表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/4

第03幕 ――境界線の消失と透明な祈り――

 夜と朝の境界線が曖昧に溶け合う、薄青い時間帯。 静まり返っていた大学の校舎を、底から揺さぶるような重低音が貫いた。 ズズン、とコンクリートが鳴り、足首に泥のような重力が絡みつく。

 私は、非常階段へ続く薄暗い廊下を走っていた。 カツン。ヒールの音が不規則に乱れ、冷え切った空気を切り裂く。 気道が凍てつき、吸い込む空気が硝子の破片のように喉の奥を刺した。

 背後で壁のタイルが剥がれ落ち、パラパラと硬質な破砕音が散らばる。 「……はぁ、はぁっ」 手抜き工事だ。大学の杜撰(ずさん)な安全管理が、大規模な崩落事故を招いている。

 そうに決まっている。私は被害者として、ただ屋上へ避難しているだけだ。 右手に握った純白のスマートフォンは、電波を失い暗い画面を晒している。 冷たいプラスチックの塊。父へ繋がる唯一の手段。

 それでも私はこれだけが自分を守る術だと信じ、指先が白くなるほど握りしめていた。 非常階段へ通じる重い鉄扉の前に辿り着く。 鋼鉄のハンドルに手をかけようとした瞬間、私の視線が不意に足元へ落ちた。

 ダッフルコートの裾。黒い繊維の上に、黄土色の泥が点々と付着している。 背後から迫る轟音。天井の蛍光灯が、瀕死の羽虫のように明滅する。 逃げなければ。だが、私は扉から手を離し、コートの裾を持ち上げた。

 親指の爪を立て、繊維に絡みついた泥を削り落とし始める。 カリカリ。カリカリカリ。 硬い爪がウールを擦る音が、崩壊の轟音を塗り潰して私の聴覚を支配する。

 泥を払い落とさなければ。ただその一心で、私は指を動かし続けた。 カリカリ。ふいに、思考の連続性が断ち切られる。 真夏の昼下がり。錆びついた公園の蛇口から直接飲んだ水道水。

 その生温かい、強いカルキの甘い味が、唐突に舌の上に広がった。 なぜ今。冬なのに。実体を持ったその味が味蕾を刺激する。 泥が落ちない。私は泥を削る手を止め、迫る轟音の中で完全な沈黙に落ちた。

 遠くの給湯室のボイラーが、ゴボゴボと間の抜けた音を立てている。 ようやく重い鉄扉を押し開け、屋上へ出た。 冷たい風が張り詰めた頬を打ち、白み始めた空に頼りない月が透けている。

 だが、そこは私の知る安全な場所ではなかった。 足元のアスファルトが波打ち、砕けたコンクリートが水中の気泡のように浮遊する。 「……何よ、これ」

 声は風にさらわれた。空の最も暗い隅から、一本の細い黒い糸が垂れ下がっている。 内臓のように脈打つそれを見て、私は思考を止め、視界の端へと追いやった。 足元が傾き、浮遊する瓦礫を避けて後退する。

 いつしか、私は屋上の縁へ追い詰められていた。 落下防止のフェンスは既に崩落し、つま先が虚空へと踏み出す。 落ちる。悲鳴が上がるはずだった。だが。

 眼下に広がる世界を捉えた瞬間、私の恐怖は完全に凍結した。 静寂。崩壊の惨劇の中にあるというのに、街も山々も息を呑むほどに美しい。 地図上の境界線が、静かに溶けて消えていく。

 私がしがみついていた小さな理由など、あの巨大で緻密な模様の前では意味を持たない。 ただ、世界が一つの命のように繋がり合い、脈打っていた。 「彼を、助ける」

 純化された、短く鋭い祈り。それだけが胸を満たす。 静謐な風の中で。カシャッ。 微かな、しかし極めて鮮明なシャッターの音が鼓膜を震わせた。

 同時に、鼻を突く強い酢酸(さくさん)の匂いが、冷気と混じって肺の奥を満たす。 暗室での冷酷な記憶。だが今は、その匂いが痛切な使命感へと反転している。 拒絶されてもいい。見返りがなくとも、彼を守る。

 絶体絶命の縁で、私はふと宙に向かって小首を傾けた。 右に十五度。顎を僅かに引き、目尻に柔らかい皺を深く刻む。 誰に見せるわけでもない。ただ、この皮膚の折り目だけが今の私そのものだった。

「……ふふっ」 ふいに声が甘く上擦る。 遠くの防災無線から、朝を告げる的外れなメロディが間延びして響く。

 私は小さく息を吐き、右手のスマートフォンを自らの意志で手放した。 白い筐体(きょうたい)が空を切り裂き、下界へと落ちていく。 私はコートの懐に隠し持っていた、無色の印画紙を左手で強く握りしめた。

 紙片から伝わる、火傷しそうなほどの冷たさと、凍てつく熱。 異常な世界を受容し、私は透明な祈りを抱いて屋上の縁に立ち続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