風車の上で眠る魔女
塔の階段を下りきった時には、外の風はもう同じ方向へ吹いていた。
救護用の担架に横たわったアトカの上を、白い雲の影がゆっくり通り過ぎる。
丘の斜面では止まっていた風車が一基ずつ回り、水路には押し戻されていた水が細い音を立てて戻っていた。
中継塔へ吸い込まれていた風は消え、草はどこまでも空の側へなびいている。
けれど、管理部の大人たちは歓声を上げて作業を終えたりはしなかった。
修繕班が塔へ入り、成人技師が残った四本の導線と魔導弁を確認する。
落ちた保守足場には立入禁止の縄が張られ、別の班が風車ごとの回転と水路の流量を見て回っていた。
管理部責任者は担架のそばまで来ると、アトカとカインへ頭を下げた。
「緊急状態は終わりました。ここから先は、私たちが引き継ぎます」
アトカは起き上がろうとせず、担架の上から頷いた。
「お願いします。古い風路には、もう僕の水は残っていません。風だけで空へ抜けています」
「確認しました。塔へ新しい風が入っても、北側から自然に出ています」
その返事を聞いて、アトカの肩から少し力が抜けた。
自分の水がなくても、道は道のまま残っている。もう支え続けなくていい。
そう分かっても、義手の人差し指にはまだ薄い痺れがあり、接続部には熱が残っていた。
成人治癒師が指先の感覚と肩の状態を確かめ、装具担当の補助員が接続部へ無理に触れず、義手の外側へ計測具を当てる。アトカは聞かれたことを順に答えた。
「人差し指の遅れは、塔の中より弱くなっています。肩の痛みはありません。接続部の熱は、まだ少しあります。気分は……安心しています。でも、身体は疲れています」
「よく報告できています。今日はもう魔術を使わないでください。移動も、こちらが許可した範囲だけにしましょう」
「はい」
隣では、カインが拘束具を見せていた。黒い魔力は完全に止まり、赤黒い色も漏れもない。
だが、腕と胸元の金具には使った回数分の熱が残っている。
「高密度出力は三回。塔の入口と内部では短い破断だけだ」
「分かりました。拘束具が冷えるまでは外さず、追加の出力も禁止します」
「ああ」
カインは短く答えた後、担架の上のアトカを見る。
「お前も聞いただろ」
「聞きました。使いません」
「ならいい」
いつもの硬い言い方だったが、塔の中で支えてくれた腕の感触を思い出し、アトカは少しだけ笑った。
ほどなくして、ニルスが管理棟の方から走ってきた。
途中で成人管理人に速度を落とすよう注意され、慌てて歩き直す。
胸には、昼休みに作った小さな紙の風車を抱えていた。
「アトカさん、カインさん」
息を整えてから呼んだ声には、もう塔の足場で泣いていた時の震えはない。
それでも二人が無事に下りてきたことを確かめるように、アトカの担架とカインの拘束具を交互に見た。
「風車、全部動いています」
管理部責任者がすぐに言葉を足した。
「全部直ったわけではない。動かしてよいものだけだ。傷んだ羽根と弁は、これから止めて交換する」
ニルスは一瞬口を閉じ、それから言い直した。
「動かしていい風車が、動いています」
「そうだ」
褒められると、ニルスは紙の風車を少し高く掲げた。
歪んでいた羽根は管理棟で直したらしく、高原を渡る弱い風にも軽く回っている。
「大風車も回りました。あそこからなら、北の丘まで全部見えます」
ニルスが指したのは、高原で最も大きな風車だった。
ほかの風車より一段高い丘に建ち、白い羽根が夕方へ傾き始めた光を受けている。
頂上近くには、以前にも見た小さな平場があった。
管理部責任者は成人治癒師へ視線を向けた。
「出発まで少し時間があります。丘の下まで資材用の荷車を使えば、風に当てても構いませんか」
成人治癒師はアトカの顔色と指先をもう一度見た。
