6話 二度目の人生の居場所は
王宮の大広間は、すでに多くの人で埋め尽くされていた。
天井から下がる大きなシャンデリアが光を反射し、広間全体を明るく照らしている。奥では楽師たちが穏やかな前奏を奏で、着飾った貴族たちがあちこちで談笑していた。
今日は、同盟諸国友好法の制定を祝うための公式な式典だ。国内外から多くの貴族が招かれている。
そして今日、誰よりも注目を集めているのは、同盟国ラベンスカー公国の姫――ラヴェーナだった。
本来、この宴で舞を披露する予定だったのはリュネットだ。
王太子エリオスの婚約者として、そして未来の王太子妃として、同盟諸国の前に立つはずだった。
ーーけれど、その予定は直前になって変更された。
代わりに舞を披露することになったのが、ラヴェーナだったのだ。
当然、それを単なる「同盟国への配慮」と受け取る者は少ない。
「ラヴェーナ姫は、この国の王子に嫁がれるおつもりでは?」
「それなら第一王子のアステル殿下ではないか?」
「いや、強い同盟を結ぶなら王太子であるエリオス殿下の方が都合がいいだろう」
「だが、エリオス殿下にはリュネット様がいらっしゃるぞ」
あちらこちらから、そんな憶測が聞こえてくる。
まだ何も始まっていない。けれどリュネットだけは知っている。
今はただの噂にすぎない言葉が、やがて現実になっていくことを。
リュネットは、王太子の婚約者として用意された席に座っていた。
銀色の髪を丁寧にまとめ、淡い赤色のドレスを身にまとっている。
一度目の人生では、何度もこうしてエリオスの隣に座った。
それなのに今は、妙に落ち着かない。
(……なんだか、他人の席に座っているみたい)
少し前まで、この場所こそ自分の居場所なのだと信じていた。
けれど、一度すべてを失った今となっては、この席に座っていること自体に違和感があった。
「リュネット!」
背後から聞き覚えのある声が飛んできた。
振り返る前から、誰なのかはわかっている。
その声を聞いた瞬間、リュネットの背中にじわりと冷や汗がにじんだ。
燃えるような赤い髪。
太陽の紋章があしらわれた華やかな礼装。
この国の王太子、エリオスだった。
「今日も世界で一番きれいだよ、リュネット」
エリオスは嬉しそうに笑いながら、当然のようにリュネットのすぐそばまで近づいてくる。
「少し緊張しているのかい?」
そう言って、親しげに顔を覗き込んできた。
近い。
昔のリュネットなら、その距離だけで胸が高鳴っていたはずだった。
(……そうだった。この頃のエリオスは、こんなふうにいつも私のそばにいたのよね)
人前でも平気で手を取る。
目が合えば笑いかける。
毎日のように「きれいだ」「かわいい」と褒めてくる。
少しでも離れていれば、エリオスの方から近づいてきた。
一度目の人生では、そんな一つ一つが嬉しくて仕方がなかった。
自分はちゃんと愛されている。
ずっとこの人の隣にいられる。
そう信じていた。
けれど今は、何も感じない。
いや、何も感じないどころか、身体の方が先に拒んでいた。
処刑場、冷たい石床、怒鳴り声。
そして最後には、自分たちを見捨てたエリオスの姿。
目の前の少年と、あの時のエリオスが一瞬だけ重なる。
(……やっぱり、無理だわ)
リュネットは表情に出さないよう、静かに息を整えた。
今のエリオスは、まだ何もしていない。
まだラヴェーナにも出会っていないし、リュネットとの婚約も壊していない。
だから、一度目の人生でされたことをそのまま今の彼にぶつけるのは違う。
頭ではわかっている。
それでも、心まで昔と同じには戻れなかった。
「いいえ」
リュネットは穏やかに微笑んだ。
「今日は大切な歓迎会ですもの。無事に終わればいいと思っていただけですわ」
「……それだけ?」
エリオスは少しだけ目を丸くした。
「どうしたんだい? 今日はなんだか元気がない気がするけど」
「そうでしょうか?」
リュネットは首をかしげる。
「王太子妃候補として、求められる振る舞いをしているだけですわ」
「王太子妃候補って……」
エリオスは不満そうに眉を寄せた。
「君は僕の婚約者だろ?」
その言葉に、リュネットは一瞬だけ黙った。
一度目の人生なら、その一言だけで嬉しくなっていた。
――僕の婚約者。
それが自分にとって何より特別な言葉だった。
けれど今は、胸の奥が静かに冷えていくだけだった。
「ええ。今は、そうですわね」
「今は?」
エリオスが怪訝そうな顔をする。
「……なんでもありません」
リュネットが微笑むと、エリオスはますます不満そうになった。
「なんだよ。今日はせっかく一緒にいられるのに」
口を尖らせる様子は、王太子というより年相応の少年に見える。
けれど、すぐに気を取り直したのか、またいつもの笑顔に戻った。
「でも、本当に今日のリュネットはきれいだな。そのドレス、すごく似合ってる」
「ありがとうございます」
「やっぱり赤は君が一番似合うよ。あとで二人で踊ろうね。絶対だから」
そう言いながら、エリオスはごく自然にリュネットの手を取ろうとした。
その瞬間。
リュネットの身体が、ほんの少しだけ後ろへ下がった。
エリオスの手が空を切る。
「……リュネット?」
「あ……申し訳ありません。ドレスの裾を踏みそうになってしまって」
とっさにそう言うと、エリオスは少しだけ寂しそうな顔をした。
「そ、そうか」
それでも懲りずに、またすぐリュネットのそばへ寄ってくる。
(本当に、この頃は私にべったりだったのね)
記憶にはあったけれど、こうして改めて向き合うと想像以上だった。
今のエリオスの目は、間違いなくリュネットだけを見ている。
だからこそ、余計にわからない。
(これが、今日だけで変わるの……?)
