第79話「善意」
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ビルの夢は、裏世界のトップに立って、自分と同じ境遇の孤児達を無くすこと。
マイケルの夢は、この世に正義を敷くこと。
ハンナの夢は、幸せな家庭を築くこと。
エミリーの夢は、……もう焼いちまった。
あいつと一緒に。
俺?
俺か。
俺の夢は――。
……あぁ、ごめん姉さん。
やっぱり自分のためには生きられないや。
***
――地獄への道は善意で舗装されている。
誰の言葉かは知らない。
ただ一つ分かることは、この世界に救いなんてないってこと。
すくわれるのはいつだって足元だけだ。
ほら、見てみろ。
カリフォルニアの海を。
荒々しい波に打ち寄せられて、何が近付いてきてる?
ゴミと魚?
あるいはアルカトラズの亡霊?
それとも死?
……人は、楽をしたくなる生き物だ。
確かに、楽しいならそれが一番に決まっている。
だが、周りはどうだ?
好きなコンテンツやアーティストは経済のための食い物にされ、それそのものを愛によって継続させるものは今や何処にもいない。
どこかでパッケージングされ、またどこかで棄てられる。
人の欲望に数えられるものはそれ自体が金額でしかない。
金を払う人間だってそうだ。
“好きだ”、“応援したい”という気持ちがいつの間にか“どれだけ金を出したか”の優劣をつけるようになってしまう。
競争の中でしか欲を満たせない。
俺らはそう釘付けになるように世界に仕向けられている。
まるで社会の辛い波から逃れるように。
もっと大事な何かを、永遠に気付かせないかのように。
グッドマンにいた頃、タイピンの柄や位置でクラス分けがされていた。
対外的にはただのオシャレの一部だとして説明されていただけだった。
外にはわざとそれを見せることで、怪しさ、不透明さを消すことを担保している。
人は疑問を持ち、それに理由を与えられるとそれが嘘でも満足する。
人を進化させてきた探究心と好奇心というものは、こうしていとも簡単に操られる。
……それでも操られない人間だって存在するだろって?
あぁ、確かにそうだな。
そいつらは皆どうなった?
危険も顧みずに、ぐっすりとおやすみ中だ。地面の中で、今も永遠に。
そうさ。それが少数ならその不穏分子を見つけて消した方がコスパがいい。
そんな世界でも、波に抗い、必死に生きて、それでも駄目で、逃げた先は大量消費社会。
当然お前もその一部だ。
そこで逃げなかった奴らは今だって中心街の高層ビルから俺らを見下ろしている。
偉そうに凛として。
だけどそいつらでさえ、いつの間にか自身も消費されて呆気なくはいサヨナラって訳だ。
結局ドツボにハマり、自分が今何処にいるかも分からず、たまに現在位置が分かる情報が入ってくればすぐにそれを無いものと遮断する。
自身の都合のいい情報を集めて、それが事実だと嘯き、やがてそれは真実となる。
こうして地獄への道は、誰かの善意で舗装されることになる。
だから最も険しい道のりこそが幸福への第一歩なんだ。
それをアートはやり遂げた。
……やり遂げたさ。
彼は立派に使命を遂げるための最善を尽くした。
その行動自体は善意の舗装であったとしても、彼は独りで社会の荒波を耐えきった。
死はそれそのものが負けじゃない。
ソクラテスだってそう思ってただろ。
彼は己の信念を正しいと思って疑わず、それは命が尽きようと尽きまいと法則は乱れないと信じた。
理性とは命に縛られるものではなく、ただ内なる信念で存在できるものなのだと。
それは己が身が滅びようとも何も変わらない普遍的なものだと考えていた。
だから彼の強靭な精神は毒杯を呷ることを善しとした。
アートは何も自らの引導を手ずから渡したわけじゃない。
でもそれは同じ事だ。
彼は彼として彼の信念を通した。
弛まぬ信念を通して死んだ。
いつかきっと、いつかきっと、自分は地獄にいくと知りながら。
だったら……。
兄弟として俺がやることは、ひとつしかない。
……。
――それにしたって、いい気分だ。
自分の感情に嘘がない。
快も不快も全てダイレクトに届く。
誰かの死に優劣をつけ、本物の心を隠すあんなふざけた機能は必要無かった。
悲しみや苦しみから逃れるなんて、馬鹿げた行為だった。
こめかみのポートに指を掛け、忌まわしい感情制御のチップを引き抜くと、それを二つに折る。
外部の装置で抑え込むことしか出来ない自分への弱さとはもうおさらばだ。
でかい窓で陽の光を浴びながら階下を見下ろす。
