伏せる為に書く
ルトが去った後、特等枠のラウンジには、しばらく静けさが残った。
扉の向こうへ消えていく足音は、戦技科へ戻る者らしい迷いのない速さで遠ざかっていった。
アトカは閉じた扉を少しの間見つめ、やがて膝の上に置いた義手へ視線を落とす。
「兄さん、怒っていました」
小さな声だった。
ギルベルトは窓際の椅子へ座り直し、古い銀色の懐中時計の蓋を開いた。
「怒るだろうな」
「僕に、ですか?」
「違う」
ギルベルトは即答した。
「お前を勝手に測ろうとした奴らにだ」
アトカは僅かに瞬きをした。
言葉の意味は分かっていても、誰かが自分のために怒ることまでは、まだ自然に受け取れないらしい。
自分が傷ついた時より、周囲の誰かが傷ついた時の方が、アトカはずっと早く怒りや悲しみを理解する。
エルマはその表情を見て、胸の奥が重くなるのを感じた。
さきほどルトが告げた言葉が、まだ耳に残っている。
お前は、誰かが勝手に測ってよいものではない。試験台でも、実験の条件でもない。
俺の弟だ。
エルマは円卓に広げた紙へ視線を落とした。
ラウンジへ持ち込まれているのは、公開済みの事実と、学園内部向け任務判断記録のための資料だけだ。
個人保護情報や警備調査中の詳細、アトカの特異性に関する限定説明票は、ここには一枚もない。
それでも、文案の上ではアトカが少しずつ分類へ変わっていく。
特等枠生徒。
現場対応者。
水制御担当者。
必要な言葉だった。
記録には、誰が何を行ったのかを区別する分類が要る。
曖昧に書けば、後から読む者が都合のよい意味へ変えてしまう。
だからこそ、事実を正確に示す言葉を選ばなければならない。
けれど、分類だけを並べれば、その奥にいる人間が消える。
ルトが見たアトカは、弟だった。
カインが見ているアトカは、森の中で自分の元まで来た後輩だった。
リリシアにとっては、怖がらせずに近づいてくれたアトカ君だった。
バルトロにとっては、まだ分からないところが多くても、放っておけない新入りだった。
ギルベルトにとっては、危うさを理解したうえで役割を預けられる仲間だった。
そして、エルマにとっては。
エルマは羽根ペンを握ったまま、僅かに唇を噛んだ。
最初は、証明したかった。
アトカの水が何を捉え、何を変え、既存の魔導理論とどこで異なるのか。
観測し、比較し、誰よりも早く説明できる言葉を与えたかった。
その気持ちは、今も消えていない。
だからこそ、知らなければならなかった。
知られれば危険になる事実がある。
知られなければ、アトカたちが何を見て、何を守るために判断したのかまで消えてしまう。
書く必要がある。
だが、何もかも同じ紙へ並べるためではない。
必要な情報へ正しい行き先を与え、渡してはならない相手から守るために。
「エルマ先輩?」
アトカがそっと声をかけた。
エルマは顔を上げる。
「何ですの」
「疲れていませんか?」
「貴方に心配されるほど柔ではありませんわ」
少しきつく答えすぎたかもしれないと思ったが、アトカは怒らなかった。
むしろ安心したように、小さく微笑んだ。
「それならよかったです」
その反応が、余計に胸へ刺さった。
エルマは深く息を吸い、椅子から立ち上がった。
「アトカ君」
「はい」
「少し、謝らせてくださいまし」
ラウンジの空気が変わった。
ギルベルトの懐中時計が刻む音が、やけにはっきり聞こえる。
カインも顔を上げ、医務室から戻ったばかりのリリシアは、入口近くで足を止めた。
バルトロはソファで魔石を口へ運びかけた手を止める。
アトカはきょとんとした。
「謝る、ですか?」
「ええ」
エルマは視線を逸らさなかった。
「私は、貴方の魔術を知りたいと思っています。今でもそうです。貴方の水が何に触れ、何をどのように変え、どんな条件で異なる反応を示すのか。既存の理論では説明できない部分も含めて、できることなら全て調べたい」
隠して、もっと綺麗な言葉へ変えることもできた。
けれど、それでは駄目だと思った。
「私は観測することが好きです。分からないものを分からないままにしておくのが嫌いです。貴方を見ていると、知りたいことが増えて仕方ありませんわ」
アトカは黙って聞いていた。
「でも、その欲求だけを正しいものだと思い、本人へ聞かず、断る余地も与えず、条件を作って反応を見ようとすれば、今回の装置を作った者と同じ方向へ進み得ます」
