↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
封じた記録の行方
PR
118/135

兄が聞いた噂

戦技科の朝は、いつも騒がしい。


剣の打ち合う音。

木剣が防具を叩く乾いた響き。

教師の叱声。

身体強化の練習で地面を蹴る音。


魔導科の廊下に漂う紙とインクの匂いとは違い、戦技科の訓練場には汗と土と鉄の匂いがあった。


ルト・アッシュフォードは、その中でいつものように木剣を振っていた。


相手は同じ三年の戦技科生徒だった。

力任せに踏み込み、上段から叩き込んでくる相手を、ルトは半歩だけ外して受け流す。

派手な技ではない。ガイルに叩き込まれた、泥臭く正確な基礎だった。


相手の木剣が流れた瞬間、ルトの木剣が脇腹の防具を軽く叩く。


「そこまで!」


教師の声が飛んだ。


相手の生徒が悔しそうに息を吐く。


「またかよ……」


「踏み込みが少し大きかった」


ルトは木剣を下ろし、そう言った。


責める声ではない。相手もそれを分かっているのか、舌打ちしながらも頷いた。


「分かってるよ。分かってるけど、お前の半歩、嫌なんだよ。届いたと思ったらいない」


「父さんに何度も転ばされたからな」


「大岩砕きの息子ってやつか」


冗談めかした声に、ルトは少しだけ肩をすくめた。


最近、その呼び方をされることが増えた。

フェル・ザインの冒険者ギルドで何かあったらしいとは、アトカから聞いている。

父ガイルの昔の名が、思っていたよりも遠くまで残っていたことに、ルトは少し誇らしさを覚えていた。


その時だった。


訓練場の端で休憩していた上級生たちの声が、耳に入った。


「聞いたか? 魔導科の外縁でまた事故だってよ」


「旧第三風圧実験場だろ。閉鎖区域で風が暴走したとか」


「いや、事故じゃねぇらしいぞ。特等枠が関わってたって話だ」


ルトの手が、木剣を握ったまま止まった。


特等枠。


その言葉だけで、胸の奥が静かに冷える。


「また白髪の一年だろ?」


「そうそう。アッシュフォードの弟」


「この前も蒼風高原の任務に出てたって聞いたぞ。魔導科の一年が何やってんだよ」


「風の実験場も、あいつが水でどうにかしたってさ。逆に言えば、あいつがいたから起きたんじゃねぇの?」


笑い混じりの声だった。


悪意だけではない。半分は噂話。半分は面白がっているだけ。


だが、その軽さがルトの胸に引っかかった。


木剣を持っていた相手が、ルトの顔を見て少しだけ身を引く。


「おい、ルト?」


ルトは答えず、訓練場の端へ歩いた。


声を荒げるつもりはなかった。

だが、上級生たちはルトが近づいただけで話を止めた。


ルトは静かに言う。


「その話、誰から聞いた」


上級生の一人が気まずそうに視線を逸らす。


「いや、別に。廊下で聞いただけだよ」


「誰から」


「魔導科の奴らが話してたんだって。旧実験場が壊れたとか、特等枠が来たとか。詳しいことは知らねぇよ」


「じゃあ、知らないことを面白がって話すな」


声は大きくなかった。


だが、訓練場の空気が少しだけ止まった。


上級生は不満そうに眉を寄せたが、ルトの赤い瞳を見て言葉を飲み込んだ。


ルトはそれ以上何も言わず、教師へ向き直る。


「先生。少し抜けてもいいですか」


教師はルトの顔を見た。


事情をすべて察したわけではないだろう。だが、短く頷いた。


「午後の実技までには戻れ」


「はい」


ルトは木剣を片付け、訓練場を出た。


廊下へ出ると、戦技科の騒がしさが少し遠のく。


歩きながら、ルトは胸の内で噂を反芻した。


白髪の一年。

特等枠。

旧第三風圧実験場。

水でどうにかした。

あいつがいたから起きたんじゃないか。


馬鹿な話だと思う。


アトカが誰かを危険に晒すはずがない。


けれど、ルトは知っている。


アトカは、危険な場所へ自分から行く。


誰かが泣いていれば近づく。

誰かが取り残されていれば手を伸ばす。

自分が試されれば済むなら、きっと前へ出る。


そこが、ルトには誇らしくもあり、怖くもあった。


三年前、弟は森の家で約束した。


十歳になったら学園で会おう。

凄い魔術師になった姿を見せてくれ。


アトカはその約束を守った。


戦技科と魔導科の対抗戦で、ルトは弟の強さを見た。

水が舞い、霧が広がり、あの小さな身体が自分の前に立った。


嬉しかった。


