広がった名前
特等枠のラウンジへ向かうだけで、三度呼び止められた。
「本当にキルウェスタ様のお弟子さんなんですか」
そう尋ねられて、アトカは少しだけ胸元を見下ろした。漆黒のローブに縫われた黒蜘蛛の紋章は、師から受け取ったものだ。
「はい。先生に教わっています」
「至光会の事件にもいたって、本当か」
もう一人がすぐにその生徒の肩を掴んだ。
「待て。聞いていいことか先に確認しろ」
「話せないこともあります。でも、聞くだけなら大丈夫です」
結局、詳しい話まではしなかった。
廊下の向こうから来た戦技科の生徒たちが、すれ違ったあとで声を落とした。
「……あれが至光会を止めた一年か」
振り返らなかったが、その言葉だけは耳に残った。
ラウンジの扉を開けた時、アトカはいつもより少し深く息を吐いた。
「おはようございます」
「おはようございます、アトカ君」
リリシアが焼き菓子の皿から顔を上げる。
窓際ではエルマが記録へ筆を走らせ、ギルベルトは長椅子に腰掛けて古い銀の懐中時計を閉じた。バルトロは朝から干し肉を噛み、カインは机の端に肘をついたままこちらを見ている。
「遅かったな」
バルトロに言われ、アトカは壁の時計を見る。
普段より七分ほど遅かった。
「三回、呼び止められました」
「今日だけで三回ですか?」
リリシアが少し目を見開く。
「はい。一人は先生のことを聞きたかったみたいです。二人は至光会のことでした。最後の人たちは、話しかけてはいません」
「三回で七分なら、まだましだな」
ギルベルトが言った。
「昨日、俺は正門からここまで来る間に、お前を探してる一年を四人見た」
「僕をですか?」
「正確には『至光会を止めた子』だ。名前を知らないのもいた」
アトカは少しだけ困って、空の左袖を揺らしながら自分の席へ向かった。
自分の知らない場所で、自分の名前だけが先に歩いているようだった。
「嫌でしたか?」
リリシアが尋ねる。
アトカはすぐには答えなかった。
義手の指を一度握り、それから開く。
「……嫌ではなかったです」
「では、嬉しかったですか?」
今度も少し迷った。
「先生のことを聞かれたのは、ちょっと嬉しかったです」
言ってから、頬が少し熱くなる。
バルトロが干し肉を噛んだまま笑った。
「そこは嬉しいのかよ」
「先生はすごい人ですから」
「知ってる」
「僕の先生だって知ってもらえるのは、嬉しいです」
アトカが素直に答えると、今度はエルマまで筆を止めた。
「では、至光会の方はいかがでしたの?」
「それは……難しいです」
「何が?」
カインの短い問いに、アトカは少し考えた。
「僕を見て、すごいと言ってくれるのは嬉しいです。でも、僕だけが止めたみたいに言われると違います。リリシア先輩も、バルトロ先輩も、カイン先輩も、エルマ先輩も、ギルベルト先輩もいました。フレデリック先生も、大人の人たちもいました」
そこまで言って、アトカは口を閉じた。
自分の中に、もう一つ言わなければならないことが残っている気がした。
白い環へ水を届かせたのは、自分だった。
巨大な連結術式へ触れ、その流れを水へ変え、患者へ必要な経路を残しながら強制する側を止めた。
あれを、誰かに押しつけるように「僕は何もしていません」と言うのも違う。
アトカはゆっくり息を吸った。
「……僕も、止めるために力を使いました」
リリシアが柔らかく笑った。
「はい。アトカ君は、ちゃんと力を使っていました」
「そこまで消したら、今度は事実ではなくなりますわ」
エルマも筆を置く。
「至光会を一人で止めた、では正確ではありません。しかし、アトカさんが大規模な連結術式を止める中心的な役割を担ったことまで消す必要はありません」
「お前がやった分まで他人に配るな」
バルトロが言う。
「俺らの分も勝手に持ってくな。それでいいだろ」
「……はい」
アトカは少し笑った。
カインも小さく頷く。
「止めたのは事実だ」
「カイン先輩まで言うんですか」
「違うのか」
「違わないですけど……」
また頬が熱くなる。
ギルベルトは懐中時計を机へ置いた。
