エピソード2-4
丸太の束は、下まで届かなかった。
倒れかけた木材は、宙のなかばで、見えないなにかに乗り上げて止まった。金色の光がその縁をひとすじ走り、束はゆっくりと横へ滑って、誰もいない砂の上へ、大きな音を立てて落ちた。
男たちが呆然と空を見上げている間に、砂煙のなかを、二色の毛並みが駆け抜けた。
倒れた娘のそばで、猫は人の形に戻った。誰の目にも映らぬよう、自分と娘ごと、乳白色の結界で包んでから。
ブレイジールは、小さな身体を抱き上げた。
軽い。恐ろしく軽い。この身体で、あの大男の傷を、丸ごと引き受けたのか。
(買い物もまともにできねえくせに)
市場でのことを思い出す。小魚ひと束に金貨を差し出して、屋台の親父にお金の使い方を教わっていた娘。菓子屋の前では、真剣な顔で蜂蜜菓子を選んでいた娘。
その同じ娘が、赤の他人の傷の前では、一瞬も迷わなかった。自分がどうなるか、承知の上で。
千二百年、人間を眺めて生きてきた。賢いものも、勇ましいものも、欲深いものも、たいていの奴を見た。飽きるほど見てきた。
人界は美しいものばかりではなかった。汚いものも、醜いものも、たくさん見た。
(こういうのは、初めてでさ)
腕のなかの娘の魂は、見たことのない色で澄んでいた。不思議とそれが、魔族であるブレイジールの心を引きつけた。美しいと思った。
騒ぎの街路を、誰にも見られないまま歩く。ふ、と笑いが漏れた。生きることに疲れ果て、死に場所を探すような気分でいたはずの足が、宿への道を、弾むような軽さで踏みしめていた。
◆
まぶたの裏が、明るい。
目を開けると、見覚えのある宿の天井があった。……身体が、妙に重い。正確には、腹の上だけが重い。
視線を下げると、腹の上で、二色の金の毛玉が丸くなって寝ていた。
「……どいて」
「にゃ」
猫は迷惑そうに顔を上げ、ぴょんと床へ降りた。
降りた、はずだった。
着地の音は、しなかった。代わりに、窓辺の椅子に、長い足を組んだ青年が座っていた。絹糸のような金の髪。こちらを見つめる、金色の目。
「お目覚めで。丸三日、よくお眠りなすった」
「…………は?」
レギウスは寝台の上で三度まばたきをして、青年と、床と、閉まったままの窓を順番に見た。
「え、待って。猫は? いまの猫、どこ行ったの」
「あっしでやすよ」
青年は胸に手を当て、芝居がかったお辞儀をしてみせた。
「ブレイジールと申しやす。ごらんのとおりの、魔族でございやして。……路地で行き倒れていたところを、お嬢さんに拾っていただきやした。生命の恩人に、ご挨拶が遅れて申し訳ありやせん」
(さっきの猫が魔族……?)
起きたばかりの頭で、理解が追いつかなかった。
「……魔族って猫にもなれるの? 犬にもなれる?」
「へえ、あっしは猫だけでさ」
「神聖術が効かなかったから、魔獣かなとは思ってたけど、魔族だったなんて……」
レギウスは、子供のころに聞かされた話を思い出し、整った顔立ちの魔族の青年をにらみつけた。
「おまえ、僕のことを食べない? 魔族は人を食べるんでしょ?」
「お嬢さんが生命の恩人じゃなかったとしても、人間は食べやせん。ついでに言うとミルクも生の魚も、どうにも苦手でやして」
(変な魔族……食べる気だったら、寝てる間に食べてるか)
「そうだ、親方は!? 現場の、胸に板が刺さってた……」
「けろりとしてまさあ。なんでも今朝はもう、若い衆を怒鳴りながら、足場を組み直してるそうで」
「……そっか」
力が抜けて、上体がそのまま寝台へ落ちた。
(よかった。間に合ったんだ)
ブレイジールは窓の外へ目をやったまま、落ち着いた声で言った。
「……ひとつ、伺っても」
「なに?」
「あの連中は、お嬢さんの名前も知りやせんぜ。行きずりの、赤の他人だ。自分が三日も転がると承知のうえで、どうしてあそこまでなさるんで」
レギウスは、天井を見たまま、すこし考えた。
考えて、それしか出てこないので、そのまま答えた。
「助けられる生命が、目の前にあったから」
「それだけで?」
「それだけって、一番大事なことでしょ」
返事は、すぐには来なかった。
ややあって、「……そうですかい」と、それだけが聞こえた。
そのとき、階段の下が、にわかに騒がしくなった。
どやどやと足音が上がってきて、遠慮がちに扉が叩かれる。宿の女将の声がした。
「坊ちゃん、起きなすったかね。その……お客ですよ。それもえらく、おおぜいの」
扉が開くと、廊下いっぱいに人が詰まっていた。先頭は、見覚えのある大柄な男。あの親方だ。包帯のひとつも巻いていない。
「いた! この人だ!」
「親方……よかった、元気になって」
「おうよ、生きてるとも! あんたのおかげでな!」
親方の後ろから、職人たちと、その女房や子供らが、われ先にと顔を出す。菓子の包み、花束、酒瓶までが、次々と枕元へ積まれていく。
「宿の女将さんに聞いてなあ。猫連れの、金髪のちっこい術士さんといやあ、この宿の坊ちゃんしかいねえって」
「捜したんだぜ。あんときゃ、礼を言う前に、煙みてえに消えちまうんだもんなあ」
「生命の恩人に礼のひとつも言えねえんじゃ、末代までの恥だってんでよ」
口々に言われて、レギウスは寝台の上で小さくなった。
「あの、僕はただ、通りかかっただけなので……」
そのときだった。
親方の足元から、小さな女の子がひょこりと進み出て、レギウスの顔をじいっと見上げた。
「……とうちゃん。このおにいちゃん、おめめが赤いよ」
「勇者レギウス ~最弱勇者と最強従者~」2-4を読んでいただき、本当にありがとうございます!!
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※『記憶喪失勇者』のスピンオフです。本編未読でもお読みいただけます。
※ 本編の800年前の物語です。
※本編へのリンクはあとがきの下にあります!
挿絵をChatGPTに描いてもらいました!
※この小説は執筆に一部、AIを使用しています。
・自身で執筆した文章をAIに改変させているが、再度全て自分で編集・改稿
・自身で執筆した文章の誤字・脱字チェック




