第五十六話 補給担当の交渉
「――飯、食っていくか?」
完全に、世界が止まった。
世界喰らいも、王女も、セレフィナも、異界少女も。
防衛軍の兵士たちも、なんなら敵の侵食体どもすらも、全員がその場で石像のように固まっていた。
数秒の強烈なフリーズの後、異界少女がコントロールルームの床を激しく踏み鳴らしながら叫んだ。
「ななな、何言ってるんですかレクト殿ぉぉぉ!!?」
至極まともな叫びだった。
だが、俺は大真面目だった。
世界喰らいは生まれてからずっと、永遠に飢えている。
飢えているから世界を食う。
なら、世界そのものじゃなくて、世界の中に文字通り山ほど余っている「食料」を直接渡せばどうなる?
前代未聞だが、試す価値はあるはずだ。
なにしろ、うちは今、三億食以上の在庫を抱える超巨大倉庫なんだから。
その時、次元の裂け目の奥底で、世界喰らいがゆっくりと口を開いた。
『……めし?』
初めて聞く単語だったらしい。
その概念自体が抜け落ちているような、不思議そうな響きだった。
俺はしっかりと頷く。
「ああ。食料だ」
『それは……世界ではないのか?』
「違う」
『生き物でも、ないのか?』
「違う。生きるために必要な栄養を、美味しく加工したもののことだ」
世界喰らいは黙り込んだ。
本当に、その存在を知らないようだった。
その様子を、監視者が極めて興味深そうに観察していた。
「なるほど……。そういうことか」
何かを察したらしい監視者に、俺は尋ねる。「何が分かったんだ?」
「世界喰らいは、その誕生から今まで『世界』しか食べたことがないのだ」
その言葉に、全員が再び固まる。
異界少女が恐る恐る聞き返した。
「え……? それってどういう……」
監視者は静かに頷いた。
「文字通りの意味だ。奴は、純粋な意味での『食事』というものを、一度もしたことがない。ただ飢えを満たすために世界の質量とエネルギーを貪ってきただけだ」
静寂。
王女が引きつった顔で呟く。
「つまり……あの恐ろしい怪物は……」
「食べ方を、知らない?」
監視者が肯定の意を示すように目を閉じた。
その瞬間、コントロールルームの全員の視線が、モニターに映る世界喰らいへと集中した。
数多の世界を滅ぼし、今まさにこの世界を侵食し尽くそうとしていた絶対の怪物。
その正体が、今や「ご飯の食べ方を知らない迷子」みたいに見えて仕方がなかった。
すると、世界喰らいがどこかバツが悪そうに、不満げな精神波を飛ばしてきた。
『……私は、迷子ではない』
(心を読むなよ)
異界少女が目を丸くして驚く。
「え、心読まれてます!?」
いや、たぶんこっちの表情で筒抜けだったんだろう。
分かりやすい奴め。
----
その頃、戦場では依然として、新しく配備された創造主軍と黒い侵食体たちの戦いが続いていた。
だが、世界喰らいの本体は完全に動きを止めている。
今こそ、交渉の時間だ。
俺は手元の端末で収納世界の在庫を急速スキャンし、管理者権限の転送プロトコルを起動した。
「よし、一番でかいやつを持ってこい!」
北部荒野の遥か上空、二代目砦喰らいの頭上の空がガバッと大きく開く。
その瞬間。
――ドゴォォォォォォォン!!!
地響きを立てて、荒野のど真ん中に「それ」が出現した。
それは、遠目から見てもはっきりと分かる、山脈サイズの超巨大な『木製弁当箱』だった。
王女が呆然と固まる。
「べ、弁当……?」
セレフィナも同じく固まる。
「巨大すぎませんか……? 嫌がらせのレベルですわ」
俺もそう思う。
だが、相手は星をも呑む世界喰らいだ。
これでもミニサイズなくらいだろう。
パカッ――と、巨大な蓋が遠隔操作で開く。
中にぎっしりと詰められていたのは、
特大の干し肉、数万トン。
焼きたての巨大パン、一山分。
山盛りの新鮮な果物と、大樽に入った温かいスープに、採れたての野菜。
そしてその中心には、収納世界で今大人気の「王都名物特製カツサンド」が、これでもかと敷き詰められていた。
かつて巨人レクトが俺におすすめしてきた、最高の一品だ。
世界喰らいが、その山脈弁当を見つめる。
じっと。
ひたすら、穴が開くほど見つめる。
やがて、おずおずと、本当に恐る恐るという様子で、次元の裂け目から漆黒の巨大な指が伸びた。
世界を握り潰してきたその爪が、丁寧にパンを一つ、つまみ上げる。
そして――口へと運んだ。
静寂。
戦場の兵士たちも、俺たちも、固唾を呑んでその一連の動作を見守る。
数秒後。
世界喰らいの動きがピタリと止まった。
『……』
何の反応もない。口に合わなかったか、あるいは失敗だったか。
誰もが最悪の結末を覚悟した、その瞬間だった。
『……あまい』
震えるような声が、世界に響いた。
王女が目を見開く。
異界少女も驚きに口を手で覆った。
世界喰らいは、堰を切ったように次の一口を運んだ。
パンを食い、干し肉を齧り、果物を口に放り込む。
生まれて初めて味わう「味覚」という衝撃に翻弄されながら、猛烈な勢いで弁当を平らげていく。
そして、世界喰らいの虚無だった瞳に、初めて微かな光が灯り、その巨大な顔が、どこか穏やかに和らいだ。
『……美味い(・・・)』
その瞬間、収納世界の全域が、今度こそ完全に静まり返った。
かつて宇宙の誰も見たことがない。
あの冷酷無比な世界喰らいが、満ち足りたように笑う姿など。
怪物はぽつりと、どこか寂しそうな声で呟いた。
『私は……ずっと、腹が減っていた。何を食べても、満たされなかった。だが、これは……中が、あたたかい』
静寂。
誰も何も言えなかった。
数万年の間、死んだ灰の世界で飢え続け、ただ世界の質量を貪るしかなかった孤独な怪物は、今、初めて「世界を滅ぼす以外の方法」で、その永遠の空腹を満たしたのだ。
その瞬間だった。
戦場を埋め尽くしていた、黒い侵食体たちの動きが完全にピタリと止まった。
立体地図に表示されていた赤い光点が、すべて、一斉に停止する。
異界少女が計器を見て悲鳴を上げた。
「え、世界侵攻率、一気にゼロに低下!? 敵軍の機能が完全に停止しました!」
監視者も驚きを隠せないように目を細める。
「……なるほど。世界喰らい本人の満腹感と幸福感が、その端末である侵食軍全体へとフィードバックされたか。支配の命令そのものが揺らいでいる」
飯の力、恐るべしである。
やがて、山脈弁当を綺麗に完食した世界喰らいは、じっとこちら――コントロールルームの俺の姿を見つめてきた。
『――管理者レクト』
「……なんだ?」
俺が恐る恐る答えると、世界を滅ぼす最強の神格は、どこか期待に満ちた目で、地響きのような声を出した。
『――おかわりは、あるか?』
ズコーーーッ!!!
コントロールルームの全員が、絵に描いたように一斉にずっこけた。
世界喰らいの絶対的な威厳は、特製カツサンドの美味さの前に、完全にログアウトしてしまったらしかった。