「魔術を使わないこと。丘は歩いて上らず、荷車からも一人で降りないこと。疲労や熱が強まったら、すぐ戻ります」
「分かりました」
アトカは答え、次にカインを見る。
「カイン先輩も行きますか」
カインは大風車の上で回る羽根を見上げた。紙の風車を受け取ることさえためらっていた昼休みから、まだ半日も経っていない。
「行く。お前だけで行かせる約束でもない」
「はい。一緒ですね」
「それ、何度言うんだ」
「嬉しいので、もう少し言います」
カインは返事をしなかった。だが、荷車が用意されるまでアトカのそばを離れなかった。
資材用の低い荷車には、空になった木箱の代わりに毛布が敷かれた。
アトカは成人二人の補助で担架から移り、背を支えられたまま座る。
カインは横を歩き、ニルスと管理部責任者が先へ立った。
中継塔を離れると、高原の広さが改めて戻ってきた。
風車はどれも同じ速さではない。
丘の高さや羽根の大きさによって、ゆっくり回るものもあれば、軽い音を立てて速く回るものもある。
それでも逆向きに抗う羽根はなく、互いの風を奪い合うような唸りもなかった。
水路の水面へ、白い羽根の影が順番に落ちる。
影は回転に合わせて伸びたり縮んだりしながら流れ、本物の羽根より先に次の風車へ届いていく。
ニルスは道の途中で何度も振り返った。
「最初に回ったのは、あの丘の風車です。その次が水路のそばで、最後が大風車でした」
「塔の中でも音が聞こえました」
アトカが答えると、ニルスは嬉しそうに頷いた。
「いつもの順番なんです。朝も、風が戻った時も、大風車は最後です。大きいから、動くまで少し待つんです」
待つことを知っている風車なのだと、アトカは思った。
力を加えれば早く回せるのかもしれない。
けれど、高原の風は一基ずつ違う羽根へ届き、それぞれが動ける時を待っていた。
古い風路も同じだった。風を急かさず、押し込まず、通り抜ける空間だけを空けていた。
荷車が丘の下へ着くと、管理部責任者が平らな場所へ止めた。
アトカは降りず、毛布の上から大風車を見上げる。
カインは荷車の脇へ立ち、ニルスは紙の風車を胸の高さで回した。
近くで見る大風車の羽根は、白い壁が空を横切っているように大きかった。
一枚が頭上を通るたび、深く柔らかな風音が丘へ落ちてくる。
頂上近くの平場は、やはり設備を置くには不自然だった。
柵らしいものはなく、羽根の軸から少し離れた場所へ、石を平らに並べただけの狭い空間が残されている。
人が一人横になれば、それだけで埋まりそうだった。
管理部責任者はその場所を見上げたまま、少し迷うように口を開いた。
「先ほど開いた古い風路について、話しておきたいことがあります。ただし、設備の確定記録ではありません。この高原に残っている古い伝承です」
アトカは頂上から責任者へ視線を戻した。
「伝承、ですか」
「ええ。私も、今朝までは大風車の平場にまつわる昔話としてしか知りませんでした。古い風路まで本当に残っているとは思っていなかった」
責任者は、言葉を事実と推測に分けるように続けた。
「高原で最も古い管理記録の写しには、風車群を最初に調律した頃、一人の魔術師がここへ来たとあります。原本は残っておらず、後の書き写しも混じっています。ですから、どこまでが当時の記録で、どこからが後世の話なのかは分かりません」
風が大風車を回す。白い羽根が一枚、四人の上を通り過ぎた。
「その魔術師の名は、セレナ・エイルウィンド。五大同調の一人で、風渡りの魔女と呼ばれていたそうです」
アトカは、その名前を心の中でもう一度繰り返した。
セレナ・エイルウィンド。
キルウェスタと同じ、五大同調の一人。
けれど、学園で記録を読んだことも、先生から話を聞いたこともない名前だった。
「その人が、古い風路を作ったのですか」