「エルマ先輩は、そんなことしません」
アトカは迷いなく言った。
エルマは僅かに表情を歪めた。
「だから危ういのですわ。貴方は、すぐに人を信じますもの」
「でも、エルマ先輩は止めてくれました」
「今は、です」
エルマは静かに首を横へ振った。
「これからも止まれるように、貴方の力を書きたい自分を、記録と手続きの中へ置きます。私一人では、何を残し、何を渡すのかを決められない形にしますわ」
アトカは、まだ全てを理解しきれないという顔をしていた。
それでも、エルマが真剣に話していることは伝わっているらしい。
「それが、封印記録ですか?」
「封印記録も、その一つです。ただし、封じれば終わりではありません。貴方に関する部分は貴方自身が確認し、成人の記録担当者と学園長が審査します。私が正しいと思った言葉だけで確定させるつもりはありませんわ」
アトカは少し考え、ゆっくり頷いた。
「僕も、違うと思ったら言っていいんですね」
「当然です。私が使った言葉へ、貴方の感覚を無理に合わせる必要はありません」
エルマは円卓の資料へ視線を落とした。
「今回の装置を作った者が、貴方の反応を観測しようとした可能性は残っています。ただし、まだ設置者の目的として確定したわけではありません。その違いも、記録へ残します」
「はい」
「そして、貴方の能力を再現するための手順は残しません。誰へ何を開示しなかったのかも、公開記録へ秘密の場所を知らせる形では書きません。権限のある者だけが確認できる内部記録へ、非記載の理由と、その判断に責任を負った者を残します」
カインが低く尋ねた。
「それで止まるのか」
「止まらない者もいるでしょうね」
エルマは即答した。
「ですが、柵があれば、越えた者が越えたと分かりますわ」
その時、ラウンジの扉が二度、静かに叩かれた。
「入ってもよいかな」
フレデリックの声だった。
管理当番の教師が扉を開き、長い銀髪と白いローブをまとった学園長が室内へ入ってくる。
琥珀色の瞳は、円卓に置かれた一般資料と、そこにいる一人一人を静かに見渡した。
「続けていいよ。廊下で最後の部分だけ聞こえた。エルマ君の考えは妥当だ」
エルマは背筋を伸ばした。
「学園長」
「ただし、個人保護記録の原案はここでは作らない。アトカ君に関する部分は、記録閲覧室で、成人記録担当者の立ち会いのもと作成しよう」
「承知しましたわ」
フレデリックはアトカを見る。
「アトカ君。君に関する記述は、原案の段階から全て確認してもらう。ただし、他の生徒や教師の個別証言、現在進行中の警備調査に関する情報は別紙へ分ける。そこには、君へそのまま見せられない部分が含まれる場合もある」
「僕のことが書かれている部分は、読めるんですね」
「もちろんだ。分からない言葉があれば説明する。違うと思えば修正を求められるし、判断を急ぎたくなければ、その場で止めてもいい」
アトカは安心したように頷いた。
「分かりました」
フレデリックはギルベルトへ顔を向ける。
「ギルベルト君も、自分の役割と発言に関する部分の確認を頼みたい。ただし、アトカ君の個人保護情報へは必要以上に触れない形で区分する」
「分かった」
「では、移動しよう。リリシア君、カイン君、バルトロ君には、ここまでの共有で十分だ。記録の内容ではなく、どのような手続きで守るのかについては、後で説明する」
三人はそれぞれ頷いた。
記録閲覧室へ移ったのは、フレデリック、成人の記録担当者、エルマ、アトカ、ギルベルトの五人だった。
室内の机には、用途の異なる紙が分けて置かれていた。
薄青い紙は学園内部向け任務判断記録の原案。
銀線入りの紙は、個人保護と閲覧制限に関する当事者側原案に用いる。
銀線入りの用紙は、正式な封印記録の正本ではない。
エルマが原案を作り、成人記録担当者が表現と区分を確認する。
アトカは自分に関する記述を読み、ギルベルトやその他の関係者も、それぞれ自分に関わる部分だけを確認する。
その後、成人教師と警備責任者の審査を経て、フレデリックが最終的な閲覧区分を決める。
今夜作るのは、そのための第一稿だった。
成人記録担当者が版番号と作成時刻を記入する。
「当事者側原案、第一稿。作成者エルマ・ガトランド。成人立会人一名。学園長同席。本人確認者アトカ・アッシュフォード」
一つずつ読み上げ、記録へ残した。
エルマは羽根ペンを取った。