本当に、自慢だった。


だが、学園に来てからのアトカは、ルトの知らない場所で何度も危険に立っている。


カインを森から連れ戻した。

蒼風高原へ行った。

今度は、閉鎖された実験場で風を止めたらしい。


自分の弟が強くなっていく。


それは嬉しい。


けれど、その強さを誰かが勝手に測ろうとしているなら、話は別だった。


ルトは魔導科棟へ向かった。


特等枠ラウンジの場所は、以前アトカに案内された時に覚えている。通常生徒が気軽に入る場所ではない。

だが、受付の補助教師はルトの顔を見ると、すぐに学園長への確認を取った。


しばらくして、入室の許可が出た。


扉を開けると、ラウンジには静かな空気が流れていた。


円卓には資料が広がっている。エルマが羽根ペンを持ち、何かを慎重に書いていた。

ギルベルトは窓際で懐中時計を開いている。

カインは少し離れた椅子に座り、黒い拘束具の巻かれた腕を膝の上に置いていた。


そして、アトカは円卓の端に座っていた。


白い髪。

青い瞳。

漆黒のローブ。


ルトの姿を見ると、アトカの顔がぱっと明るくなった。


「兄さん」


その声を聞いた瞬間、ルトの胸の奥に溜まっていた硬いものが、少しだけほどけた。


アトカは元気そうだった。


怪我もなさそうだ。


それでも、安心しきることはできなかった。


「アトカ」


ルトは近づき、弟の前で足を止める。


「昨日の旧実験場のことを聞いた」


ラウンジの空気が、少しだけ変わった。


エルマのペンが止まる。

ギルベルトが顔を上げる。

カインの暗い赤紫の瞳が、静かにルトを見た。


アトカは少し驚いた顔をした。


「もう噂になっているんですか?」


「戦技科まで届いてる」


「そうですか……」


アトカは困ったように視線を落とした。


ルトはその様子を見て、怒りの向け先を間違えてはいけないと思った。


アトカを怒りたいわけではない。


だが、何も言わずにはいられなかった。


「無事なのか」


「はい。僕は大丈夫です。怪我をした生徒さんたちも、軽い怪我だけだったそうです」


「それはよかった」


ルトは息を吐いた。


本当に、そこはよかった。


けれど、次の言葉は自然に出た。


「でも、何があったんだ」


アトカはすぐに説明しようとして、途中で止まった。


それから、少しだけ考えるようにギルベルトを見た。


ギルベルトが静かに頷く。


「話せる範囲でいい」


アトカはルトへ向き直った。


「閉鎖されていた実験場で、誰かが偽物の風路を作っていました。風を逃がす道が足りなくて、風が裂けて、近くにいた生徒さんたちが危なかったんです」


「偽物の風路?」


「蒼風高原の時にあった旧風路を、形だけ真似たものみたいです。でも、本物とは違って、風の行き先を考えていませんでした」


ルトには詳しい魔導理論は分からない。


だが、アトカの言いたいことは分かった。


「それを、お前が止めたのか」


「僕だけではありません。ギルベルト先輩が風を遅らせてくれて、エルマ先輩が構造を読んでくれました。僕は水で、風が外へ出られる道を作っただけです」


だけ。


アトカはそう言った。


ルトは眉を寄せた。


「それは、だけで済むことなのか」


アトカは少し困った顔をした。


「でも、みんながいたからできました」


「それは分かる」


ルトは椅子を引かず、その場に立ったまま言った。


「お前が一人でやったんじゃないことも、仲間がいることも分かる。けど、アトカ」


赤い瞳が、弟をまっすぐ見る。


「誰かがお前を試すために、そんなものを作ったんじゃないのか」


アトカは黙った。


その沈黙が、答えだった。


ルトの中で、静かに怒りが燃えた。


訓練場で聞いた軽い噂とは違う。


本当に、誰かがアトカを試した。


そのために、他の生徒も危険に晒した。


「ふざけるなよ」


低い声が漏れた。


アトカがはっと顔を上げる。


ルトは拳を握った。


「お前が強くなったのは嬉しい。俺との約束を守ってくれたことも、学園で頑張ってることも、本当に嬉しい。お前が誰かを助けたなら、それも誇らしい」


そこで一度、言葉を切る。


怒りで声が荒れないように、ルトは息を吸った。


「でも、その強さを勝手に測ろうとする奴がいるなら、俺は腹が立つ」


アトカは何も言えなかった。


ルトは続けた。


「お前は、誰かが勝手に測っていいものじゃない。試験台でも、実験の条件でもない。俺の弟だ」


