていた。
「ご清聴ありがとうございました」
十分近くは経過しただろうか。
腕や肩、拙い演奏を聞かせる事への精神的な疲れも溜まってきた庵は、最後は静かに優しく鍵盤に指を沈め微かに余韻が残る中、明澄に向いてそれっぽく一礼してフィナーレとする。
「庵くん、凄いじゃないですか! もう。ちょっとだけなんて謙遜して」
ぱちぱちぱちと手を叩く明澄は、再び興奮を募らせていた。手放しで明澄が褒めてくれるが、庵は曾祖父母にコンサートへ連れられた経験から本物を知っているので、右手を振って否定しながらぽりぽりとこめかみを掻く。
「いやいや、遊びの範疇だから。初めて三ヶ月くらいでもきちんと習っている人と比べたらあまりにも違うしな。それにさっきもいっぱいミスしたし」
「全く弾けない私からすればこれだけピアノが弾けるって凄いですよ。なんで配信とかで言わないんですか? 良いネタになるんだからもったいないですよ」
「そういう自慢するのは好きじゃないから……」
何でも配信に活かしたりネタにしよう、という根っからの配信者である明澄とは根本的に意識が違うのだろう。
変な見栄を張ったりするのに妙な所で慎ましい庵はそう苦笑いしていた。
「あ。もしかして庵くんがお歌が上手な理由って……」
ぴこん、と明澄はエクスクラメーションマークを頭上に浮かばせる。
「それはあるかもな。ピアノを弾きながら好きに歌ってたし、音程とかリズムとか声の出し方とか自然と出来てたのかもしれん」
「私ボイトレ行ってますけど、ピアノで音を取ってくれますし、やっぱりそうなんでしょうね」
「音楽の授業でも先生がピアノで『この音ですよ』って言いながら指導してくれるしな」
歌や踊りをしない人間にしては、という前提付きかもしれないが、度々庵の歌声は明澄だけでなく澪璃や他のライバーにも褒められる。
またリスナーからも「歌みたを出してくれ」と度々せがまれるのだが、その理由にも納得がいく瞬間だった。
「そうだ! 年末の周年ライブですけど、庵くんピアノ弾いてくれませんか! 私と澪璃さんが歌うので」
「大勢に聴かせるにはちょっと……。あと人のライブには出るつもりはないし」
なんとかライブに出演させたい、あわよくば3Dの身体を作らせようとしている明澄は、閃いたとばかりに熱視線と共に庵へ迫ったが、その返事の色は良くなかった。
練習時間も取る必要があるし、今はまだいちファンとして眺めていたい気持ちの方が強い。
断られてしまった明澄は「えーッ!? 残念です……」と、ずんと撃沈してがっくり肩を落とした。
「けど、ぷろぐれすのあのテーマ曲弾けるよ。今で良ければ」
「是非!!!!!」
公式にライブでコラボをするつもりはないが、今は庵と明澄の時間であり自由。
断った事を申し訳なく思う庵が代わりにと提案したら、明澄の食い付きは凄かった。
気圧されながら庵は、明澄の美しいコーラスを加えて、最後の一曲を奏で始めた。
「……ふふふ。まさか、庵くんとこんな事を出来る日が来るなんて。私の彼氏さんは多才過ぎますって」
歌い終えると明澄が、どこか誇らしそうに満足げな笑みを浮かべる。
「絵以外は広く浅く中途半端なだけだよ。なんか明澄の歌声の方に負けてる気がしたしなあ。明澄の声って透き通ってて綺麗だし、でも軽すぎなくて音の厚みは圧倒的だから汚してる感じがして気が引けたくらい」
「そんな事ないですっ。庵くんはプロイラストレーターだから『出来る』のハードルが高いだけで常人からしたら十二分です。あと褒め過ぎですよ。によによしちゃいます」
謙遜しきりの庵の語尾にやや強く明澄が否定を被せつつもその後表情が切り替わり、彼女は照れ照れと頬に手を当てていた。
ストイックでこだわり屋であり完璧主義的な性格がある分、彼は本職にリスペクトし過ぎるきらいがあるのだ。
なのに、他人の能力は好意的に捉え、特に明澄には全肯定に近いものがある。自分に厳しく他人に甘いのがたらしの素質にも繋がっているのだろう。
「それは俺が言いたい事だって。明澄が何でも凄い凄い、かっこいいって言ってくれるから自分が出来ると勘違いしそうになるし」
「だって、庵くんの全部がかっこいいんですもん」
ただ、このように全肯定するのは明澄もだが。もし第三者がこの現場を見ていれば似たもの同士だ、とここの甘ったるい空気を吸った事だろう。
照れくさくなった庵は、頬にぎりぎり日光のせいに出来るぐらいの赤みを付けて「ありがと」と、明澄の頭にぽんぽんと手をやった。
「さて、そろそろお昼ご飯作ろうかな……」
もう昼食が近い。ピアノを軽くクロスで拭きつつ、この擽ったさを誤魔化すように話を逸らす。
ピアノの日光を当てすぎると良くないので、遮光カーテンを閉める作業をしていると、庭の門の傍からこちらを伺っている人間を見つけ出した。
人の家を覗くとは非難されて然るべきだろう。明澄もいるし、不審者には庵も「誰だ……? そこで何やってる?」と言葉や口調が荒くなった。
すると、その者は逃げ出す事はなく門の正面に立つ。
先日から庵たちを影から遠巻きに見つめていた黒髪の少女が、ついに姿を現した。
かなり初期から考えていた庵くんのピアノですがやっと出せました。歌が上手い事は何度も触れてたんですけどね。
庵くん、君は一体何を持ちえないというのだ。
わたくしは実家のピアノを鳴らすだけ鳴らして終わってしまったというのに……笑





