第162話 聖女様はしてあげたい
八月朔日。その日はやけに仕事部屋から出る事がなかった。
朝から作業に勤しみ、極力庵の手間を省けるように明澄が世話をしてくれたので作業スペースを離れなくて済んだからだ。
氷菓の次の新衣装について相談する事になったが、昼食に明澄がサンドイッチを作ってくれたので、それを一緒につまみながら仕事部屋でスケッチ出来て、効率的に過ごしたりしたのも作用した。
休憩を取る時も余計な娯楽に手を出さないように、仕事部屋に置いてある簡易ベッドに寝転がっていたりと、お手洗いくらいしか庵は部屋から出ていなかっただろうか。
そして、今日が自分の誕生日だと気付いたのは、夕方前だった。
寝室にイヤフォンを取りに行った時、なんだか甘い香りがしてキッチンに近付くと、明澄が型から円形のスポンジケーキを取り出していたのがちらりと見え、その庵とカウンター越しに目が合った明澄は「バレちゃいましたね」と、照れくさそうに笑った。
「あ、そうか。誕生日」
「はい。そうです、今日は庵くんのお誕生日の準備をしていました」
ここまで庵は全く気付かなかった。
朝から明澄がキッチンを借りていたのは知っていたが「夕食の仕込みです」とだけ教えられたから、今日は手が込んでるんだなとしか思わなかったのだ。
彼は本当に自分の事に疎い男である。
先日夏休みの予定を話し合った際、明澄が誕生日のお祝いを予告してくれていたというのに、すっかり忘れていた。
また数日前から様子がおかしかった明澄はこの日のために色々と準備していたんだと、今になって気付く。
明澄が自宅で準備するとここへ料理などを運ぶのはリスクがあって大変なので、昼前にはバレる想定で庵の自宅で準備していたのにこの有様だ。
擁護出来る点といえば、明澄がなんでもなさそうにポーカーフェイスだったのと、庵を部屋から出さないように細かに世話をして、庵の誕生日の準備と並行させていた所だろう。
「ふふ。なので、もう少し待っててくださいね」
初めから夕食時まで隠し通すつもりがなかった明澄は慌てる事もなく、にこりと笑った。
これ以上はキッチンの全貌を覗くのは野暮だろう。
庵は大人しく用事を済ませると、夜を楽しみにしながら仕事に戻った。
# # #
「お仕事、お疲れ様です」
作業が一段落して、腹の減り具合がピークに達した頃、庵が部屋から出ると明澄が待ち構えていた。
待ち侘びていた様子だった彼女は庵を労い、その表情に燈を灯した。僅かに頬を上気させ、慈愛に満ちた穏やかな笑みが浮かべられる。
華やいだ気分から玲瓏に映る瞳は庵を捉え、リップでつやと光る唇がたわんで――、
「お誕生日おめでとうございます」
明澄は庵の胸にゆっくり飛び込むと、ぎゅっと抱き締めて、言祝ぐ。
胸に感じた温かみは穏やな喜びを彼女の体温と共に送り込まれたもの。
大事な事はいつもなら目と目を合わせて言ってくれるが、今日ばかりは全身で庵に表現してくれていた。
「庵くんに出会えて良かったです」
それは、喜びを刻むように。
「生まれてきてくれて、ありがとうございます」
そうして、感謝を形作るように。
「本当に大好きです」
それから、心より愛を込めて。
明澄はそれぞれに沢山の想いを乗せて、果てのない温もりで庵を祝福した。
胸の中で静かに庵を見上げる。
嬉しさいっぱいなその表情がありのままに作る微笑みに、じわーっと身体の奥底から熱くなるのを感じた。
「自分でも驚くくらい凄く嬉しいよ。祝ってくれて本当に、ありがとう」
これほどまでに素敵な言葉選びで伝えられて、なんて返そうか迷ったが、口を開けば言葉は思ったよりも素直に出てきた。
