第168話 聖女様とご挨拶
「あれ、二人共居ないのか?」
門を抜けて玄関までの石畳を通ると、シャッターの上がった大開口の窓から中のリビングが見えるのだが、外からは両親の気配が見えなかった。
到着直前に連絡を入れてあるので準備して待っていると思われたが、どうやらそこには不在らしい。帰省の日にちは間違えてないし、いい加減な事はしない親なので外出しているとも思えない。
額に滲む汗を手の甲で拭いながら、庵は少しだけ眉を顰めつつ玄関に足を運んだ。
「ご都合悪かったでしょうか?」
「いや、それない。まぁ、どっかにいるだろうし、入ろうか」
未だ消えない緊張を抱える明澄と手を離し、インターフォンは鳴ならさずに玄関のドアを開くと同時に階段を降りる音が聞こえる。
中に入ると外の猛暑が嘘のようにひんやりとした空気に満ちていた。
そして庵は廊下の先に母の姿を確認した。
「おかえりなさい、庵」
「ただいま」
あちらも庵の姿を確認するなり、しずやかなのに奥の方からでもはっきり通る凛とした声で庵を出迎えた。
母である詩阿は三十後半の年齢よりも若々しく涼やかな空気を纏っていた。背筋をぴんと伸ばした綺麗な立ち姿で、どこか浮世離れした落ち着きがある。
彼女の視線は、庵の隣でこちらも背筋を伸ばす明澄へとゆっくりと向けられ「ああ、そちらが……」と呟くが、その表情は何を考えているか分からないものだった。
明澄は弾かれたように姿勢を正して小さく息を吸い込み挨拶をしようとしたが、詩阿はその前に「二度手間でしょう。リビングへいらっしゃい」と、僅かに微笑んで踵を返した。
(母さんめ。これじゃ、明澄が怖がるだろうが)
庵の父もいるので本人は気を遣っているつもりなのだろうが、初対面の明澄には淡々としたマイペースな対応はプレッシャーだろう。現に残された明澄は出しかけた声の行き場を失い固まってしまっていた。
目を覆う庵は質素過ぎる応対の母に呆れながらも、緊張している明澄の背中にそっと手を添える。
「あんな対応で悪いな。ほんと変な人なだけだから」
「大丈夫です。悪い感じはしませんから」
靴を脱ぎつつすまなさそうする庵に、明澄はにこりと笑えば「お邪魔します……」と小さく言って彼の一歩後ろから付いてきた。
明澄を伴ってリビングに入るとさっきまではいなかった彼の父親――朱鷺坂東が、ティーカップ片手にダイニングテーブルに座っていた。
優男風だが威厳めいた雰囲気も持ち合わせた男で、特筆すべきは母の詩阿と同じように三十代前半と言っても通用する若い見た目だろう。
庵は母親似なのでそれほど似てはいないものの、空気感は明澄と出会った頃の素っ気ない庵を思わせた。
「帰ったぞ。親父」
荷物を下ろしながら彼は一声かける。なのに東は庵を見上げてやや目を見開いては黙ってばかり。庵が片眉を上げて「何をほうけてるんだ?」と怪訝な顔をすれば、東はようやくその口を開いた。
「いや、悪い。随分と大きくなったなと……おかえり。そちらが、お付き合いしてる女性だね」
東が黙っていたのは彼の成長ぶりに驚いたかららしい。もう一年半も会っていないし、入学後から庵の身長は十センチ以上も伸びているので致し方ないだろう。
明澄を見やって向けた表情はそれなりに柔和。庵が「おう。紹介するよ」と彼女の背中に手を伸ばそうとしたが「あ、庵くん。私から」と明澄がそれを制するように隣に出た。
「は、初めまして。庵さんとお付き合いさせていただいております、水瀬明澄と申します。本日は家族団欒となる中、十日ほどの宿泊にも関わらず、快くお招き下さりありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします」
「これはご丁寧に。初めまして。庵の父の朱鷺坂東と申します。いつも息子がお世話になっております」
よそ行きの笑み浮かべた明澄は丁寧な挨拶を並べて深いお辞儀すると、東も返すように腰を折り挨拶した。
「そして、こちらは私の妻の、」
「初めまして。母の詩阿です。庵から色々伺っています。立ちっぱなしもなんですから、どうぞおかけになって」
続けて詩阿に向くと、彼女も同じように恐らく誰よりも美しい所作でお辞儀する。愛想良く手前の椅子に手を向けて促された明澄は「ありがとうございます。こちら、ささやかですが」と庵と選んだ手土産を渡して、並んで座った。
「なんか仰々しいな。二人共そんな話し方しないだろう。明澄もいつもの庵くんでいいよ」
「庵。挨拶とは始めが肝心なものだよ。それが息子の彼女となれば、尚の事だ。なぁ、詩阿?」
「全くです。礼儀を尽くしてこその歓待でしょう?当たり前のことなのよ。庵、その調子で迷惑をかけてはいないわね?」
重苦しいものではなかったが、節々にあったぎこちなさが紛れるかと思って、庵は苦笑混じりに茶化したら両親にめためたにされた。
この両人とも放任主義だが各種マナーから礼節、振る舞いはきちんと仕込まれている。
特に母方はその辺に厳しい家系だし、これも彼らなりの最低限の教育の一環なのだろう。
じろりと詩阿に目を細められた庵は、普段の行動を省みて格好つかなそうに頭を掻きながら明澄に謝った。
「迷惑かけて……はいるか。明澄、いつも悪いな」
「いやいやいや。私も迷惑をかける事はありますから。あの、お母様。庵くんには私の方がお世話になってますし、大体はきちんとされてますのでご安心ください」
「そう? まぁ、それならいいけれど」
明澄からのフォローは早かった。親の前で恥をかかせないようにしてくれたのだろう。
大体は、と正直に答えて嘘を付かないのも明澄らしいが。
割って入ってくれたお陰もあってか、詩阿は興味を失ったようにカップに口つけていた。
その一息ついたのを見計らったのだろう。会話が途切れると、明澄は再び緊張を蘇らせながら東と詩阿に呼びかけて真剣な瞳を向けた。
「それで、お父様、お母様」
「なんでしょうか」
「なにかな?」
勇気を振るうように声を上げた明澄に視線を集めた二人は、先までより張り詰めたものを彼女から感じ取ったのか優しい声音で対応する。
隣に居る庵に関しては、なんだろうかと思いながらも、明澄が今までにない表情をしていたので同じように居住まいを正した。
それから一呼吸空けて、
「お二人には、彼との交際を認めていただきたくご挨拶に参ったのですが、どうか認めてはいただけますでしょうか」
真摯な面持ちで東と詩阿を見つめつつ、明澄はそう言い頭を下げた。
明澄の性格を考えれば予見できたので驚きはないが、ここまで厳かとは思わなかった庵は反射的にぴしっと姿勢が伸びる。逆に夫婦の方は、ぽかんとしているようだった。
そうして、きっちり三秒下げていた頭を上げた明澄は二人へ向き直り、様々な感情を内包した千種色の瞳でその返事を待っていた。