最初に、表題を書く。
旧第三風圧実験場非正規装置作動事案に関する個人保護・閲覧制限記録――当事者側原案。
続いて、確認できている事実と、未確定の見解を分けて記した。
旧第三風圧実験場に設置された非正規装置には、水属性魔力の接触位置を記録する観測板が含まれていた。
当該装置の構造には、一般記録保管室から不正転送された周辺資料と対応する特徴が確認されている。
以上の事実から、特等枠生徒アトカ・アッシュフォードの水制御反応を誘発し、観測する意図が装置設置目的の一部に含まれていた可能性がある。
当該見解は暫定仮説であり、設置者の目的として確定したものではない。
エルマはそこで一度、ペンを止めた。
アトカが、机を挟んだ向かい側から紙面を読んでいる。
勝手に覗き込むのではなく、自分へ示された範囲を、一行ずつ丁寧に追っていた。
「アトカ君。この部分は、今分かっていることと違いますの?」
「いいえ。僕を試すためだったと決まった、とは書いていません」
「そうですわ。可能性と、確定していないことを分けています」
アトカはもう一度文章を読み、頷いた。
「大丈夫だと思います」
「違うと感じたら、後からでも止めなさい」
「はい」
エルマは次の項目へ進んだ。
本記録は、当該生徒の個別能力を評価し、既存理論へ分類し、または再現条件を確立することを目的としない。
本記録の目的は、危険な観測行為から当該生徒の安全、尊厳および意思を保護するため、関連記録の閲覧、転記、利用および横断照合へ制限を設けた理由と、その判断に責任を負う者を保存することにある。
本件に関連する照会、面談、観測または再現試行を行う場合、目的、手順、質問項目および予想される危険を事前に当該生徒へ説明し、項目ごとの同意を得なければならない。
当該生徒は、参加、回答、記録利用および継続を拒否し、または一度与えた同意を撤回できる。
未成年者を対象とする観測または再現試行には、本人の同意とは別に、学園長または指定された成人責任者の承認を要する。
エルマはアトカを見る。
「ここは特に、よく確認してくださいまし」
アトカは時間をかけて読んだ。
「一度いいと言った後でも、止められるんですか?」
「止められます」
フレデリックが答えた。
「始める前には分からなかった怖さや苦しさが、途中で分かることもあるからね」
「では、僕が途中で嫌だと言ったら、そこで終わりですか?」
「安全に停止するための最低限の処理を除き、続けさせることはできない。その判断も記録に残す」
アトカは静かに頷いた。
「この言葉は、残してほしいです」
エルマはその返答と時刻を、成人記録担当者に記録させた。
続いて、非記載情報の扱いを書く。
当該生徒の個別能力、身体、義手その他装具に関する情報は、個人保護正本へ分離し、本記録へ転記しない。
公開記録へ記載しなかった具体的情報についても、本記録内には列挙しない。
非記載理由は、個人保護、再現危険、警備調査中の三分類によって管理し、一つの項目へ複数の理由分類を付与できるものとする。
非記載理由票には、公開原案の該当箇所、理由分類、決定者、審査者および決定日時のみを記す。
具体的な非記載内容または詳細理由を確認する場合、個人保護正本その他の制限記録との横断照合について、別途学園長権限を要する。
ギルベルトが紙面を見つめた。
「理由票そのものから、何を隠したかは分からないようにするわけだな」
「ええ。秘密の目録を作るつもりはありませんもの」
「妥当だ」
エルマは薄青い任務判断記録の原案も開いた。
そこには、
特等枠生徒アトカ・アッシュフォードは、他の特等枠生徒二名、成人設備技師および結界班と協同し、水制御による局所防護、飛散物の抑制ならびに既存排風経路の一時的な維持を担当した。
と記した。
アトカが文章を読み、僅かに首を傾げる。
「飛散物は抑えました。でも、風全部を抑えたわけではありません」
「ここでは石片などの飛散物だけを指していますわ。誤解されるなら、明記しましょう」
エルマは修正した。
水制御による局所防護、石片その他の飛散物の抑制ならびに既存排風経路の一時的な維持。
「これならどうですの?」
「はい。これなら分かります」
ギルベルトに関する部分には、
特等枠生徒ギルベルトは、設備解除に必要な時間を確保するため、人員へ向かう風圧の発現を限定的に遅延させた。外部へ排出される風圧には遅延を行わなかった。
