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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
蒼風に開く道
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風を空に返す

古い石の奥から、源核の脈動よりも早く風の音が返ってきた。


塔の中で荒れている風とは違う。

壁へ叩きつけられて跳ね返ることも、設備柱へ巻きついて唸ることもない。

アトカが細く通した霧を受け入れ、その先へ場所を譲るように、北側の高い開口部へ抜けていく。


名も記録も残っていない道は、まだ空へつながっていた。


倒れた制御晶の外殻から覗く青白い源核が膨らむ。

水路、風車軸、魔導弁、現在の排風口へ伸びた四本の導線へ荒い光が走り、塔の下から水の逆流する音が上がった。

遠くの羽根も、重い風を押し返すように軋む。


その騒音の合間に、古い石の奥からもう一度、静かな揺れが届いた。


アトカの霧が一度だけ細く震える。


少し遅れて、奥から同じ長さの揺れが返る。


まったく同じではない。

こちらが作った形を真似しているわけでもない。

ただ、アトカが水を置いた場所へ、向こう側から「ここなら通れる」と幅を返すような、長く穏やかな拍だった。


アトカは思わず古い入口を見つめた。


「……返ってきました」


成人連絡員が視線を向ける。


「何がですか」


「僕の水が揺れたあと、奥から別の魔力が返ってきます。源核とは違います」


管理部責任者は塔の北側から人を退かせ、現在設備へつながる四本の導線には触れないことを改めて確認した。


「先に旧式排風路を開きます。源核への処置は、その後です」


カインは頷いた。拘束具には、制御晶を固定していた三本を破断した熱が残っている。

ひびも漏れもなく、外へ見える魔力は黒いままだ。

それでも、止めると決めた高密度穿孔を使い直すつもりはなかった。


古い入口を縫い止める結晶糸は四本ある。

上の一本は弧状の石枠へ食い込み、右の一本は水路へ続く導線と近い。

下の二本は入口を覆う大きな結晶板と、傾いた源核の重さを受けていた。


カインは源核の正面を避け、古い入口と残す導線を同時に見られる位置へ立つ。


「上から外す」


「はい」


アトカは旧式排風路へ通した水を一本だけ残し、その手前へ薄い水網を広げた。


源核が脈打つ。上の糸が張り、四本の導線へ青白い光が駆けた。


カインは撃たない。


荒い拍が遠ざかり、糸の張りが僅かに抜ける。


その瞬間だけ、短い黒が亀裂へ触れた。


結晶糸は爆ぜず、乾いた枝のように折れた。

落ちた先端をアトカの水網が受け、入口から離れた床へ滑らせる。


弧状の継ぎ目から霧が細く吸い込まれた。


そこで、水面が揺れた。


アトカは動かしていない。


霧の先が、石の奥へ引かれたわけでもない。何かに奪われた感覚もない。


水の細い筋へ、奥から届いた風の拍が重なる。


一度。


水面が震える。


一拍置いて、奥から返る。


二度目には、二つの揺れの間が少し短くなった。


三度目。


アトカの水が自分の呼吸に合わせて膨らんだ直後、古い風路の奥でも同じ間隔で空気がほどけた。


水と風の境目は消えていない。


それなのに、別々だった二つの拍のずれだけが、少しずつ小さくなっていく。


アトカは義手の指を止めた。


水は止まらなかった。


入口の狭いところでは細くまとまり、その先で道が広がると白い霧へほどける。

見えていない曲がりへ差しかかるたび、先端から穏やかな揺れが戻り、その返事を受けた水が次の形を取った。


アトカが石の中を見通しているわけではない。


古い道が、水へ自分の形を教えている。


「……僕が全部決めている形じゃありません」


成人連絡員が古い入口を見る。


「制御を失っていますか」


「いいえ」


アトカはすぐに答え、水とのつながりを確かめた。


「水は僕のものです。止めようと思えば止められます。でも、奥から返ってくる拍に合わせると、道の曲がりが分かるんです」


説明しながら、アトカ自身が不思議そうに水面を見る。


自分の魔力で作った水だ。


いつものように薄くも、細くもできる。


けれど今は、自分だけで先を決めなくてもよかった。


