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第02幕 ――無色の印画紙と凍てつく熱――

 サークル棟の廊下の喧騒は、分厚い鉄扉の向こう側で遮断されている。 暗室。空気の流動が停止した、半径五メートル以内の密室。 息を吸うたびに、粘着質な匂いが肺の奥へと入り込んでくる。

 酸っぱい、古い果実が発酵したような薬品の匂い。 天井の最も暗い隅からは、一本の細い黒い糸がだらりと垂れ下がっている。 古い配線の影だろうか。風もないのに、それは微かに脈打ち、蠢いている。

 気味の悪い光景だが、ただそれだけのことだ。 私の日常において、あのような無意味な汚れを気にする必要はない。 シンクの蛇口から、水滴が落ちる。ポチャン。……ポチャン。

 ステンレスの底を打つその水音だけが、不規則な間隔で空気を震わせている。 血の色のフィルターを通した低い色温度の光源。 それが、私の着ているコートの繊維を赤黒く染め上げている。

 目の前。シンクの向こう側に、彼がいる。 ジンのシャツは、この赤い光の中にあっても、元の純白を保っているように見えた。 彼はプラスチックのバットに入った現像液を、一定のリズムで揺らしている。

 チャプ、チャプという液体の擦れる音。 「ジン君」 声をかけた。喉から出た音声は、自分でも驚くほど上擦っていた。

 沈黙。 彼はバットから印画紙をピンセットで引き上げ、水洗用のシンクへ移す。私の方を見ない。 私は、キャスケットのつばを指先で数ミリだけ直した。

「失敗作でござる」 唐突に。 彼が振り返り、ピンセットの先端でその紙片を私に向かって差し出した。

「え?」 「温度管理を誤ったか、あるいは最初から被写体に光が足りていなかったか」 彼は私を見ない。見ているのは、あくまでピンセットに挟まれた一枚の印画紙だけだ。

 私は、震える指先でそれを受け取った。 ザラリとした厚手の印画紙。そこから、強烈な酢酸(さくさん)の匂いが立ち昇る。 微かな金属の軋み。彼が首から提げたカメラのシャッター音が、記憶の底で再生される。

 かつて廊下で、彼が私を見てくれたと感じた瞬間の音と匂い。 だが、今のこの匂いは、ひどい冷たさを伴って鼻腔を刺す。 温もりを一切剥ぎ取られた、ただの化学反応の悪臭だ。

 それでも私は、その酸っぱい匂いを深く肺に吸い込んだ。 彼から手渡されたという事実。その一点のみに、私はすがりつこうとしている。 彼からの、初めての贈り物。視線を、印画紙に落とす。

 息が止まった。 そこに写っているのは、サークル棟の廊下に立つ私の姿。 だが、私の輪郭が激しくブレている。手ブレではない。

 私の身体の半分が、砂嵐のような半透明の影に置換され、背景の窓ガラスが透けている。 私は、彼にとって、この程度の解像度でしか存在していないのか。 ただの現像ミスだ。そうに違いない。

 指先に、矛盾した感覚が走る。 濡れた印画紙は冷たいはずなのに、皮膚の温度を奪い、凍てつくような熱を発している。 火傷しそうなほどの冷たさ。貧血による錯覚が、指先から腕の神経を焼いていく。

 胸の奥で、何かが砕ける音がした。 泣き叫ぶべき場面だ。なぜこんなものを渡すのかと、問い詰めるべき状況だ。 しかし、私の肉体は、直接的な悲しみを表現することを拒絶した。

 視線を落とす。私のコートの袖口。 印画紙から滴った現像液の飛沫が、ウールの生地に小さな黒いシミを作っていた。 私は印画紙から目を逸らし、左手の指先でその微細なシミを弾き始めた。

 爪の先で、ウールの繊維を引っ掻く。カリカリ。 シミは落ちない。化学的に定着した汚れだ。だが、私の指先は止まらない。 直径一ミリにも満たないその汚点を、ひたすらに削り落とそうとする。

「光の入射角が、いささか平坦すぎたか」 ジンが呟く。私の様子など一切気にする素振りを見せない。 彼は、狭い空間で赤い光が水面に反射する角度を熱心に観察し始めている。

 カリカリ、カリカリ。私の爪が繊維をこする音が響く。 心臓の鼓動が、不規則なリズムで肋骨を叩く。肺が浅い呼吸しかできない。 ようやく指の動きを止める。シミは落ちていない。私は顔を上げた。

 目の前。現像液を満たしたステンレスのシンク。 その金属の側面に、赤い光に照らされた私の顔が、歪んで反射している。 私は、その歪んだ自分自身の顔に向かって、小さく首を傾げた。

 角度は完璧だった。右に十五度。顎を僅かに引き、唇の端を柔らかく持ち上げる。 笑った時にできる目尻の柔らかい皺。産毛の柔らかな質感。 なぜ今、こんな状況で、私はこの表情を作っているのか。

 理由はわからない。 ただ、この柔らかな折り目だけが、私がここにいる確かな事実としてそこにある。 「……どうかしら」

 ステンレスに映る自分に向かって、ふいに甘く上擦るような声を出した。 無防備で、滑稽なほど愛らしい声。 私はその目尻の皺を、じっと見つめ続けた。

 ステンレスから視線を外し、再び手元の印画紙に目を落とした。 その瞬間。視界が爆発した。 赤いセーフライトの光が、唐突に緑色に反転する。

 印画紙の中のノイズが、紙面を突き破って現実の空間へと溢れ出してきた。 「ッ……!」 暗室の空気が、微小なガラスの破片を混ぜ込んだような粒子へと変質する。

 呼吸のたび、粒子が気管支を切り裂き、血の味が喉の奥からせり上がる。 壁のタイルが、床のコンクリートが、無数のドットとなって溶解し始める。 私の脳裏に、全く無関係な記憶が唐突に蘇った。

 真夏の昼下がり。錆びついた真鍮(しんちゅう)の歯車を口に含んだ時の、強烈な泥の味。 私は真鍮(しんちゅう)など舐めたことはない。しかし、その泥の味が舌の上に広がっている。 「……換気扇の、故障ね」

 ひきつった声で呟いた。 薬品が揮発(きはつ)し、密閉空間で一酸化炭素濃度が急上昇したのだ。 脳に酸素が回っていないための、一時的な幻覚と貧血の症状。

 そう、現実的な理由で解釈しなければならない。 大学の設備管理の怠慢が招いた、単なる事故。 私は必死に理屈をかき集め、目の前の事象を正常な枠内に押し込めようと(もが)く。

「……美しい」 ジンの声が、遥か遠くから聞こえた気がした。 彼がどこを見ているのか、何を美しいと言ったのか、私にはわからない。

 私の視界はノイズに覆い尽くされ、手の中の無色の印画紙だけが、凍てつく熱を放つ。 私はその冷たい熱に引かれるように、真っ暗な底へと引きずり込まれていった。

 暗室の中の時間は、完全に停止したかのように。 ただ静かに、私の意識を深い底へと沈めていった。

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