第179話 練習は大事
「びっくりです。庵くんはなんでも出来ると思ってたからてっきり苦手な物なんてないのかと」
強い陽射しが降り注ぐ自宅前。
自転車を挟み、庵を買い被った明澄が意外そうに述べる。
対する庵は、決まり悪そうに小さく息を吐き出した。
「俺にだって出来ない事はあるよ」
中学への通学用に買って貰ったものの殆ど乗っていなかった為、傷が少ない自転車。それを一瞥しつつ明澄は「それがこの自転車ですか」と、微かに不思議さと微笑ましさを織り交ぜた呟きを放っていた。
運動神経が悪いなら納得だが、庵は観察眼が鋭く人の動きを見てそのセンスと運動神経を活かしてすぐモノにしてしまう。
出会った頃に面倒を見てもらった片付けも苦手というより、忙しさに胡座をかいていただけだ。
しかし、庵も万能ではない。過去に痛い目を見た庵は、渋面で自転車を少し睨んだ。
「そうだ。これだけは何故か上手く乗れないんだよな。このディザスター号には酷い目に遭わされたものだぞ」
「ディ、なんです?」
「ディザスター号だ。こいつは厄災を招く」
「あなたが撒き散らしてるのでは?」
本気か否か、自転車に珍妙なネーミングを授け大袈裟な言い方をする庵に、容赦なく冷ややかな視線と厳しい指摘が飛んできた。
ついでに「庵くん、偶にばかになりますよね」とも溜め息までつかれる始末。
「そういう明澄は乗れるのか?」
「当然乗れますよ」
「流石は天才の聖女様だな」
「庵くんが低レベルなだけなんですよ?」
ジト目の明澄から辛辣な言葉が返ってくる。
今年初めの頃よりはかなり丸くなったが、毒舌は未だ健在だった。
「俺の彼女はひでぇや。俺の上裸も見れないくせになぁ?」
肩を竦めつつ返す言葉がなさそうにしながらも、彼はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべ、明澄の顔を覗き込んだ。
「も、もう見れますよっ。一昨日の事忘れたんですか? 庵くんがお家の中でも上半身、は、裸で歩くし、見せてくるし」
途端に明澄の顔が真っ赤に染まった。庵に弱点があるなら明澄にも当然存在する。
異性の肌、特に庵に対して耐性がない。
「俺が悪いみたいな言い方してるけど、明澄もここぞとばかりにいっぱい触ってきただろ」
「だ、だって、すごく硬くてしっかりしてたし、全然私と筋肉とか違うし、仕方ないじゃないですかっ。 慣れないといけませんし!」
彼女も年頃か下心の自覚があるようで身振り手振りで弁明する。そんな明澄を庵が面白がってつつくものだから、彼女はつい自白して最後はもう開き直った。
そもそも以前から庵が服の裾を摘んで仰いだりした際、肌が見える度に明澄は隠してくださいと言いながらもちらちら見てきたりとか、手で顔を覆っても指の隙間から瞳を覗かせていた。
ただ、一緒に生活していれば明澄にも無防備な場面はあって、庵もつい目で追ってしまうしお互い様だ。寧ろ興味なさそうにされる方が傷付くというものだろう。
「というかいいんです! そんなのは!! 庵くんを私が自転車に乗れるようにしてあげますよ」
「めっちゃ話を逸らすなぁ」
「気のせいです。それで、練習しますか、しませんか?」
赤らんだ頬のままどこかやけくそ気味に、ずいっと自転車の向こうから身を乗り出した明澄は二択を迫る。
「します」
「よろしいです。私が面倒を見てあげましょう」
庵がありがたく思いながら頷くと、明澄もまた満足そうに頷きながら腕捲りするジェスチャーでふふんと胸を張った。
「まずはお手本の私が乗りますのでよく観察してください」
「分かった。危ないと思ったらすぐに降りるんだぞ」
「庵くんではないので、そんな心配をされる覚えはありません」
では、とサドルに跨った明澄は滑らかに漕ぎ出した。軽快に乗りこなす明澄は三十メートルほど漕いだ辺りでスムーズにターンをして帰ってきた。
庵の目の前に戻ってきた明澄は、自信満々にスマートな動作で地に足を付けた。
「どうでしょう、参考になりましたか?」
「うん、一応。ただ仕組みとか乗り方は分かるんだよな」
「庵くんは技術を見て学ぶのが上手なので、何か別の原因がありそうですね。とりあえず、乗ってみてください」
明澄からハンドルを受け渡された庵は硬い面持ちでサドルに跨る。
それだけで緊張が走ったのか、彼の肩が上がり全身の筋肉が強張っているのは誰の目からも明らかだった。
「横には来るなよ。危ないからな」
