第04幕 ――透明な祈りと残響――
朝の光が、ひび割れたコンクリートの断面を白く染め上げている。 温度はない。吹き抜ける風の冷たさだけが、頬の産毛を微かに震わせる。 私の足元から、引力という概念が抜け落ちていた。
足の裏がアスファルトを捉える感覚が希薄になる。 海中を歩くような不確かな抵抗感。一歩を踏み出そうとする。 衣擦れの音が、静まり返った空気の中で不自然なほど大きく響いた。
ウールの生地が擦れ合う、ザシュ、ザシュという乾いた摩擦音。 それが耳の奥で反響し、私の体重がこの空間から揮発したことを冷酷に突きつけてくる。 頭上の虚空を見上げる。空の最も暗い隅。
青と白の境界線が曖昧になったその角から、一本の細い黒い糸がだらりと垂れ下がっている。 風の影響ではない。自らの脈動を持つ生き物の内臓のように、不気味に蠢く。 私はただそれを視界の端に捉えたまま、意識の対象から除外した。
崩壊は、半径五メートルの至る所で起きている。 砕け散った給水管の破片、錆びついた鉄筋が、気泡のように中空を浮遊する。 朝の光が瓦礫の断面に乱反射し、視界を鋭く突き刺す。
五メートル先。ジンが立っている。 彼の足元のコンクリートが、砂の城のようにサラサラと崩落を始めている。 崩れた先は、地面ではない。光すら吸い込む暗黒。
空間ごと、世界の裏側へと削り落とされようとしている。 叫ぼうとした。だが、喉から漏れたのは掠れた風切り音だけ。 私の両手は、ダッフルコートの裾を固く握りしめていた。
黒いウールの繊維。そこに、ほんの僅かに跳ねた黄土色の泥。 私は親指の爪を立て、その微小なシミを削り落とし始めた。 カリ、カリ、カリ。
硬い爪が繊維をこする音が、崩壊の轟音よりも鮮明に耳の奥で反響する。 この泥が存在する限り、彼に触れることは許されない。 爪の間に冷たい泥の粒子が食い込む。それでも指は止まらない。
ジンもまた、逃げようとはしない。 足元の亀裂が彼の革靴の爪先に迫っているというのに。 彼は首から提げたカメラを構え、レンズを空に向けている。
「……光の入射角が、いささか平坦でござるな」 彼は呟き、より美しいアングルを求めて、崩落していく縁の方へ半歩後ずさった。 遠くから、カラスの間延びした鳴き声が聞こえる。
それが終わると、真空のような沈黙が落ちる。 泥が、ようやく指先で弾き飛ばされた。 顔を上げる。ジンの足元が、完全に崩れようとしている。
その時、懐の無色の印画紙が、火傷しそうなほどの熱を発した。 強烈な酢酸の匂いが立ち昇る。 印画紙に定着していたはずの私の影が、端からノイズとなって消え始めている。
砂嵐のような半透明の欠損。 彼をこちら側に突き飛ばせば、代償として私自身が消える。 だが、そんな理屈はどうでもよかった。彼を助ける。それだけだ。
その瞬間。全く脈絡のない記憶が、意識の裏側で閃光のように弾けた。 幼い頃の夏。スイカの赤い汁が垂れた縁側の、生温かい木の感触。 微かに鼻を突いた蚊取り線香の煙の匂い。
木目のささくれが指に刺さる感触までが、今の掌の中に確かな実体を持って広がる。 事象の因果が完全に断裂する中、私は地面を蹴った。 浮遊する瓦礫を避け、ジンに向かって飛ぶ。
崩壊する虚空を背にした彼と、視線が交差した。 レンズ越しの、透明な瞳。 私は、そのレンズに向かって、ふいに小首を傾けていた。
右に十五度。顎を僅かに引き、唇の端を柔らかく持ち上げる。 笑った時にできる目尻の柔らかい皺。産毛の柔らかな質感。 顔面の筋肉の柔らかな折り目が、周囲の崩壊とは無関係に形成されていく。
「……えへへ」 甘く上擦る声。 ドン。私の両手が、ジンの胸板を強く押し返した。
反動。彼が安全なコンクリートの上へ弾き飛ばされる。 同時に、私は崩落する闇の中へと落下していく。 手の中の印画紙から、私のシルエットが消え失せた。
ノイズすら残らない、ただの透明な紙片。 暗闇。私は落ちながら、ただコートの袖口を整えようと指先を動かしていた。 衣服のシワが気になって仕方がない。
どれほどの時間が経ったのか。 私の視点だけが、奇妙な浮遊物として世界の片隅に残されていた。 空はすっかり白み、正常な朝の光が大学の屋上を照らしている。
屋上の縁。ジンが立っている。 彼は無傷だ。白いシャツに汚れ一つなく、ただ朝の風景を眺めている。 その静謐な風の中で。
カシャッ。 鮮明なシャッター音が空間を震わせた。 鼻を突くような酸っぱい薬品の匂いが、冷気と混じって漂ってくる。
だが、彼がレンズを向けているのは、私が消えた虚空ではない。 屋上のフェンスに止まった、一羽のカラス。 カシャッ。カシャッ。
彼はただの風景を淡々と記録している。 そのシャッター音と匂いが、届かない断絶の冷たさへと反転する。 理由のわからない熱い塊が、私の透明な胸の奥を激しく焼いた。
私はただ、その匂いの中で言葉を失っていた。
少しずつですが、文章の筆触や呼吸感を調整しています。
今回は『錆と蜜の箱庭』のサイドストーリーとして、『錆と蜜の箱庭 ― アンナのラブストーリー ―』という短編を企画しました。
読み心地が毎回わずかに変わるかもしれませんが、その揺れも含めて楽しんでもらえたら嬉しいです。




