第78話「I'VE SEEN」
――グワン。
脳の奥底が揺れた。
そこにある何か大事な線がプツンと切れてゆく音が聞こえる。
だが世界の音が聞こえない。
屋上を吹き抜ける風の音も、眼下のストリートの喧騒も、己の心臓の鼓動すら。
絶対的な無音が、コンマ数秒だけ俺を包み込んだ。
……何も、起きない、のか?
その矢先、身体が平衡感覚を失い崩れる。
遅れてやってきたのは、記憶の雪崩だった。
あの血なまぐさい部屋の腐臭。
物言わぬ数人の部下の血の海に沈むジュニア。
漸くの和解の末、涙のまま撃ち抜かれたアートの顔、無機質な瞳。
姉さんの死を報らされた瞬間の頭の芯が真っ白になる感覚。
脳にあったそういった記憶の輪郭が、次々と鮮明に浮き出てくる。
無意識という無慈悲な暴力が、次々と脳髄を内側から殴りつけてきた。
俺はうずくまると共に胃液を出した。
「あっガッ、うがっ……あぁ!」
呼吸が出来ない。
口をひたすら開けるだけで精一杯だ。
終わる直前の魚のように。
何も飲み込めない。
何も吸えない。
頭に鈍痛が響く。
だがそれ以上に、心が押し潰され、内臓が裏返りそうだった。
裸の心を掴まれ、握り潰され、そのまま捩られたかのような痛み。
胃から何を出しても、それが取り除かれない。
涙が止まらない。
「ゔぉぇ、ぐぅっ」
声にもならない音が、口から次々と出る。
喉を焼く胃液の酸味がこれでもかと押し寄せる。
嘔吐、嘔吐、嘔吐に続く嘔吐。
そこにはブワッと吹き出した大量の汗と涙がぐちゃぐちゃに混じりあっていた。
「……誰、か。助…けて」
今まで処理しきれずに捨ててきた己の本心。
それが全て押し寄せてきている。
いや、それは端からそこにあったんだ。
感情制御装置という装飾された蓋をしていただけ。
記憶自体はずっと持っていた。いつだって俺と一緒だった。
でも、感情は誤魔化していた。
抱くべきだった“喪失”、想うべきだった“痛み”、叫ぶべきだった“悲哀”。
既に処理済みだと思い込み、根本解決していなかった自分の感情に、殺される。
殺される。
殺されてしまう。
「ぁぁ、ぐっがっ、あぁあぁ……!」
何度吐いても止まらない。
もう吐くものもないのに。
汗と涙も留まることを知らない。
ゆっくりと、ナメクジのように惨めにのたうち回るしかない。
ただ苦痛を逃がそうと身体をよじるのが精一杯だ。
何度もコンクリートに腕や頭を叩きつける。
だがその外傷は何一つ解決をしない。
痛みで誤魔化そうとも、心の奥から、脳髄から、感情のゴミが濁流のように溢れて止まらない。
「ギィッ、ガァァ……!」
額からも腕からも血が滴る。
食いしばる歯が、欠けそうになる。
何をしようとも緩まらず、それどころか徐々に溢れる量が増えている気がする。
とにかく外傷を増やして、他の痛みへ気を逸らすしかない。
胸の奥の黒いアラートが全く鳴り止まない。
視界には赤いエラーが無数に映るが、一つだって読める文字は無い。
今すぐにでも、これを終わらせたいのに。
止めるには、このままただ身体をよじり、外傷を増やし、吐き続けるしかない。
そうでなければこのまま心臓をくり抜いてもらうか。
……チクショウ。
耐えられる気がしねぇ。
殺してくれ。
……殺してくれ。頼む。
こんな感情を抱えたまま、どうして復讐を果たせるんだ。
姉さんの死すら克服できないのに、なんでアートとジュニアの仇討ちが出来るんだ。
アートとジュニアで精一杯なのに、なんで姉さんの思い出を抱え込まなきゃならないんだ。
頼む……。
俺の中のこの黒い渦ごと、終わらせてくれ。
頼むよ……。
誰か。
殺してくれ、頼む。
――。
胸元で何かが揺れた。
……ッ!
伝わってくる冷たさと熱。
――いや、ハハッ。
そうだ。
そうだよな、アート。
クソッ。
クソがよ。
「笑わ……せんなよ」
テメェのせいで、どれほどの人間が巻き込まれたと思ってんだ。
……立てよクソ野郎。
……死ぬくらいなら役に立ってから死んでみせろ。
こんなクソみたいな場所で、死ぬ理由だけつけて、吐くだけ吐いて、気持ちよくなってから死のうとしてんじゃねぇ。
……殺すべきは自分じゃない。
エドワードだ。
……クソが。
……クソが!
あぁ、終わらせてやるよ。
何もかも。
黒い太陽も、グレイスも。
全部終わらせてやる。
この連鎖を断ち切ってやるよ!