巻き込んではいけないので庵はそう忠告してから漕ぎ出すのだが、漕ぎ出してすぐバランスを崩した。車体が二度三度左右に蛇行してから、ズシャアと車輪と靴の裏が滑る音と共に「わ! 危ないっ」と明澄の焦った声が一帯に響く。
「庵くん、お怪我はありませんか!?」
「どうにか持ちこたえた。問題ない」
庵の無事を確認すると明澄は、ほっと胸を撫で下ろす。
「しかし、なんで乗れないんでしょうね?」
「分からん。昔、親父と乗る練習した時に結構な怪我をしてな。それからはロクに練習もしてない。ま、才能がないんだろ」
小首を傾げる明澄に、庵は自嘲気味に笑いながら車体を起こす。
そうは言っても庵の運動神経は良いはずだ、と明澄は人差し指を顎に当てて「ふむ」と考え込む。
しばらくミーンミーンと姦しかった蝉の鳴き声が止んだ直後、明澄がいくつかの思考の末に結論を弾き出した。
「もしかして、庵くん。異常にびびってるのでは?」
「うん? そりゃびびってるぞ。怪我するかもしれないからな」
「それが問題なんです。庵くんって痛いのをかなり嫌がるじゃないですか。ピアスとかにも拒否反応示してましたし。だから怪我したせいで怖くなって、身体が強ばったりして上手く身体を使えてないんじゃないでしょうか」
「どうだろうなぁ」
しっくり来なさそうな顔をしているが、明澄にはそうとしか思えなかった。プロスポーツ選手がパフォーマンスを充分に発揮出来ない環境の一つに恐怖心がある。
庵もそれに近い状態ではないかと明澄は推察していた。
原因さえ特定出来れば、もう対処するだけだ。明澄の顔に、頼もしい先生のような笑みが浮かんだ。
「最後にもう一度挑戦してみましょう。落ち着いてゆっくり乗ってみてください」
「そんなんでいけるかなあ。単にセンスがないだけだと思うんだけど……」
「私が補助しますから大丈夫ですよ」
明澄は自転車の後方に回り、荷台を両手でしっかりと掴んだ。
すっかり自信を喪失している庵は疑いながらも彼女の存在を背中に感じつつ、ゆっくりとペダルに足をかけた。
心なしか先ほどよりも、胸のざわつきが収まっているのを感じながら彼は漕ぎ出す。
「明澄いるか?」
「いますよ」
「明澄いるか?」
「はい。いますとも」
後ろを振り向く余裕がないので、そんなやり取りをしながら低速で進む。
返事がある安心感から力が抜け、次第に安定してきたと思った頃には明澄の声が少しずつ遠ざかっていった。
「……ほら、乗れたじゃないですか!」
程々に漕いでからゆっくり足をつけて振り返ると、明澄が喜びを露わにし手を叩きながら弾むように笑っていた。
「って言っても、ちょっと怪しかったがな」
「いえ、成長とは一歩ずつ刻むものです。この調子で頑張りましょう!」
メンタルコーチも兼ねている明澄はガッツポーズで背中を押してくれる。
そうして休憩を挟みながら二時間近い練習により、持ち前の運動センスから庵は自転車に乗れるようになったと言えるレベルまでには達した。
きっと、怪我した後に練習を辞めず、東に補助してもらっていれば今のような結果はすぐに出ただろうし、案外簡単な話だった。
「庵くん。よく頑張りました」
「あ、ありがとう」
えらいえらい、と子供扱いするように明澄は背伸びして庵の頭をにこにこ顔で撫でてくる。
背丈に差があるので小さな先生の方が微笑ましかった。
「汗もかきましたし、今日はこのくらいにしておきましょう」
「そうだな。戻ろうか」
「では、ついでにポストを確認してきますので、庵くんは自転車を片付けて来てください」
了解、と自転車に乗れた嬉しさからにこっと笑って、互いに分かれる。
明澄もまた満足そうにしながらポストにあった新聞とチラシを取り出し整理していると、ふと視線を感じた。
斜向かいの住宅のブロック塀の陰から、じっとこちらを凝視している人物がいるのに気が付いたのだ。
「あのう、何か御用でしょうか?」
(あ、行ってしまいました……)
話しかけるや即、真っ直ぐ足早に去ってしまった。
「誰と話してたんだ?」
「話したというより話し掛けたらいなくなってしまいました」
なんだったんでしょう、と明澄は不思議そうな顔をする。
「なんか、見られてたのかね?」
「さあ? 自転車に乗ってる庵くんが奇怪で気になったんじゃないですか?」
「奇怪って……」
また毒舌を浴びせられた庵はなんとも言えない表情をしながら肩を竦める。
(あの後ろ姿。確かあれは……)
敵意はなさそうなので明澄には黙っているが、先日から見覚えのある人物だ。
庵は警戒だけに留め明澄の手を引いて自宅に戻った。