「僕が一度返すと、向こうも返してきます」


カインが水ではなくアトカの顔を見た。


「嫌な感じはするか」


アトカは少しだけ考えた。


源核の荒い光は、水へ触れれば無理に流れを乱し、現在設備へ引こうとする。

古い風路から返るものは違う。


押さない。


奪わない。


急かさない。


ただ、水が届いた分だけ、次に通れる場所を返してくる。


「怖くはありません。でも、初めてです」


「なら、変わったら言え」


「はい」


カインはそれ以上、未知の現象へ名前を付けようとはしなかった。


二本目は水路側の導線と近かった。カインは奥へ貫かず、古い入口へ向かう表面の亀裂だけを開く。


剥がれた結晶の下から青白い風が漏れ、アトカの水へ触れた。


外へ現れた魔力が白い飛沫へ変わる。


その瞬間だった。


古い風路の奥から返る拍が、一段はっきりした。


アトカの水が膨らむ。


奥の風が広がる。


水が細くなる。


風も狭い石の間を抜け、その先でまた広がる。


どちらかが先に命じているのではない。


一方が形を変えるたび、もう一方が少し遅れて応え、次にはその返事を受けた側がまた形を変える。


重なってしまわない二つの波が、互いの間を測りながら同じ速さへ近づいていく。


アトカの青い瞳が大きくなる。


「……同じになってきています」


「何がだ」


「水と、奥の風の間です。最初は少しずれていたのに、今はほとんど同じところで広がっています」


塔の北側から鐘が鳴った。


外の管理人が、開口部から霧と風が出始めたことを伝えている。


アトカはその音を聞き、顔を上げた。


「空まで通っています」


驚きのあとに、安堵が滲んだ。


残る二本の間には、大きな結晶板が入口を塞いでいた。

成人連絡員が現在設備の部品ではないことを確かめると、アトカは室内側へ水の受け皿を作る。


カインの短い破断が下側の一本へ入った。


糸が折れる。


支えを失った結晶板が剥がれ、水の受け皿へ重く落ちた。

アトカは持ち上げず、沈んだ重さをそのまま横へ流して入口の正面から外す。


弧の内側が半分ほど開いた。


奥には、長い年月を風に削られて角の丸くなった石の道があった。


金属枠も、表示板も、現在設備の導線もない。


石だけで作られた狭い通り道が壁の中を緩く上へ曲がり、見えない先で空へ続いている。


入口が開いた途端、室内を漂っていた霧が一斉にそちらへ向かった。


だが、吸い込まれたのではなかった。


先に古い風が一度抜け、その後ろへ空いた場所を、アトカの霧が追う。


霧が通った後には、また風が通る。


風の後には、また霧のための空間が残る。


交互に場所を譲るうちに、いつの間にか二つの流れの間隔が揃っていた。


アトカは現在の排風口へ向けていた水をほどき、古い風路へ通す一本へ重ねた。

二つの出口を同時に支えず、今ある水を一つの道へまとめる。


水面が静かに脈打つ。


奥から返る。


アトカがもう一度、水を送る。


今度は返事を待つ。


すぐに、石の向こうから同じ長さの揺れが戻った。


その時だけ、アトカには自分の水が遠い場所まで一つにつながったように感じられた。


塔の壁の中だけではない。


古い石の曲がりを越え、その先の高い開口部まで。


さらに、その向こうで吹いている高原の風へ、ほんの僅かに触れたような感覚。


広い。


思ったより、ずっと広い。


水を伸ばせば、まだ先へ行ける気がした。


けれど次の瞬間、カインの声が横から届いた。


「アトカ」


アトカは瞬きをした。


足の裏へ石床の硬さが戻る。


自分の呼吸。


義手の重さ。


目の前にある一本の水。


「……はい」


「道だけ見ろ」


「はい」


アトカは広がりを追わなかった。


高原全体へ水を伸ばそうともせず、目の前の古い風路へ通した一本だけを見る。


そこにはまだ、静かな拍が返っている。


水は水のまま。


風は風のまま。


けれど、今はほとんど同じ間で細くなり、広がり、次の場所を空けていた。


「この道は、風を押し出すための形じゃありません」


アトカは返ってくる揺れを受けながら呟いた。


「風が通ったあとを空けて、次の風が自分で進めるようにしているんです」


誰が作ったのかは分からない。