「なら、次に聞かれたら今のまま答えればいい。一人じゃない。でも自分もやった。それだけだ」
「はい」
それなら言えそうだった。
誰かに名前を知られること自体を、怖いものにしなくていい。
答えたくないことまで話す必要はない。
けれど、誇っていいことまで小さくしなくてもいい。
午前の授業を終えた頃、その考えをすぐに試すことになった。
魔導科棟の中央廊下には、次の授業へ向かう生徒が集まっていた。
アトカが教室を出ると、少し先にいた三人がこちらを見た。
一人は同じ一年の男子生徒だった。残る二人は上級生らしい。
「アッシュフォード君」
「はい?」
呼ばれて立ち止まると、一年の少年は隣の上級生を見た。
「ほら、本物」
「本物って何ですか」
思わず聞き返すと、少年が慌てた。
「いや、違う!偽物だと思ってたんじゃなくて!」
「それならよかったです」
「そういう意味でもなくて……!」
困り果てた顔に、アトカは思わず笑った。
上級生の一人が少年の肩を軽く叩き、代わりに前へ出る。
「悪い。俺たちが頼んだんだ。至光会の件にいたアッシュフォードって、本当に一年なのか見てみたいって」
「一年です」
「十歳?」
「はい」
「……本当に?」
「年齢は変わりません」
今度は三人とも笑った。
妙に張っていた空気が少しだけほどける。
上級生は、それでもまだ聞きたそうな顔をしていた。
やがて、少しだけ声を落とす。
「至光会の連結術式を、お前一人で止めたって話もあるんだけど。本当なのか?」
朝のラウンジで口にした言葉が、すぐ胸へ浮かんだ。
「一人ではありません」
まず、そこははっきり言う。
「特等枠のみんなと先生方、大人の技師さんや治癒師さんもいました。僕だけで事件を止めたわけではないです」
「やっぱりそうか」
上級生が少し安心したように息を吐いた。
噂が大きくなりすぎたと思ったのかもしれない。
アトカは、そのまま終わらせなかった。
「でも、連結術式を止める時は、僕も水を使いました」
相手の表情が変わる。
「大きな術式だったんだろ?」
「はい」
「それを水にしたのか?」
「外へ出ている魔術なら、水へ変えられます。治療に必要なものまで一緒に止めないように、みんなで分けました」
もう一人の上級生が、アトカの胸元の黒蜘蛛の紋章へ目を向けた。
「キルウェスタ様の弟子っていうのも本当なんだな」
その問いには、さっきより返事が早かった。
「はい。先生に教わりました」
「いつから?」
「六歳の頃からです」
「四年……」
上級生は紋章とアトカを交互に見た。
「そりゃ、あの人が弟子にするくらいなんだから普通じゃないとは思ってたけど……」
「先生がすごいから、僕まで全部すごくなるわけではありません」
「でも至光会の術式止めたんだろ?」
「それは、はい」
答えてから、アトカは少しだけ口元を緩めた。
否定する場所がなくなっていた。
相手もそれに気づいたらしい。
「……なんか、お前、そこはちゃんと言うんだな」
「言わない方がいいですか?」
「いや。そっちの方がいい」
上級生は笑った。
「俺だったら一週間は自慢する」
「一週間だけなんですか?」
「そこ気になる?」
また三人が笑う。
周囲を通る生徒たちも、何人か足を緩めていた。
いつの間にか会話を聞く人が増えている。
アトカは少しだけ肩をすぼめた。
嫌ではない。
けれど、これ以上増えると次の授業に遅れる。
「すみません。そろそろ行ってもいいですか?」
「ああ、悪い。止めてごめん」
「いえ。聞いてくれてありがとうございます」
アトカが会釈し、歩き出そうとした時だった。
「アトカ」
背後から聞き慣れた声がした。
振り返る。
廊下の向こうからルトが歩いてくる。
戦技科の制服に腰の剣。
特別に威圧しているわけではないのに、すれ違う戦技科生が自然に道を空けていた。
「兄さん」
「また捕まってんのか」
「捕まってはいません。話していました」
「同じようなもんだろ」
ルトはアトカの前まで来ると、集まっていた生徒たちを見回した。
別に睨んだわけでもないのに、一年の少年が少し背筋を伸ばす。
その直後、誰かが小声で言った。
「……ルト・アッシュフォード」