ほんの数時間後。
ラヴェーナを見た瞬間に。
この人は、自分ではなく彼女を追いかけるようになる。
そう思うと、怒りより先に、ひどく虚しい気持ちが湧いてきた。
その時、ふと大広間の端が目に入った。
警備のために並んでいる騎士たちの中に、一人だけ妙に目を引く人物がいる。
淡い月色の金髪。
少し長い髪を後ろで束ね、まっすぐ背筋を伸ばして立っている。
整いすぎているほど整った顔立ちなのに、表情はほとんどない。
礼服ではなく騎士団の隊服を着ているというのに、なぜかそこだけ空気が違って見えた。
(……アステル殿下)
この国の第一王子、アステルだった。
一度目の人生では、ほとんど言葉を交わしたことがない。
それなのにリュネットは、彼の姿を見つけた瞬間、どうしても目が離せなくなった。
死ぬ直前、最後に自分を助けようとしてくれた人。
牢の中で、自分にマントをかけてくれた。
痛みを和らげてくれた。
とても苦しそうに、助けられないことを申し訳ないとまで言ってくれた。
(……アステル様の部隊は、頭脳部隊だからあまり表に出ないのに。
珍しく今日はいらっしゃっていたのね……)
なんとも不思議な気持ちだった。
向こうにとって、今のリュネットはほとんど会話もしたことのない相手。
けれどリュネットにとってアステルは、一度目の人生の最後に優しくしてくれた人だった。
アステルは王国の第一王子でありながら、王位継承順位は弟のエリオスより低い。
理由は、彼の母親が正妃ではないからだ。
それどころか、何人かいる側室のうち誰が母親なのかさえ、公にはされていない。
第一王子なのに王太子ではない。
その複雑な立場もあって、昔からアステルにはさまざまな噂がつきまとっていた。
冷血。
残酷。
妾の子。
敵に回した人間は、二度と表舞台には戻れない。
ーーそんな恐ろしい噂ばかりだ。
(でも……)
リュネットは、一度目の人生で見たアステルの顔を思い出す。
傷だらけの自分を見た時の、苦しそうな表情。
何度も「すまない」と謝った声。
そして、わずかに震えていた手。
(全然、噂と違ったのよね)
少なくとも、あの時のアステルは冷血な人には見えなかった。
むしろ、誰よりも優しい人に見えた。
(……よくわからない人)
それでも、なぜか気になる。
一度目の人生では、ほとんど接点すらなかったというのに。
アステルは現在、騎士団中央局に所属している。
中央局は、騎士団の中でも少し特殊な部署だ。
前線で戦うよりも、情報を集め、分析し、国や王族に関わる厄介な案件を処理することが多い。
諜報活動、情報分析、公文書の管理。
王族や国家に関わる事件への対応。
騎士団の中でも、特に頭を使う仕事を任される場所だった。
表立って戦うことは少ない。
けれど、中央局についてはこんな言葉まである。
――剣を抜かずとも、人を殺せる。
それだけの情報と権限を扱う部署なのだ。
(……騎士団中央局)
リュネットの中で、何かが引っかかった。
自分がシルヴァレン家を継ぐためには、実績が必要だ。
ただ伯爵家の娘というだけでは、女性である自分が家督を継ぐことは難しい。
誰にも文句を言わせないだけの功績を残さなければならない。
けれど今から騎士たちに混じり、武力で成果を上げるのは現実的ではない。
ーーただその代わり、王太子妃になるための教育なら、幼い頃から嫌というほど受けてきた。
人の言葉の裏を読むこと。
相手が何を望んでいるのかを考えること。
噂と事実を切り分けること。
多くの情報から必要なものを拾い、何が起きるのかを考えること。
そして、限られた情報の中で判断を下すこと。
一度目の人生では、すべて「王太子妃になるための勉強」だと思っていた。
けれど。
(もしかしたら、別の使い道があるんじゃない……?)
初めて、そう思った。
(前線は無理でも、頭を使う仕事なら私にもできるかもしれない)
騎士団中央局なら、これまで身につけてきたものを、役立てられる可能性がある。
そして、そこで実績を残せれば。
家督を継ぐための道にもつながるかもしれない。
(やってみたいわ)
胸の奥に、ほんの少しだけ熱が灯った。
一度目の人生では、与えられた道を歩くことしか考えていなかった。
けれど今度は違う。
自分で道を探せる。
自分で選べる。
そんなことを考えていた、その時だった。
「ラヴェーナ姫が、まもなく到着されます!」
近侍の声が、大広間に響いた。
それまで思い思いに話していた貴族たちが、一斉に入口へ顔を向ける。
広間の空気が変わった。
リュネットも、はっとして視線を上げる。
心臓が、少しだけ速くなる。
ついに彼女が来る。
一度目の人生で、すべての始まりとなった少女が。