なぜ魔力の拍が今も残っているのかも分からない。


それでも、その道に残ったものは、進む方向を力で押しつけてはいなかった。


通れる形だけを返す。


その先へ進むかどうかは、入ってきた風へ残している。


残る係留糸は一本。


源核の最下部から古い入口の右下へ伸び、青白い結晶を斜めに支えている。

それを外せば入口は完全に開く。同時に、限界まで風を抱えた源核も固定を失う。


アトカは水の縁を整えようと、人差し指を曲げた。


水が半拍遅れて動いた。


もう一度開く。


今度も縁が遅れて広がり、肩口から接続部へ熱が集まり始めた。


アトカはすぐに声を上げた。


「申告します。人差し指に感覚の遅れがあります。接続部も発熱しています。今ある水は保てますが、新しい操作は増やせません」


「魔術を停止してください」


管理部責任者の返答は速かった。


アトカは古い入口を見る。


半分開いた道の奥では、水と風の拍が揃ったまま続いている。


ここで水を消しても、石の道そのものがなくなるわけではない。


ただ、最後の糸を外した直後だけは、源核から溢れる風が現在設備の四本へ戻る可能性があった。


「新しい水は作りません。今ある一本だけを、風が古い道へ移るまで維持させてください。水がなくても進める状態になったら止めます」


成人連絡員が入口と源核を見比べる。


割れた直後だけは、水の曲面が風を古い入口側へ逃がす助けになる。


管理部責任者は、一本だけを維持し、形を増やさず、遅れや熱が強まれば即時停止することを条件に認めた。


カインも拘束具へ触れた。


「俺も申告する。熱が上限に近い。ひびと漏れはない。色も黒のまま」


「高密度出力は禁止します」


「ああ。使わない」


最後の係留糸には源核の重さが集まり、中央へ深い亀裂が開いていた。

穴を穿つ必要はない。短い力で亀裂を広げれば、あとは源核自身の重さが折る。


カインはアトカの左側へ半歩寄った。


水を横切らず、源核と古い入口、それにアトカの足元まで見える位置だった。


「最後を外す。お前は道だけ見ろ」


「はい。カイン先輩は、亀裂だけをお願いします」


青白い源核が膨らみ、最後の糸が強く張る。


カインは撃たない。


荒い拍が四本の導線へ走り、光が遠ざかる。


源核が僅かに縮んだ時、係留糸の亀裂が大きく開いた。


「今です」


短い黒が亀裂へ触れた。


穿たない。


押し切らない。


すでに割れようとしている場所へ、最後のきっかけだけを渡す。


係留糸が折れた。


古い入口が完全に開く。


固定を失った源核が制御晶の外殻へ沈み、その衝撃で表面の亀裂が一斉に走った。


青白い光が部屋を満たす。


源核はカインに砕かれるより早く、自らの内圧に耐えられず割れた。


大量の風が溢れる。


四本の導線へ戻ろうとする流れ。


階段へ落ちる流れ。


天井へぶつかる流れ。


倒れた外殻が持ち上がり、結晶片が室内へ散った。


アトカの水が大きく揺れる。


反射的に別の膜を作りかけた指を、アトカは止めた。


増やさない。


一本だけを見る。


一瞬、源核の荒い拍に水が乱される。


だがその向こうから、古い風路の静かな拍が戻ってきた。


一度。


荒れた水の中へ、長い揺れが通る。


アトカがその間に合わせて水を細くする。


奥の風も細く抜ける。


次の瞬間、水を広げる。


古い道の奥で空間がほどける。


ばらばらだった風の流れが、その往復へ一つずつ乗っていく。


アトカが風を従わせているのではない。


古い道が水へ返し、水がその返事を受け取り、そこへ荒れた風が通れる隙間が生まれている。


その正面へ、大きな結晶片が飛んだ。


カインの短い黒が先端の亀裂へ走り、アトカへ届く部分だけを床へ落とす。


別の破片が水路へ向かう。


倒れた外殻につながる細い根元だけを切り、軌道を逸らした。


「前は俺が見る。道だけ見ろ」


「はい」


アトカはカインへ任せた。


左へ水を置かない。


破片を追わない。


目の前の一本だけを見る。


水が応える。


古い風が返す。


また水が応える。


やがて、どちらが先だったのか分からないほど、二つの拍が重なった。


白い霧が脈打つたび、石の奥でも風が同じ間で抜ける。


その間へ、源核から溢れた風が次々に乗っていく。


北側外壁から轟音が響いた。