今度はアトカではなく、ルトへ視線が集まった。
「対抗戦の大将だろ」
「ギルベルトにも勝った」
「最後、アトカにも……」
囁きが続く。
さっきまで質問していた上級生が、目の前の兄弟を見比べた。
「もしかして、本当に兄弟なのか?」
ルトの眉が動いた。
「何でそこ疑うんだよ」
「いや、同じ姓だけど……噂だと思ってた」
「何のための噂だ、それ」
「だってさ」
上級生は一度アトカを見る。
「こいつ、至光会の術式止めたんだろ?」
「そうらしいな」
「そうらしいなって……弟だろ」
「俺は現場にいなかった」
ルトはあっさり答えた。
「俺が見てないことを、見たみたいには言えねえよ」
その返事を聞いて、アトカは少し嬉しくなった。
兄は自分を疑っているわけではない。
ただ、自分が知らないものまで、弟だからという理由で分かったふりをしない。
上級生は続けた。
「でも、お前、対抗戦でこいつに勝ったんだよな」
「ああ」
今度のルトは即答した。
「勝った」
周囲が少しざわついた。
「……あの水を抜けて?」
「どの水だよ」
「闘技場全部に広げたやつだよ。俺、あの試合見てたぞ。水の鞭も壁も、どこからでも来てただろ」
「まあな」
「剣で斬ってたよな?」
「ああ。何度も斬った」
ルトはあっさり認めた。
「水の帯も水膜も、邪魔なら斬った。できかけの水壁にも剣を差し込んだ」
一年の少年が目を輝かせる。
「じゃあ、やっぱり魔術を全部斬って進んだんですか?」
「全部じゃねえよ」
ルトは首を振った。
「こいつの水は、斬ったら終わりじゃない。斬った飛沫が水糸になったり、落ちた水がまた足元へ回ったりする。目の前の水を片っ端から斬ってたら、いつまで経ってもアトカまで届かねえ」
「じゃあ、どうしたんです?」
「必要なところだけ斬った」
ルトは腰の剣の柄へ軽く手を置いた。
「通る場所を作るための一太刀と、次の一歩に邪魔な水を切る一太刀。それ以外は避けるか、流れを読んだ。霧で見えなくなったら霧を見る。足元を塞がれたら、こいつが次にどこへ水を回すかを見る」
ルトは続ける。
「水だけ見てたら届かない。流れと、足音と、呼吸と、こいつ自身を見る」
アトカを顎で示す。
「強い魔術ほど、そっちばっかり見たくなる。でも最後に勝つなら、術じゃなく術者まで行かなきゃ終わらねえ」
周囲が静かになった。
アトカは、水で埋めた闘技場と、その最後に剣先が届いた瞬間を思い出した。
「兄さんは強いですから」
ルトがぴたりと止まった。
「お前」
「はい?」
「今のお前がそれ言うと、余計に面倒なことになるって分かってるか」
アトカは周囲を見る。
さっきより視線が増えていた。
「……どうしてですか?」
「至光会を止めた本人が『俺の兄は強い』って保証したら、説得力が増すだろうが」
「でも、本当に強いです」
「だから言うなって話じゃねえ。今は増やすなって話だ」
笑い声が起きる。
アトカも少し笑った。
それから、少しだけ負けず嫌いな気持ちが顔を出した。
「でも、次は僕が勝つかもしれません」
ルトがこちらを見る。
「お」
「僕も、あの時から何もしていなかったわけじゃないです」
「知ってるよ」
「なら、次は分かりません」
「そうだな」
ルトは楽しそうに笑った。
「だから次も面白いんだろ」
アトカも笑う。
その会話を聞いていた上級生が、ぽつりと言った。
「なんか分かった」
「何がですか?」
アトカが尋ねる。
上級生はまずアトカを見た。
「至光会を止めたって話を聞いた時、正直ちょっと盛られてると思ってた。十歳の一年だし」
次にルトを見る。
「でも対抗戦でこいつに勝った兄貴が、あの水を斬って、読んで、本人まで届いたって聞くとな……」
少し考えてから笑う。
「どっちの話も、前よりすごく聞こえる」
「どういう理屈だよ」
ルトが呆れる。
「いや、だってそうだろ。至光会の術式を止めた弟がこんだけ強くて、その弟の水を突破して勝った兄貴もこんだけ強いんだぞ」
「ぐるぐるしてます」
アトカが言うと、今度はルトまで吹き出した。
「確かにぐるぐるしてんな」
けれど、アトカにはその言葉が少し嬉しかった。