「そう伝えられています。ただ、断定はできません」
管理部責任者は大風車の向こう、北側の空を見た。
「当時の風車は、風を設備へ集めることばかり考えていたらしい。セレナは、風を働かせるなら、余った風が空へ戻る道も残すべきだと言った。そこで中継塔の古い石組みを整え、風が行き場を失った時だけ開く道を作った……というのが、この高原の話です」
アトカは塔の中で返ってきた静かな拍を思い出した。
押し込めない。留めない。空へ続く側を塞がない。
だが、それが本当にセレナという人物の魔力だったのか、自分には分からない。
分からないものを、名前が示されたからといって一つの答えへ決めることはできなかった。
「僕たちが使った道と、同じものかもしれないんですね」
「そうです。違うかもしれません。古い風路を別の技師たちが作り、後からセレナの名が結びついた可能性もあります」
ニルスが紙の風車を握り直した。
「でも、セレナです。僕の祖父も、魔女が風を逃がしたって言っていました」
「ニルスさんは、ずっと信じているんですか」
「はい。だって、あの平場があります」
ニルスは迷いなく大風車の頂上を指した。
「セレナは仕事の見返りに、お金も宝石もいらないと言ったんです。その代わり、高原で一番大きな風車の上を、一日だけ貸してくれって」
カインが頂上の平場を見る。
「何に使う」
ニルスは待っていたように答えた。
「昼寝です」
風車の羽根が、低い音を立てて回った。
カインはしばらく何も言わなかった。
頂上の狭い石床、そのすぐそばを通る巨大な羽根、絶えず吹く高原の風を順に見る。
「そんな所で眠れるのか」
「風渡りの魔女ですから」
「答えになってない」
ニルスは少し困った後、それでも譲らなかった。
「きっと眠れます」
管理部責任者が笑う。
「古い記録には、頂上を一日貸したとだけあります。昼寝をしたという部分は、後の書き込みかもしれません。本当に五大同調があそこで眠ったのか、誰かが面白がって付け足したのか、今では確かめられません」
「では、嘘かもしれないんですか」
アトカが尋ねると、責任者はすぐに否定も肯定もしなかった。
「事実とは言えません。ですが、この高原では昔から、あの場所を『魔女の寝床』と呼んでいます。風車を修理する者も、子供へ話す者も、真偽が分からないまま名前を残してきました」
「分からないままでも、残していいんですね」
「分からないと分かる形なら」
その答えに、アトカは大風車を見上げた。
五大同調という言葉から思い浮かぶのは、世界へ届くほどの力だった。
キルウェスタの風と水、そして一度だけ見た炎。
けれど、今聞いた魔女は、仕事の報酬に高い地位も宝石も求めず、風車の上で眠りたがったという。
本当かどうかは分からない。
それでも、空へ帰る道を残したかもしれない人が、その道のそばで眠ろうとしたという話を、アトカは嫌いではなかった。
頂上を吹き抜けた風が、大風車の羽根を押す。
白い一枚がゆっくり沈み、代わりに次の一枚が空へ上がる。
「きっと、気持ちのいい場所だったんですね」
アトカが言うと、ニルスは強く頷いた。
カインはまだ納得していない顔で平場を見ていた。
「寝返りを打ったら落ちる」
「風の人なら、落ちても戻れるのかもしれません」
「また分からないことを増やすな」
「すみません。でも、少し考えてしまいました」
アトカが笑うと、カインは小さく息を吐いた。
怒っているわけではない。紙の風車を持つニルスも笑い、管理部責任者まで肩を揺らした。
塔の中で張りつめていたものが、ようやく風へほどけていく。
アトカはその笑いの中で、自分の人差し指がまだ遅れていることを忘れたわけではなかった。
肩の熱も、身体の重さも消えていない。