上裸でコーヒーを飲みながら、朝からいい気分だった。
頭の中で長々と思考が巡るくらいには、調子の良い朝だ。
久しぶりに光が好きだと思った。
数時間しか寝てないのに、こんなにも爽やかだ。
確かに心につっかえたものは今も取れない。
だが、この装置を付け、そして外した奴にしか分からない。
心がくすんでいることがどれほど美しいのかを。
漂白剤で上塗りしていく事がどれほど元の素材を壊すのかを。
尤も。一番嬉しいのは、もうこれでグレイスが俺を捉えることが無くなったってことだ。
2つに折れたチップを指でいじりながら、コーヒーを傾ける。
目を閉じて陽の光を浴びていると、足音が後ろから聞こえた。俺は振り返る。
「おはよう」
「……おはようございます。ユウト」
2人きりなのに名前呼びね。
一度男に生まれて、嫁を持ったことがあるのなら、この恐怖は伝わってるだろうな。
まぁ。
……そりゃこっちは不機嫌に決まってる。
「……悪かったよ」
「別に。気にしてませんわ」
ハンナはそっぽを向く。
「ずっと一緒にいるって言ったのに夜中に抜け出す男のことなんて、別に!全ッ然、気にしてませんから!」
「……」
わぁお。
思ったより根に持たれてるみたいだ。
こりゃ今日は外に出られないかな。
出るつもりも元々無いが。
俺は手を差し出しソファへ促す。
ハンナは腕を組み、そっぽを向きながらソファへ座った。
意外と素直だ。
こうして言うことを聞いてくれるなら怒りのレベルとしては大した事ない。
「ハニー。ごめんって、もうしないよ」
「あら、何度もしないって言ってくれてありがとうございます。そうね、得意ですものね。こんなに“何度も”しないって約束してくれるんですから。さぞ、約束を守るのが得意なんでしょうね!」
眉を上げ、黙って下唇を噛むことしか出来ない。
「……いや、今回は本当に。もうしないからさ」
「それだって何度も聞きました!」
全くその通り。
どうしようかな。
「……すんっ」
……あぁ、まずい。
ハンナは鼻を啜り、目に涙を浮かべた。
「……本当にもう、しないよ。その、代わりと言っちゃなんだけど、俺、決めたからさ」
「……何を」
ハンナは見向きもせず、口を尖らせて聞いた。
ほんの少し、彼女が怒っているのが可愛いからわざと怒らせたいって気持ちがあるのはここだけの秘密。
「作戦会議、加わるよ。俺」
「……ッ!ほ、本当に?」
ハンナは少し充血した眼をこちらに向ける。
少し、いびつな笑顔で。窺うように。
「あぁ、これは嘘じゃない。お腹の子に誓うよ」
「あなたっ!」
大きく手を広げ、そのまま勢いよく抱きつかれた。
「わっ、ちょっと!コーヒーがっ!」
俺は急いで揺れたコーヒーと、割れたチップをローテーブルに置く。
そして彼女の頭を撫でた。
「本当に?……本当に本当になのねっ?」
「あぁ。大マジだよ」
「……全く!どういう風の吹き回しよ!」
……本当は、どういう風の吹き回しも無い。
そもそもがでたらめなんだ。
一年前のあの日から、ずっと。
俺は、嘘をついていた。
そして今、反撃の準備が整った。
それだけ。
「……昨日の夜中、SHINERに行った」
「え?」
ハンナは俺の胸元から顔を見上げる。
「その時に、聞いたんだ。俺と姉さんは本当の姉弟じゃなかった、って」
「……っ!」
ハンナは目を見開く。
手の力が抜けてくのが分かる。
「ご、ごめん、なさい。私――」
俺から体を離し、俯くハンナ。
何を謝ることがあろうか。
俺がこれからすることは全てが謝罪に値するというのに。
「それなら俺にも出来るかなって思ってさ」
「……な、何を?」
彼女の怪訝そうな顔。
不安なのが伝わってくる。
「……仲間たちを助けること。姉さんみたいに。たとえ血が繋がってなくても」
「……ダーリン!」
ハンナが再び抱きついてくる。
「だから、俺も全力で協力するよ。君のお父さんを倒そう。皆で」
「えぇ!……えぇ!」
顔を見ることは叶わないが、涙声で、笑顔で答えているのが容易に分かった。
彼女に安心を与えることは出来たみたいだ。
しばらくその状態で居ると、少し下に視線を向けたハンナが声を出す。
「ねぇ、あなた?」
「ん、なんだ?」
俺は覗き込むように彼女を見る。
「さっき手から離したアレは何?」
ローテーブルの上を指さしながら、彼女はこちらを上目遣う。
「……ただのゴミだよ」
「……ふぅん、そう」
少し詰まった答えに、彼女は疑問を持たなかった。
……いや、少なくとも深追いはしなかった。
揺れたのは俺の心だった。




