第五十五話 世界喰らいの記憶
『面白い』
世界喰らいが、再びそう紡いだ。
次元の裂け目の奥底に鎮座する、星をも呑み干す虚無のような一対の巨大な瞳。
その底知れない視線が、今や明確に俺という存在だけに固定されている。
その異常な変化に、背後に立つ監視者が僅かに眉をひそめた。
「珍しいな……」
「何がだ?」
俺が尋ねると、監視者は画面から目を離さずに応じる。
「あの神格が、個に興味を持った。私の知る観測記録にはない事例だ」
その言葉の響きに、異界少女がサッと顔を青ざめさせた。
「そ、それって良いことなんですか!? ラスボスにロックオンされてるってことじゃ……!」
監視者は少しだけ考え、そして短く答えた。
「分からん」
「全然安心できない!」
異界少女の悲鳴がコントロールルームに木霊する。
その時、世界喰らいが再びその重苦しい口を開いた。
『――管理者レクト』
完全に俺を呼んでいる。
『お前は、奇妙だ。変だ。理解が及ばない』
心外だな。
俺はただ、前任者のとんでもない遺産(物流怪獣)を片付けて、真面目に防衛業務(仕事)をこなしているだけだ。
だが、世界喰らいは感情の読めない精神波をこちらへ送り続ける。
『世界は、食料。満たされぬ我が身を潤すための、ただの糧。それがこの宇宙の当然の摂理だ。なぜ、そこまでして守る。なぜ、抗う』
またその話か、と俺は思った。
だが、今回は先ほどまでの嘲笑とは違った。
どこか本気で、純粋に問いかけてきている。
これまで幾千、幾万の世界を滅ぼしてきた絶対の捕食者にとって、「餌が牙を剥く」のではなく「運び屋が物量で兵站を構築して立ち塞がる」という状況が、本当に、どうしても理解できないらしい。
俺がどう答えるべきか一瞬迷った、その時だった。
隣にいた監視者が、静かに呟いた。
「……ならば、見せるか」
「え?」
俺が振り返った瞬間、コントロールルームの空間そのものが、波紋のように大きく揺らいだ。
その変化に、世界喰らいの巨大な目が初めて明確に拒絶の色を帯びて激しく動く。
『――やめろ』
初めてだった。
世界喰らいの底冷えする声に、微かな「焦り」が混じったのは。
しかし、監視者は構わずにその細い手をスッと横に振った。
すると、メインモニターの中央に、これまで見たこともない巨大なノイズ混じりの映像が強制展開される。
そこに映し出された光景に、全員が息を呑んだ。
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そこに映っていたのは、一つの「世界」だった。
だが――完全に死に絶えている。
空はどんよりとした灰色に淀み、海は完全に干上がって塩の砂漠と化し、大地は生気を失ってバラバラに砕け散っている。
草木の一本も、虫の一匹もいない。
生命の気配が塵一つとして存在しない、完全なる滅びの光景。
異界少女が身体を小刻みに震わせながら、掠れた声を漏らす。
「これ……って……」
監視者が淡々と、冷酷な事実を告げた。
「世界喰らい。――奴の生まれた故郷の、なれの果てだ」
静寂が部屋を支配する。
王女もその凄惨な光景に言葉を失って固まり、セレフィナもただ無言で画面を凝視していた。
強制再生される古い記憶の映像。
その荒涼たる死の世界の中心に、ぽつんと「一匹の小さな生物」がいた。
ドロドロとした黒い泥のような身体。
今の世界喰らいの歪な姿に、どこかよく似ている。
だが、サイズは今とは比べものにならないほど、ずっと、ずっと小さかった。
人間の子供ほどしかない。
『やめろ……消せ』
世界喰らいが低く唸る。しかし、監視者は完全に無視した。
映像は続く。
その世界は、とうに死んでいた。
だから、食料がない。
貪るべき生命の輝きがない。
それどころか、自分以外の仲間さえ、もうどこにもいない。
その真っ黒で小さな生物は、冷たい灰の降る荒野を、ただひたすらに彷徨っていた。
何百年も。
何千年も。
ただ、飢えだけを抱えて。
そして――生物はついに、世界の壁に開いた小さな穴から「別の世界」を見つけた。
そこは、瑞々しい生命に満ち溢れた美しい世界だった。
青い空。
緑の木々。
豊かな海。
そして、笑い合う人々。
だが、その小さな生物は、あまりにも長く飢えすぎたがゆえに――「食べる」以外の方法を知らなかった。
だから、喰らった。
目の前にある輝きを、その世界のすべてを、ただ飢えを満たすためだけに貪り尽くした。
――映像が暗転し、室内に静寂が戻る。
次元の裂け目の奥で、世界喰らいはもう何も言わなかった。
監視者が静かに言葉を継ぐ。
「それが、すべての始まりだ」
俺は黙って、その一連の記録を見ていた。
その後も、奴は飢えに急かされるように、次から次へと世界を渡り歩いたのだ。
飢えていた。
常に。
永遠に。
だから食べた。
それ以外の生き方を知らなかったから。
食べることでしか、己の存在を維持できなかったから。
そして気づけば、数多の世界の怨念をその身に宿し、今のような巨大なバケモノになっていた。
重苦しい沈黙の中、世界喰らいが地を這うような低い声で、ぽつりと言った。
『……生きる、ためだ』
誰も、その言葉に反論できなかった。
確かにそうだ。
生きるために貪る。
それは生物の、極めて原始的で絶対的な正義だ。
誰もそれを責めることはできない。
だが、俺は顎に手を当てて、少しだけ考えて。
そして、あまりにもいつも通りのトーンで、画面の向こうの怪物に尋ねた。
「なあ。お前、そんなに腹が減ってるのか?」
部屋の空気が一瞬で凍りついた。
王女が信じられないものを見るように、そっと両手で顔を覆った。
セレフィナは諦めたように天を仰ぎ、異界少女は「もうツッコミを入れる体力もありません」という顔で虚空を見つめている。
ただ一人、監視者だけがクスリと少しだけ笑った。
だが、驚いたことに、世界喰らいは真っ直ぐに俺を見つめ返したまま、じきに応えた。
『――減っている。耐え難いほどに、常に飢えている』
即答だった。
どうやら、本当に、めちゃくちゃにお腹が減っていたらしい。
何万年も世界を喰らい続けてもなお、その根本的な飢餓感は癒えていなかったのだ。
俺はフゥ、と一つ大きなため息を吐き出す。
そして、手元の端末を操作し、この収納世界に蓄積された「全倉庫の在庫一覧」を盛大に空中へと展開した。
防衛用保存食、三億食。
最高級の干し肉、一億二千万本。
巨大サイロに眠る小麦、山ほど。
その他、ありとあらゆる食材。
未だかつてない超巨万の物資リストがホログラムで明滅するのを、世界喰らいは戸惑ったように首を傾げて見つめた。
『……何をしている、管理者』
俺は笑って、端末をポンと叩いた。
「お前さ。――飯、食っていくか?」
完全なる静寂。
コントロールルームの全員が固まり、次元の奥底の超巨大な世界喰らいまでもが、完全に動きを止めて固まった。
どうやら、この戦場の誰一人として――そして宇宙のどんな存在すら、運び屋(管理者)が放ったその最悪で最高な「交渉」を、全く予想していなかったらしかった。




