第178話 意外な苦手
「庵くん! 庵くん!」
ある昼下がり。レースカーテンに抑えられた柔らかな陽光が差し込むリビングで、庵は先々月のW杯の決勝戦の録画を流し見ていた。
お気に入りのバヤ〇ースオレンジの缶に口を付けようとした寸前で、妙にテンションの高めに名前を連呼しながら明澄の声が聞こえた。
「んー?」
「庵くんって、自転車に乗れないってホントですか?」
首だけ回して振り返れば、むんっと二つ握り拳を見せる明澄が興奮気味に尋ねてくる。
「それ、誰に聞いたんだ?」
この元気っ子みたいな明澄の登場頻度は少ないから、何事かと思えばそんな事だった。庵は基本スペックが高く多芸多才。センスだけなら明澄をも凌ぐからこそ、彼にも苦手な事や弱点があったのが驚きであり新鮮らしい。
決して馬鹿にしたり笑いに来たのではないのは分かるが、面白い事を嗅ぎ付けて来たと言う風な顔をしている。
庵はやれやれと半ば開いた目をして問い、ジュースに口を付けながら彼女の返事を待った。
「さっき、詩阿さんがパソコンで庵くんの昔の写真を見せてくれてたんですけど、その時に教えてくれました」
「母さんめ。言わなくていい事を」
予想出来た範疇の回答が返ってくる。この家で起きる物事の大半は詩阿原産である。
明澄を気に入っている彼女は、明澄に聞かれればなんでも答えるだろうし、自分からペラペラ喋りもするだろう。
明澄も好いている庵の事をなんでも知りたがるのでそこでマッチしたようだ。パソコンの画面に写った写真をスライドしながら、詩阿が一枚一枚丁寧に余計な事を交えて思い出話をしていたに違いない。
隠していたつもりはないが自分の不得手をあっさりとバラされた庵は「しかも勝手に写真見せてるし……」と、若干恨み節で溜め息をついた。
「小さい庵くんも可愛かったですよ。ポ○モンのぬいぐるみを大事そうに抱きしめておめめがきゅるきゅるしてたのとか、ゲームのセーブデータ消しちゃって号泣してるちっちゃい庵くんとか、ピアノの上でおもちゃのギター持って演奏のフリしてるのとか」
「変なやつばっか見られてんな、おい」
「ふふ。庵くんにもあんな時代があったんだなぁって、新鮮でした。また続きも見せてもらう予定です。庵くんも一緒に見ましょう」
「やだよ。恥ずかしいだろ」
「えぇー、いいじゃないですか! 恥ずかしがってる庵くんを見たいんですよ」
依然として作っている握り拳を震わせながら明澄が明け透けに力説してくる。
「それは隠してくれよ」
「素直にお願いしたら聞いてくれるかなって。いえ、そんな事より自転車ですよ、自転車。乗れないって本当です?」
「そんな事って、お前なぁ……。ま、自転車だが乗れないつぅーか、乗るのが下手なだけで全然乗れるけどな」
終始好き勝手に言ったり食い気味に聞いてくる明澄に、なんなんだ今日はと思いながらも掌を上に広げて自信ありげに話す。
本当は嘘だが、庵の弱点を知って嬉しそうな明澄が癪だったのだ。
「それ、乗れない人が言うやつ……」
「疑うんだな。じゃあ、見せてやるよ」
「怪我、しないでくださいね」
あっさり見透かされた庵は変なプライドが邪魔をした。出来もしないくせに強がって言い放てば、明澄からにっこりと忠告される。
売り言葉に買い言葉、なんて思っているのは庵だけ。その明澄の笑みには淡くだが見下すような色が混じっている事に気付いていない。
見てろよ、と缶の中身を飲み干した庵は玄関へ意気揚々に歩いていく後ろを、子供の面倒でも見るようにしょうがなそうな面持ちで明澄が着いて行った。
「よぉし、この勇姿を目に焼き付けてくれ」
敷地の外にある生活道路は田舎とあって、ほぼ車どころか人通りもない。明澄が心配そうに見守る中、自転車に跨った庵が出処不明な自信と虚勢を張り付かせつつ、高らかに告げる。
そうして、勢いを付けて漕ぎ出すが――
ガシャン。
二漕ぎ程で簡単に自転車が横に転けた。幸い運動神経が良いから綺麗に片側の足は地面に着いていて、大惨事には至っていない。
イキがった割にやらかしたので咄嗟に振り返ると、そこには唖然とした表情の明澄がいた。理解が追いついていないといった顔である。
「え……」
「待て待てそんな顔するな。久しぶりでちょっと感覚がな。もう一回乗るから」
遅れて失望にも近い声を無意識に漏らした明澄に、早口で言い訳を並べ立てる。
乾いた笑いで誤魔化しつつ、庵はもう一度自転車に跨って再び漕ぎ出す。
ゴシャッ。
しかし、今度は一漕ぎもしないでペダルから足を滑らせ、アスファルトをタイヤが滑る派手な音が響いた。
「もうやめましょう? 危ないですよ」
このままだと大怪我をするのではと焦った明澄は、これ以上庵が強がらないよう笑みを作りながら止めにかかる。
「違うんだ。ペダルを上手く踏めなくてな。久しぶりだからさ」
「久しぶりとかの問題ではない気がします」
「いやいや、乗れるって。……ほら!」
一向に認めない庵は三度自転車に跨り、三度目にしてようやく前に漕ぎ出す。
けれども、その動きは蛇行運転そのもの。ギィギィとぎこちない音を立て、ふらふらと進んでいくのだ。
これには明澄もドン引きで「うわぁ……」と漏らし、開いた口元に手をやりながら、その頼りない背中を見守るしかなかった。
「おい、なんだその目は!?」
なんとか反転もこなした庵が戻ってくると、信じられないものを見る目が突き刺さった。
自転車が乗れない事にではなく、この有様で乗れると表現した事にだ。それほど酷いにも関わらず庵は不満を示す。明澄はそれすらも引いた様子だった。
「言いにくいのですが、あの……普通に乗れてませんよ、あなた」
躊躇いつつも誰かが言わねばならないと残酷な事を突き付けるように、明澄は主観的にも客観的にも事実である事を忌憚なく口にした。
「そんなに酷いか?」
「乗れても左右にふらふらしてて怖いです。これで乗れる判断をするから、自転車の事故がなくならないんだと強く思いました、まる」
これ以上の強がりはいくらなんでも無理があると思ったのか、しょんぼりと落ち込むように尋ねた庵だが、明澄からネットでは小並感と言われるような感想文じみた口調で答えられる始末だった。
ただ、救いなのは今明澄が何とか出来るかもしれないと心の隅に抱えている点だろう。この歳になって初めて庵に、自転車の乗り方の教え役が誕生しようとしていた。
久々に変な庵くんと、辛口&なんなんだこの人はと思っている明澄さんの回でした。
次回、何故庵くんが自転車に乗れないのか壮大で重い過去が明らかに……はなりませんが、お話は少しだけ続きます。因みに乗れない理由はきちんとあります。





