第01幕 ――硝子の防壁と凍てつく熱――
朝の光が、ひび割れたコンクリートの断面を白く染め上げている。 私の足元から、引力という概念が抜け落ちていた。 崩壊は、半径五メートルの至る所で起きている。砕け散った給水管の破片、錆びついた鉄筋が、気泡のように中空を浮遊する。
五メートル先。足元のコンクリートが崩落していく縁で、彼は逃げようともせずカメラを構えていた。 彼をこちら側に突き飛ばせば、代償として私自身が消える。 だが、そんな理屈はどうでもよかった。彼を助ける。それだけだ。
事象の因果が完全に断裂する中、私は地面を蹴った。 浮遊する瓦礫を避け、彼に向かって飛ぶ。
……ことの始まりは、この絶望の数日前に遡る。
冬の平日。午後三時を僅かに回った頃合い。 斜めに差し込む弱々しい陽光が、大学サークル棟の古びた廊下を薄黄色のブロック状に区切っている。 リノリウムの床が反射する鈍い光の束を、私のヒールが規則正しく踏み砕いていく。
カツン。カツン。 硬質な摩擦音が、埃の舞う冷気を細かく震わせる。 静寂の底で、どこかの階の清掃員が使うモップの柄が壁にぶつかる乾いた鈍音が、不規則なリズムで響いていた。
カラカラ、コツン。 その微細な生活音のノイズが、かえってこの空間の人気のなさを浮き彫りにする。 右手に握りしめた純白の筐体。最新のスマートフォン。
一切の指紋を許さない玉髄のような滑らかな表面。 そこから伝わるひんやりとした熱伝導が、掌の熱を静かに奪っていく。 私はその無機質な冷たさを確かめるように、親指の腹を画面の端に滑らせる。
父親への確実な連絡手段。私がここにいるという安心の証明。 この通信機が手の中にある限り、私は普通の、立派な女子大生として振る舞える。 だが。廊下の窓際。等間隔で並ぶ硝子の、一番右下の隅。
チリ一つなく磨かれているべき視界の端で、黒カビのような微細な斑点が、結露の水滴に混じって不気味に這い出していた。 昨日、清掃業者が拭き上げていたはずだ。清掃の怠慢か。 いいや、冬場の乾燥と建物の老朽化が引き起こした、ただの自然な現象だ。
大学の設備は年々杜撰になっている。 そう自分を納得させ、視線を切る。 ふと見上げた頭上。無機質な蛍光灯が連なる天井の隅で、一本の黒い糸がだらりと垂れ下がっていた。
風もないのに、それは脈打つように、ゆっくりと微かに蠢いている。 生き物の内臓のようにも見えるその糸。見なかったことにする。 私はただ前だけを見る。自分の手の届く範囲だけが綺麗であれば、それでいい。
廊下の突き当たり。 窓際の四角い光の枠の中に、「それ」はいた。 糊の効いた真っ白なシャツ。時代錯誤なサスペンダー。台湾からの留学生、ジン。
彼の周囲だけ、古い建物の埃っぽさがすっぽりと抜け落ちている。 無臭。息苦しいほどに整頓された真空。 彼自身が、この廊下から切り抜かれた薄い写真のように、背景から遊離してそこに立っている。
鼓動が、肋骨の内側を弱く、しかし確かな重量を持って打つ。指先が、ほんの少しだけ熱を帯びた。 彼に指導をしなければならない。 サークル運営において、協調性を欠く彼にルールを教えるのは、先輩としてのただの義務だ。
ただの指導。ただの先輩。そう自分に言い聞かせる。 しかし、そう念じるほどに、掌の中のスマートフォンがひどく冷たく、重く感じられる。 一歩、踏み出す。キィン。
ヒールの立てた音が、突然、耳の奥で空気を反転させるような高周波の耳鳴りに変わった。 周囲の気圧が低下し、頭蓋骨を締め付けるような圧迫感が肌を刺す。 左腕の腕時計の秒針が、チッ……チチッ……と、不規則な間隔で響き始める。