空へ出た風が雲の下へ大きく広がり、水飛沫が陽光を受けて白く散る。


塔の中で暴れていた風が、初めて外へ向かって一つの流れになった。


源核の光が弱まる。


水路側の導線が静かになり、風車軸へ続く光が抜ける。魔導弁の震えも止まっていく。


アトカは返ってくる拍を感じたまま、呼吸を一つ整えた。


そして、自分の水の拍だけを意図的に遅らせた。


水が遅れる。


古い風は――追わなかった。


水へ合わせて曲がるのをやめ、開いた石の道をそのまま空へ抜けていく。


アトカはもう一度だけ確かめる。


水を細くする。


風は水を求めず、自分で先へ進む。


共に揃っていたものが離れても、道は残っている。


そのことに、アトカは小さく息を吐いた。


「道へ乗りました。止めます」


水の曲面を源核側からゆっくり細くしていく。


途中で断ち切って風を横へ落とさず、古い入口に近い部分を最後まで残す。


外から、最後の霧が抜けた合図が届く。


アトカは水を完全に消した。


その直後、膝から力が抜けた。


カインの身体が先に動いた。


左側から踏み込み、義手の接続部を避けて背と脇腹を受ける。

アトカが床へ崩れる前に引き止め、そのまま自分の肩へ体重を預けさせた。


「カイン先輩……」


「立つな」


カインはアトカを支えたまま腰を落とした。


すでに自分の魔力は止めている。


アトカも水を消している。


二人とも、もう役目を増やさなかった。


「すみません。守ってもらいました」


カインの腕に僅かに力が入った。


「約束した。いつか、俺もお前を守ると」


アトカは一度目を見開き、それから穏やかに笑った。


「はい。でも僕は、その時は一緒に戻りましょうね、と言いました」


「ああ。覚えてる」


カインは迷わず答えた。


「お前だけ帰して、俺が残る約束じゃない。俺も止めた。二人で戻る」


アトカはカインへ身体を預けたまま頷いた。


「では、一緒に戻りましょう」


「ああ」


管理部責任者と成人連絡員が二人の側へ来る。


その向こうで、塔の外から低く重なる音が届いた。


止まっていた白い風車が、丘の上から順に羽根を動かし始めている。


最初はゆっくり。


やがて自然の風を受けたものから、滑らかに回り始める。


水路の下からも音が戻った。押し上げられていた水が本来の方向へ流れ、石の溝を満たしていく。


中継塔の震えは止まっていた。


壊れた留め輪も、傷ついた魔導弁も、落ちた保守足場も残っている。


それらは現地の成人たちへ引き継がれる。


二人がここで全部を直す必要はない。


やがて救護用の担架と装具担当の補助員が上がってきた。


アトカは担架へ移り、カインも隣で拘束具を見せる。


「歩けますか」


成人連絡員がカインへ尋ねる。


「歩ける。でも、こいつと一緒に下りる」


カインは担架を持とうとはしなかった。


成人たちの動きを邪魔しない位置で、アトカの顔が見える側を歩く。


階段を下り始める前、アトカが古い入口を振り返った。


水はもうない。


それなのに、風路の奥には先ほどと同じ静かな拍が残っていた。


今度は返事を求めていない。


水を呼び戻そうともしていない。


ただ、新しく入ってきた風の後ろへ次の空間を空け、また次の風を迎えている。


さっきまで自分の水とぴたりと重なっていた拍が、何事もなかったように古い石の奥で続いている。


アトカはしばらくそれを見つめた。


不思議だった。


初めて触れたはずなのに、最後には水の方も、ずっと前からその間を知っていたように動いていた。


けれど、その理由は分からない。


今は、分からないままでいい。


「カイン先輩」


「なんだ」


「一緒ですね」


カインは一度だけ古い入口を見てから答えた。


「ああ」


二人は同じ階段を下りていく。


その背後で、古い石の道を風が通る。


誰が残したのかも。


なぜこんな拍が残っているのかも。


まだ誰も知らない。


それでも一度だけ、その道に残った静かな風と、アトカの水は互いを押さえつけることなく、同じ間で息をした。


そして水が去ったあとも、道は何も求めず、次の風のために空を開け続けていた。

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