……だから、立て。
立てよ、ユウト。
身をよじり、壁に顔と半身を預け、何とか中腰程度に持ってゆく。
「はぁ、はぁ。があぁ!」
まだ口から胃液の出ている状態で、必死に身体を合わせて立ち上がる。
立てれば結構。
その他はどうだっていい。
なんとか立ち上がったと同時に、揺れながら手すり壁にもたれかかる。
……っし、何とか立ってやったぜ。
これで、あとはどうにでもなるはずだ。
……あぁ。
まだ胸の重りが消えない。
……恐らくずっとこのままだ。
……チクショウが。
なんだって、こんな。
あぁ。
俺は再び、夜空を眺めた。
この行為だって、何も解決はしてくれなかった。
だけど星を見た。
いつものように。
そして、それに拳を突き立てた。
信念を持って、弱々しく。
深呼吸をし、呼吸を整える。
……まだ、何とかやっていけそうな気がしてきた。
俺はまだやれる。
やれる。
やるしかない。
ジュニアの顔が、アートの顔が、姉さんの顔が、頭の中のそこらじゅうにこびりついて離れない。
だが、これを背負うしかない。
片時も忘れるべきじゃない。
それが自分への枷、罰。
うぐっ。
「ごえっ」
立っても吐いた。
咄嗟に後ろを向いた。
……。
「ペッ」
ゆすぐように唾を吐く。
口元を拭う。
これで終わりだ。
もう進もう。
前を見なくたっていい。進もう。
やるしかないんだ、やるしか。
――そう。やるしかない。
頭の中で決意が響く。
意識が朦朧とする中、どうにか俺は階段に向かう。
手すりに寄りかかり、目的の階を目指す。
あまりはっきりと意識は無い。
だが意識をせずとも分かる。
ここが、3階だ。
俺は未だ家賃を払い続けている部屋に向かう。
思い出の場所。
家族との、仲間との。
部屋の前に立つ。
前よりも重そうになった扉。
途切れ途切れの呼吸で、ドアノブに手をかける。
捻って、開けようとして、手が止まった。
今、ここに入ることが正解なのか。
この部屋に入った後、俺は、復讐鬼でいられるか。
心が弱りはしないか。
間違いではないだろうか。
……いや、そんなことはない。
いつだって逃げるよりは立ち向かった方がいい。
……んな事もねぇか。
どうでもいい。やるしかねぇって決めたばかりだ。
ゆっくり開けた決意の扉。
見えたのはいつもの光景だった。
小さく息を吐く。
周りを見渡し、自室に入る。
いつの日か隠した、SHINERからパクった高純度のアルコール。
そして、タバコをやめた時に机にしまったライター。
これを手に持てば。
……やることは一つだ。
俺はリビングの真ん中に向かう。
全ての人間との思い出がここにある。
そして、最後に帰る場所はここしかない。
俺は密造酒の蓋を開け、数秒ラッパ飲みをする。
「ぷはっ」
強い酒だ。
これなら問題ないだろ。
酒を下に向け、左手に力を込める。
ズキリと、かつて己で撃ち抜いた“仲間の証”が痛みを訴えた。
呼応するように瓶にヒビが入り、たちまちそれは割れた。
傷口が軋む。
……。
濡れた床を眺める。
そして、焼き付けるようにリビングを見渡す。
泣いた日も笑い転げた日も座っていたソファ、くだらない事で喧嘩した玄関、帰ってきた姉さんがそのままよく寝ていたコタツ。
どれもが今も鮮明に目の前で再現出来る思い出だ。
……よし。
一通り満足し、火をつけたライターを投げる。
青白い閃光。
ごうっという音で燃え上がり、たちまち手のつけられない大きさになった。
「……じゃあな」
ずっと過ごしてきた家に別れを告げて、俺は外へ向かう。
外に出たあと、直ぐに目を瞑りこの建物のセキュリティシステムをハックする。
全てをダウンさせた後、階段をゆっくりと降りてゆく。
この建物は無人だ。
なんせ面倒に時間をかけて全ての部屋を借りた。
もちろん名義は色んなやつのを使っちゃいるけど。
あの腕を吹き飛ばした奴のIDもその一つのはずだ。
俺はさっき出てきた路地裏の影で座り込む。
そこでただひたすらに、自分の家を見ていた。
……。
やがてオレンジ色の揺らめきが大きくなり、それは手のつけられぬ大きさにまで膨れ上がった。
ネオンよりも星よりも一段と明るく光る、進化の礎がそこにはあった。
眼には赤く、橙に染まったエネルギーが映る。
読むつもりも無いエラーの赤い電子文字が、赤い化学反応で塗り変わってゆく。
その煌めく炎が瞳に焼き付く。
大切な思い出の場所が焼かれ、今浮かぶのは感じたことの無い感情。
これは。この感情は……。
――あぁ、そうか。
分かったぞ。姉さん。シルヴィオ。
「これが、知りたかったんだ。この、気持ちを」
あぁ、そうだ。
分かったよ。
姉さんとシルヴィオが守りたかったもの、守れなかったもの。
変わりたかったもの、変われなかったもの。
その全ての気持ちが、今、ここにある。
やっと、それが分かった気がする。
燃え盛る炎が、絶え間なく顔を照らし出す。
警告文字は既に消えていた。
俺の口角は自然と吊り上がる。
あぁ、最高に笑える喜劇だぜ。エドワード。
俺が、お前のシナリオを全部ぶち壊してやる。
もう。夜空を見上げることもない。
俺は、自由だ。