と記した。
ギルベルトは一度読み、短く頷く。
「事実どおりだ」
エルマは羽根ペンを置いた。
迷いが消えたわけではない。
どこまで書くべきか。どこから先は書いてはならないのか。
その答えを、自分一人で決めてよいとも思っていない。
だが、何を迷いとして残し、誰と確かめなければならないのかは、もう分かっていた。
「学園長」
「何かな」
「この原案へ、目的を示す前文を加えたいですわ。ただし、正式な条文ではなく、作成意図としてです」
フレデリックは頷いた。
「書いてごらん」
エルマは銀線入りの紙の冒頭へ戻り、短い一文を書き加えた。
本原案は、本件に関する確認済み事実と未確定事項を消失させず、当該生徒の安全、尊厳および意思を守る範囲で保存するため作成する。
書き終えると、アトカへ紙を向けた。
「貴方に関する部分は、ここまでです。違うと感じる言葉があれば、遠慮なく止めなさい」
アトカは最初からもう一度読み直した。
時間をかけ、途中で二度、言葉の意味を確認した。
やがて顔を上げる。
「僕を調べるための記録ではなく、危ない調べ方から守るための記録なんですね」
「ええ」
「僕が途中で嫌だと言えることも書いてあります」
「それも、この記録の目的ですわ」
アトカは紙面を見つめた後、エルマへ顔を向けた。
「エルマ先輩が一人で決めず、僕も読んで直せるようにしてくれるなら、安心します」
エルマは一瞬だけ目を見開いた。
それから、ゆっくり頷く。
「それでよいのですわ」
成人記録担当者が、本人確認の欄へ時刻と確認範囲を記入した。
フレデリックは銀線入りの紙へ手をかざす。
「今夜は、正式な封印記録にはしない。この第一稿を、誰にも改変できない状態で仮封する。成人記録担当者、警備責任者、関係者の確認が終わった後、必要な部分だけを正式な個人保護正本へ移そう」
白金色の細い結界文字が、紙の端へ走った。
銀線が淡く光り、版番号、作成時刻、作成者、立会人、本人確認者の名が刻まれる。
紙面は燃えも消えもせず、ただ現在の内容を保ったまま、静かに閉じられた。
エルマはその光景を、まばたきもせずに見つめていた。
書いた。
だが、晒してはいない。
非記載とした。
だが、消してはいない。
これまで草案へ引いてきた線を、初めて正式な個人保護手続きの原案へ移した瞬間だった。
アトカが小さく言う。
「ありがとうございます、エルマ先輩」
エルマは振り返り、いつものように少しきつい顔を作ろうとした。
けれど、うまくいかなかった。
「……お礼を言うのは早いですわ。これは、まだ守りの始まりにすぎませんもの」
ギルベルトが懐中時計の蓋を閉じた。
「それでも、始めた意味はある」
フレデリックは仮封された原案を成人記録担当者へ預けた。
「魔導局救護術式改善部の系統印については、別途確認を進める。灰庭救護院の照会文書と同系統の印が用いられている以上、関連の有無は調べる必要がある。ただし、同じ人物や同じ目的によるものだとは、まだ断定しない」
「承知しましたわ」
エルマは答えた。
灰庭救護院で起きたことが、完全に終わったとは限らない。
だが、分からない部分を一つの美しい物語へ結びつけることもしない。
追うべきなのは、印、照会経路、作成者、承認者、閲覧履歴として残された事実だった。
記録閲覧室を出てラウンジへ戻ると、バルトロが待ちくたびれたようにソファへ沈んでいた。
「終わったのか」
「原案を仮封しただけですわ。これから成人記録担当者と警備責任者の審査があります」
「書くのも面倒なんだな」
「今さらですの?」
「俺には無理だと思っただけだ。三行で終わる」
「三行も書ければ上出来ですわね」
「三行あれば十分だろ」
リリシアが小さく笑い、カインは窓際で視線を伏せた。その表情は、ほんの少しだけ柔らかかった。
アトカも、ほっとしたように微笑んでいる。
エルマはその笑顔を見て、ようやく肩の力を抜いた。
守るために書く。
言葉だけにすれば、美しく聞こえる。
実際には、これからも迷い続けるのだろう。
何を書き、何を分け、誰へ見せ、誰には渡さないのか。
そのたびに、自分の知りたいという欲求とも向き合わなければならない。
それでも、もう逃げるつもりはなかった。
エルマは記録する者だった。
そして今は、特等枠の仲間たちとともに、その記録を預かり、確かめ、守る一人だった。