「そんな、お礼を言われるほどでは。いっぱい詰め込み過ぎて言葉が渋滞しちゃいましたし」
微笑を浮かべて感謝を述べた庵に、照れ隠しなのか謙遜をして、明澄は恥ずかしそうに小さく笑った。
「そんな事ない。俺はこんなにも想ってくれる喜びを知らなかったからさ。今日祝ってくれるのが明澄じゃなければ俺はずっとそれを知らない寂しいやつだった。だから、嬉しいんだ」
比較的友人が少なく、誕生日を祝われた記憶は殆どない。
一般的な家庭よりはドライな関係だが、両親は祝ってくれたし、祖父母も可愛がってくれたものの誕生日に特別な感情を持ってはいなかった。
有難みを感じても、産んで育ててくれた事に感謝をすれども、庵は誕生日を強く気にした事はなかったのだ。
明澄の誕生日にはあれだけ盛大に祝って、明澄に祝われる事への喜びを教えた側だというのに、彼自身は分かっていなかった。
だけども、文字通り目と鼻の先にいる彼女から、庵は祝われる事の喜びを覚えた。
嬉しくて、嬉しくて仕方がない。最大限に最上に、最愛で包まれた祝福が心地よくて、庵は宙に浮くような気分だった。
恋より実る愛はもう知っていた。だが、こういう愛され方もあるのだと、心身で理解させられたのだ。
「だからこの喜びを教えてくれて、ありがとう」
照れながらも満面の笑みを浮かべた庵は、これ以上ないくらいの感謝を口にし、優しく明澄を抱擁し返した。
「こちらこそです。私は庵くんと出会わなければ、熱に浮かされる恋を、愛し愛される幸福を知らないままでした。なんでもない会話、心地よいハグや幸せに感じるキス、全部が私に愛を与えてくれたんです」
庵に抱き竦められている明澄は仄かに朱色が滲んだ顔を彼の耳元に寄せ、想いの丈を並べる。
こんなにも自分への感謝で誕生日を彩ってくれているのに、明澄と顔を合わせないのは勿体ない。そう思い抱擁を緩めると、彼女から柔らかな笑みが向けられて。
「こんなにも人を愛しく想えるようにしてくれたのは庵くんです。あなたを好きになって良かったと心から思います。今日はその事と庵くんが生まれてきてくれた感謝を伝える日にしたいと思っていました」
飾り気のない真っ直ぐな言葉で、どこまでも愛おしそうに見つめながら伝えてくれた。
「うん。ちゃんと伝わったよ。ありがとう。それと俺が明澄の誕生日にした事が間違ってなかったようで良かった」
「庵くんのしてくれる事に間違いなんてないですよ。ずっとずっと出会った頃から、庵くんは優しくて強くて正しかった。私はそんな庵くんを憧れるように思いながら、好きになったのです。だから、あの日のお返しもさせて下さいね」
明澄の誕生日に、庵は誕生日を素敵な日だと思って欲しいと考えてあの行動に出た。
誕生日を普通の日と言いながら嫌っているような雰囲気だった明澄にそれをしたのだ。
当然、お互いの愛を確かめあって交際までしたのだから間違っていたとは思わなかったが、それでも祝われる事の喜びを今日再確認した庵は心ゆるびする。
「もう沢山してもらってるけどな」
「ふふ。まだ序の序の口ですよ。私の誕生日が凄くてハードル爆上がりでしたから、頑張らせていただきました」
以前から庵の誕生日をどう祝うか明澄は悩ましげにしていた。
彼女として庵に喜んで欲しいという気持ちが、健気に笑う明澄から感じられ、また愛おしさが込み上げてくる。
(かわいい……好きだなぁ)
「キスしていいか?」
堪らなく明澄を愛したくなって、背中から腕がすすすと上がり、手を明澄の頬に到着させる。
明澄が受け入れる意思を見せれば、間もなく唇が奪われる距離に顔が寄るのだが、明澄はびくっと揺れて身を捩った。