だから義手を上げて風を確かめようとはせず、ただ頬に触れる冷たさを受け取った。
何もしなくても、風は来る。
自分が道を作らなくても、大風車は回る。
そのことが、今は嬉しかった。
丘を下りる前、ニルスは紙の風車をカインへ差し出した。
「持ってみますか」
カインは一度、自分の拘束具を見た。
魔力は止まっている。金具の熱も、先ほどより下がっていた。
それでも受け取る前に成人の装具担当を見て、問題がないことを確かめる。
許可が出ると、紙の軸を指先でつまんだ。
弱い風が吹く。
歪みの残った小さな羽根が、カインの手の中で回った。
昼休みに受け取った時と同じように、紙は破れず、軸も折れない。
今度はアトカも大げさに喜ばなかった。ただ隣から眺め、自然に言った。
「大風車と同じ向きですね」
カインは二つの風車を見比べた。
「こっちは、待たなくても回る」
「小さいですから」
ニルスが答える。
「でも、大風車もちゃんと回りました」
カインは紙の風車をニルスへ返した。
「そうだな」
その一言を聞いて、ニルスは紙の風車を大切そうに胸へ戻した。
夕方が近づくと、成人治癒師が丘の下まで迎えに来た。
アトカは荷車の上で再び指の感覚、肩の熱、呼吸、気分を聞かれる。
「人差し指の遅れは残っています。強くはなっていません。接続部の熱は、少し下がりました。疲れていますが、気分は悪くありません」
装具担当も数値を確認し、学園へ戻った後に詳しい調整が必要だと記録した。
「ああ。もう使う理由もない」
カインは素直に答えた。
修繕班からは、中継塔の古い風路を仮に保護し、現在の導線と混ざらないよう成人技師が見張ると報告が届いた。
残る破損は管理部で処置し、二人へ追加の作業は求めない。
アトカは報告を聞き終えると、管理部責任者へ頭を下げた。
「後をお願いします」
「任せてください。次に来る時は、止まっている風車を直すためではなく、回っている風車を見に来てください」
「はい。その時は、大風車の上も見てみたいです」
成人治癒師が眉を上げる。
アトカはすぐに続けた。
「下からです。上りません」
「それなら構いません」
カインが横から言う。
「今も下から見ただろ」
「次は、魔女が本当に寝られそうか、もう少し元気な時に考えます」
「考えても答えは出ない」
「それでも楽しいです」
カインは呆れたようにアトカを見たが、否定はしなかった。
夕方の護送馬車が管理棟の前へ着いた。
アトカは成人二人の補助で乗り込み、身体を支える座席へ背を預ける。
カインも反対側へ座り、拘束具を窓枠へぶつけないよう腕を置いた。
見送りには管理部責任者、修繕班の大人たち、ニルスが並んだ。
ニルスの紙の風車は、胸の前で回り続けている。
「ありがとうございました!」
「こちらこそ、教えてくれてありがとうございました」
アトカが答える。
カインは一度だけ手を上げた。ニルスも大きく手を振り返した。
馬車が動き出す。
白い風車の間を通り、水路に沿って高原の坂を下っていく。
羽根の影が馬車の屋根を順番に横切り、遠ざかる中継塔の北側からは、もう青白い風も異常な唸りも出ていなかった。
最後に見えたのは、丘の上の大風車だった。
白い羽根が夕方の風を受け、ゆっくり空を切っている。頂上近くの小さな平場には誰もいない。
それでも風は、そこだけを避けることなく通り抜けていた。
本当に一人の魔女が眠ったのかもしれない。
後から誰かが作った話なのかもしれない。
アトカには、まだ分からない。
ただ、風を閉じ込めず、空へ帰る道を残したかもしれない人の名前を、今日初めて知った。
セレナ・エイルウィンド。
馬車が丘を回ると、大風車の頂上は見えなくなった。
その後も白い羽根は止まらず、誰もいない魔女の寝床を、穏やかな風だけが通り過ぎていった。