貧血。そうだ、これはただの貧血だ。 最近の卒論の準備と、サークル内の人間関係の調整による過労。 ストレスが自律神経に作用し、一時的な目眩を起こしているのだ。それ以外にあり得ない。
私は歩みを止めようとした。だが、その前に。視線を落とす。ダッフルコートの裾。 そこに、微小な、本当にごく僅かな白い繊維の付着があった。 立ち止まる。私は画面を暗くし、左手でその繊維をつまもうとする。
取れない。ウールの毛羽立ちに深く絡みついている。 私は両手でコートの裾を広げ、爪の先でその繊維を削り取ろうとした。 ジンはすぐそこにいる。五メートル先。彼が私を見ているかもしれない。
だが、こんな許しがたい汚れのままでは、私は彼に声をかけることなどできない。 爪で弾く。息を吹きかける。落ちない。 十五秒。三十秒。私は指先を神経質に動かし続ける。
ようやく、その白い繊維が床へと落ちた。息を吐き出し、顔を上げる。 ふいに、廊下の窓硝子に自分の顔が映った。 冷たい窓枠に切り取られた私。薄汚れた硝子に映る自分に向かって、私は無意識に小首を傾けていた。
角度は完璧だった。右に十五度。顎を僅かに引き、唇の端を柔らかく持ち上げる。 笑った時にできる目尻の柔らかい皺。鼻孔から抜けるふいに甘く上擦るような吐息。 なぜ今、こんな緊張状態の中で、極めて無防備な表情を作っているのか。
理由はわからない。ただ、この皮膚の柔らかな折り目だけが、今の私にとっての確かな事実としてそこにある。 首を戻す。キャスケットのつばの角度を、右手で数ミリだけ下へ直す。 私は再び、ジンへ向かって歩き出す。
足を踏み出すたびに、空間の圧力が重くなる。 見えない泥沼を歩いているような、足裏への過剰な重み。 彼との間にあるたった数メートルが、決して踏み越えられない巨大な境界線のように思える。
近づくほどに、彼の周囲の「真空」が、私の肌を刺す。冷たい。だが。 カシャッ。 微かな、しかし極めて鮮明な、シャッターの巻き上げ音がした気がした。
そして、ツンと鼻を突く、酸っぱい薬品の匂い。暗室の酢酸の匂い。 その匂いが鼻腔をかすめた瞬間、私の胸の奥で、何かが静かに燃え上がった。 安心感。彼は私を見てくれている。
凍てつくような廊下の冷気の中で、その酸っぱい匂いだけが、私に確かな熱を与えていた。 「……ジン君」 声を出した。自分でも驚くほど、甘く上擦った声。
彼は窓の外を見ていた。振り返らない。 「サークルの書類のことだけど」 言葉を継ぐ。沈黙。彼は、窓硝子越しに冬の枯木を眺めている。
微動だにしない。サスペンダーの金具が、冷たく鈍い光を放っている。 「聞いてるの?」 無反応。風の音すらない廊下で、ただ私の声だけが空転し、床のリノリウムに吸い込まれて消えていく。
怒りではない。悲しみでもない。 ただ、胸の奥で、理由のわからない熱が渦を巻き、行き場を失って滞留していた。 私は彼にこれ以上近づけない。透明な硝子の壁が、私たちの間に屹立している。
突然。私の脳裏に、全く脈絡のない記憶が蘇った。 幼い頃、父の書斎で見つけた、古びた青いガラス玉。それを光に透かした時に見えた、小さな気泡の連なり。 なぜ今、そんなことを思い出したのか。意味などない。
私はただ、彼との間に横たわる透明な壁の前に立ち尽くし、右手に握りしめた純白のスマートフォンの、ひどく冷たい重さを感じ続けていた。