「……やっ、ま、待ってください」
ふい、と拒むように顔が背かれておろおろする声が漏れると、庵は若干青ざめてそっと腕を解いた。
ハグしているからといってなんでも許可してくれるものではない。恋人であっても互いのものだと言い合ってもそこにはボーダーラインがあって、その時の気分次第で変わっていくものだ。
いつもは許している事でも、今は嫌な時は誰にだってある。
「ごめんな。嫌だったか」
「い、いや、そ、そうではなくて! キス自体が嫌とかではなくてですね? とにかく庵くんは悪くないです!」
まずい事をした、と萎縮している庵を見て、明澄は急いであたふたしながら釈明をする。
その慌て方から気を遣ったのではないとは分かるが……。
「大丈夫。嫌な時は嫌って言っていいから」
「いや、とかではなく気になるのです」
「気になる?」
「さっきまでご飯を作っていたので、味見を沢山しましたし、お口がご飯の味がするのではと……」
口許を手で覆って隠す明澄に、庵は「あぁ」と納得する。
今日は誕生日だから品数おおく、豪勢な料理を用意してくれているのだろう。好みの物や普段は作らない手のかかる料理は味の濃いものが多い。
そうすると、匂いはどうしても強くなるもの。女子であろうと男子であろうと、キスの際は間違いなく気にする。
明澄が拒んだのも当然だ。嫌ではないと言いながらもやっぱり嫌な部分はあっただろう。
「で、ですし。その、今は……」
「分かった。明澄の気が向いた時にな」
「それも、ち、ちょっと違くて、ですね?」
まだ言いたい事があるのか、言い淀む明澄に庵は首を傾げた。
「えっと、その今日は庵くんの誕生日じゃないですか」
「うん」
「だ、だから……わ、私から、して、あげよう、かなって……」
ぼふっ、と湯気が立つように真っ赤になりながら明澄は、とてもいじらしい事を告げてくる。
これまで何度か口づけを交わしているものの明澄からというのはまだなかった。
あっても、最中に明澄から返してくれるくらいだ。
だから今日くらいは自分からしてあげようと計画していたのに、味見後の口内の状態も含めて、今庵からキスされるのは困ってしまったのだろう。
そして、自分から強請ったりするのは恥ずかしいらしくて、目も合わせられない彼女に「キスを?」とちょっと意地悪に尋ねたら、明澄は消え入りそうな声で「はい」と頷いた。
「なら今日は楽しみにしてようか」
俺の恋人はなんて可愛いんだろう、と庵は悶えている彼女へ微笑ましそうに笑う。
こんな可愛らしい明澄を見ていると辛抱が効かなくなりそうだが、明澄からしてくれると言うのだ。彼女が嫌がる事は絶対にしないと決めているし、誕生日を楽しみながらゆっくり待てばいい。
そう思って「手を洗ってくるな」と洗面所に向かおうとしたのだが、くいと裾が引っ張れるのが分かって立ち止まると――。
「あ」
ふわりと香るバニラの甘い匂いがして、頬に柔らかい感触が押し当てられる。
少し長めに。
唇が離れて、またふわりとしたのは銀白色の髪が揺れる仕草。
そして再び明澄の唇が庵の頬を掠めた。
「い、今はこれで……っ」
二回したのは明澄の意地か。羞恥が漏れ出て茜色に染まった顔でいっぱいいっぱいになりながらそう残し、ぱたぱたとスリッパの音を立てて早足でキッチンの奥に消えていった。
(やっばい……)
頬にだけというのに、大ダメージを受けたように庵はその場に立ちすくむ。
積極的な明澄には何度もやられてきたが、やっぱりその可愛らしさが勝手に武器になった破壊力は凄まじい。
のち、手を洗いに行ったつもりが、庵は火照り滾る顔を濡らす羽目になった。