その言葉に、アトカの青い瞳が揺れた。


エルマが、そっと視線を伏せる。


ギルベルトは何も言わない。


カインは、拘束具の上から自分の手首を軽く握っていた。


アトカは小さく言う。


「僕も、少し嫌でした」


ルトは弟を見る。


アトカは壊れた実験場を思い出すように、膝の上の義手へ視線を落とした。


「風が苦しそうでした。生徒さんたちも怖がっていました。僕を試したかったのだとしても、そのために他の人を危なくするのは、嫌です」


「うん」


「でも、助けられた人がいたので、それはよかったです」


それがアトカらしい答えだった。


怒りより先に、助けられたことを数える。


ルトはその優しさが好きだった。


同時に、怖かった。


だから、彼は弟の前にしゃがんだ。


目線を合わせる。


「アトカ」


「はい」


「助けるなとは言わない。お前は、きっとそういう時に行く。俺が止めても、行くんだと思う」


アトカは否定できず、少しだけ目を伏せた。


ルトは苦笑する。


「だから、行くなら帰ってこい」


アトカが顔を上げる。


「一人で全部抱えて、どこか遠くへ行くな。お前が誰かを助けるのは嬉しい。でも、お前が帰ってこなかったら、俺は嫌だ」


その言葉は、兄としてのわがままだった。


戦技科の筆頭候補としてではない。

大岩砕きの息子としてでもない。

ただ、アトカの兄としての言葉だった。


アトカの表情が、ゆっくり柔らかくなる。


「はい。帰ってきます」


「約束だぞ」


「はい、兄さん」


ルトはようやく息を吐き、アトカの頭へ手を伸ばしかけた。


だが、ラウンジの空気を思い出し、少しだけ手を止める。


アトカはそれに気づいて、ふっと笑った。


「兄さんは、撫でても大丈夫です」


ルトは苦笑して、弟の白い髪をくしゃりと撫でた。


「知ってる」


その様子を見ていたエルマが、小さく咳払いをした。


「……一応申し上げておきますが、今回の件については、私が記録で線を引きます。アトカ君を勝手に実験条件として扱わせるつもりはありません」


ルトは彼女を見る。


以前、対抗戦の時に見た魔導科の上級生だ。


理屈っぽく、気位が高そうで、しかし今は真剣だった。


ルトは頭を下げた。


「弟を、お願いします」


エルマは少しだけ目を見開いた。


それから、慌てたように眼鏡を押し上げる。


「当然ですわ。特等枠の後輩ですもの」


カインが低く呟いた。


「俺も見てる」


ルトはカインへ視線を向けた。


以前、ラウンジで礼を言った少年。


壊す力を持ち、アトカを守った少年。


「ありがとう」


カインは気まずそうに目を逸らした。


「礼を言われることじゃない」


「それでも、言う」


カインは黙った。


その沈黙は、拒絶ではなかった。


ギルベルトが懐中時計を閉じる。


「アトカは一人じゃない。少なくとも、ここではな」


ルトはその言葉を聞き、ようやく胸の奥の怒りが少しだけ形を変えるのを感じた。


まだ許せない。


弟を試そうとする誰かを、許せるはずがない。


けれど、アトカの周りには人がいる。


それは、救いだった。


ルトは立ち上がる。


「午後の実技があるから戻る」


「兄さん、来てくれてありがとうございます」


「噂で聞くより、お前の顔を見た方が早いからな」


ルトはそう言って、扉へ向かった。


出る直前、もう一度だけ振り返る。


「アトカ」


「はい」


「次に何かあったら、噂になる前に教えろ」


アトカは少しだけ困ったように笑った。


「できるだけ、そうします」


「できるだけじゃなくて、なるべく早く」


「はい。なるべく早く」


ルトはそれで頷き、ラウンジを出た。


廊下へ戻ると、戦技科の訓練場から遠いはずの木剣の音が、少しだけ聞こえた気がした。


ルトは拳を開き、もう一度握る。


弟は強くなった。


自分の知らない場所で、誰かを助け、誰かに守られ、また危険へ向かっている。


それを誇りに思う。


けれど、誰かがその強さを勝手に測ろうとするなら、兄として黙っているつもりはなかった。


ルトは歩き出した。


午後の訓練に戻るために。


そして、いつか弟が本当に助けを求めた時、迷わず駆けつけられる兄であるために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。