自分が褒められると、兄が勝った相手が強くなる。
兄が褒められると、そんな兄と本気で戦った自分のことまで認めてもらえる。
どちらか一人の名前が大きくなることで、もう一人が隠れるわけではない。
そんな形もあるらしい。
予鈴が鳴った。
「あ」
周囲にいた生徒たちが一斉に時計を見る。
「まずい!」
「お前ら、次どこだ」
「西講義棟!」
「走るなよ。余計遅れるぞ」
ルトの声を背に、生徒たちが散っていく。
最初にアトカを呼び止めた一年の少年だけが、数歩進んでから振り返った。
「アッシュフォード君!」
「はい?」
「今度、魔術見せてよ!」
アトカは少し驚いた。
すぐには返事をしない。
何を、どこで、誰に見せるのかも分からない。
ただ、その言葉自体は嫌ではなかった。
「見せてもいい時なら!」
そう返す。
少年は大きく手を振って去っていった。
ルトが横で言う。
「増やしたな」
「何をですか?」
「面倒を」
「兄さんも増やしていました」
「俺は聞かれたから答えただけだ」
「僕もです」
「そういうとこ似なくていい」
二人は廊下を歩き出した。
分岐でルトは戦技科棟、アトカは魔導科棟へ向かう。
「じゃあな」
「はい。また後で」
数歩進んでから、アトカは振り返った。
「兄さん」
「ん?」
「さっき、僕に勝ったってすぐ言ってくれたの、ちょっと嬉しかったです」
ルトが怪訝な顔をする。
「勝ったんだから言うだろ」
「はい」
「お前、負けたのに何で嬉しいんだよ」
「兄さんが勝ったからです」
「分かんねえな」
そう言いながら、ルトは笑っていた。
アトカも笑い返し、今度こそ教室へ向かった。
昼を過ぎる頃には、朝とは違う話が廊下に混じり始めていた。
至光会を止めた一年。
キルウェスタの弟子。
その一年を対抗戦で破った戦技科の兄。
どれも短い言葉だった。
短いからこそ、本人たちの知らないところで勝手に大きくなる。
アトカは、それを全部止められるとは思わなかった。
止めたいとも、今は思わなかった。
違うことを言われたら違うと言う。
自分だけの功績にされたら、一緒にいた人たちのことを話す。
けれど、自分がしたことまで「していない」とは言わない。
その日の放課後、特等枠のラウンジへ戻ると、机の上に一枚の封筒が置かれていた。
宛名は二つ。
アトカ・アッシュフォード。
ルト・アッシュフォード。
差出人はフレデリックだった。
「兄さんの名前まであります」
アトカが封筒を持ち上げると、ギルベルトが向かいから覗く。
「本人には戦技科の方にも同じ連絡が行ってる。開けていいやつだ」
アトカは義手の指で封を開いた。
中に入っていたのは、短い呼び出しだった。
一般公開日について相談したい。
放課後、時間が取れる時に学園長室へ来てほしい。
参加を決めるための呼び出しではなく、まず内容を説明する、と添えられている。
アトカはその文面を二度読んだ。
「一般公開日……」
「今年は問い合わせが多いそうですわ」
エルマが言う。
「特に、アトカさんに関するものが」
「僕に?」
「ええ。それから――」
エルマはアトカの手にある紙の、もう一つの名前を見る。
「ルトさんにも」
アトカも同じ場所を見る。
二つの名前が、同じ紙の上に並んでいる。
朝なら、それだけで少し身構えていたかもしれない。
自分の名前がどこまで行くのか。
何を求められるのか。
まだ分からないことは多い。
けれど、少なくとも一つだけは分かった。
誰かに知られることと、自分で自分を小さくすることは同じではない。
アトカは紙を持ったまま、少しだけ笑った。
「兄さんにも、何を頼まれるのか聞いてみます」
そしてその日の夕方。
帝都のあちこちから王立エルシオン学園へ届いていた一般公開日の申込書には、例年にはなかった希望がいくつも書き添えられていた。
至光会を止めた水の魔術師を見てみたい。
黒蜘蛛の魔女の弟子が、どんな魔術を使うのか知りたい。
対抗戦でその弟に勝った、兄の剣も見たい。
まだ二人は、その紙を知らない。
ただ、二つの名前はもう、同じ場所へ向かって広がり始めていた。




