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4話 祈りの口付け

やってきたのは、この国の第一王子――アステルだった。

リュネットは、彼とほとんど話したことがない。


ただ、騎士団でも重要な立場にいる王子だ。

父が騎士団に勤めていることもあり、顔くらいは知っていた。


「僕は王太子だぞ! そしてラヴェーナは、王太子妃なんだ!」


エリオスが声を荒らげる。


「僕たちを陥れようとした奴らなんだ。こいつらはどう考えても黒だろう! 

だったら、囚人として多少手荒に扱ったって問題ない! 兄上は黙っていろ!」


「問題しかない」


アステルは、静かな声で言い切った。

怒鳴っているわけでもない。

けれど、その一言だけで牢の空気が変わった。


「王太子という立場を、自分の好き勝手をするための免罪符だと思うな」


「なっ……」


「そもそも、この件は騎士団の管轄だ。

お前が勝手に牢へ入り、取り調べ中の人間に接触すること自体が許されていない。そんなこともわからないのか?」


エリオスの顔が、みるみる赤くなっていく。

その横を通り過ぎたアステルは、リュネットの前で足を止めた。

そして何も言わず、自分が羽織っていたマントを外す。


ふわり。

暖かな布が、リュネットの傷だらけの身体を包んだ。


(……ああ)


朦朧とする頭でも、それだけはわかった。

この人は。

どうやら、自分を助けようとしてくれているらしい。


「王太子でもないお前が、僕に指図するな!!」


背後から、エリオスの怒声が響いた。

アステルは振り返る。

その金色の瞳には、隠そうともしない軽蔑が浮かんでいた。


「……思い通りにならなければ怒鳴り散らすのか」


「なんだと……?」


「お前は昔から何も変わらないな、エリオス」



アステルは冷たく言う。


「そんな子供じみた男が次の国王になると思うと、兄として恥ずかしいよ」


「黙れ!」


エリオスの声が裏返った。


「黙れ、黙れ、黙れ!! 妾の子のくせに――!」


続く侮辱の言葉を、最後まで言わせなかった。

獄中で、鈍い音が響く。


ーー次の瞬間。


エリオスの身体が宙を舞った。


「ぐっ――!」


そのまま顔面から床に叩きつけられる。

一瞬の出来事だった。


アステルが殴ったのだと、リュネットが理解した頃には、エリオスはすでに床の上で伸びていた。

ぴくりとも動かない。


「ひ、ひぃっ……!」


看守が情けない悲鳴を上げる。

アステルは片手を上げて、それを制した。


「騒ぐな。気絶しただけだ」


床に転がる弟を一瞥する。


「話の邪魔だったから黙らせた。じきに起きる」


まるで大したことでもないように言うと、アステルは再びリュネットへ向き直った。


「――さて。リュネット」


その声だけが、少し柔らかくなる。

アステルの手が、そっとリュネットの頬に触れた。


「……?」


その瞬間だった。

身体中を走っていた痛みが、すうっと遠のいていく。

消えたわけではない。


けれど、先ほどまで息をするだけでも苦しかった痛みが、不思議なくらい和らいでいた。


(この感じ……)



リュネットは、ぼんやりと思い出す。

大好きだった王城の中庭。

そこに祀られていた、聖剣のそばにいる時とよく似ている。


暖かくて、どこか懐かしい。

そんな感覚。


「捜査中だとは言ったが……」


アステルの声が落ちる。


「父上は、明日の朝にはシルヴァレン家の処刑を行うつもりだ」


リュネットは黙って彼を見る。


「おそらく、もう決定は覆らない」


一度、アステルは目を伏せた。

そして。


「君の父上も、母上も。そして君も――明日、処刑される」


「……そう、ですか」


驚かなかった。

泣くこともしなかった。

ただ、そうなのだと理解する他ないことを、リュネットはわかっていた。


「もう……どうにも、できないのですね……」


痛みが和らいだおかげで、なんとか声は出せる。

けれど、その言葉には何の感情も乗らなかった。

全部、終わった。

ただ、それだけだった。


ぼやける視界の向こうに、アステルの顔が見える。

ひどく苦しそうな顔だった。


(第一王子は、冷血な人だって聞いていたのに)


人の死にも眉ひとつ動かさない。

そんな噂ばかり聞いていた。

なのに。


(全然、違うじゃない)


こんな時なのに。

そんな、どうでもいいことが頭をよぎった。


「……すまない」


アステルが呟く。


「私は、君を助けられなかった。

ただ……これ以上、苦しませないことならできる」


アステルが懐から取り出したのは、小さな丸い薬だった。


「これを飲めば眠れる。痛みも苦しみも感じないまま、そのまま目を覚ますことはない」


「…………」


「明日の処刑を待つ必要もない」



差し出された薬を、リュネットはじっと見つめた。

死ぬことに変わりはない。


けれど、これを飲めばもう痛みは消える。

怖い思いもしなくていい。

少しだけ、心が揺れた。


けれど。


「……ありがとうございます」


リュネットは、小さく首を振った。


「でも、お父様とお母様を置いていくことはできません」


「リュネット」


「殺されるなら……皆一緒です」


アステルが何かを言いかけ、唇を閉じた。

しばらく迷ったあと、低い声で言う。


「……君一人なら」


「え?」


「君一人だけなら、ここから逃がしてやれるかもしれない」


リュネットは目を見開いた。

けれど、答えは決まっていた。


「いいえ」




「……」




「お父様とお母様が一緒でないなら、私はどこにも行きません」


アステルは、長い間何も言わなかった。

やがて、諦めたように小さく息を吐く。


「……そう言うと思っていたよ」


大きな手が、リュネットの頭を優しく撫でる。

壊れ物に触れるような、優しい手つきだった。

けれど。


(……震えてる)


アステルの手は、かすかに震えていた。


「……いつだって君は気高くて勇敢だ……それなのに……」


掠れた声が落ちる。


「結局、私は……また何の役にも立てなかった」


「……そんなこと、ありません」



焦燥した様子のアステルに、リュネットは、ほんの少しだけ笑った。


「私のことを心配してくださる方がいるなんて、思っていませんでしたから」


アステルの瞳が揺れる。


「だから、それだけで……嬉しいです」


「…………」


アステルは何も答えなかった。

ただ、ひどく苦しそうに目を細めた。

そして。


「来世では……」


リュネットの銀色の髪を、一房だけ手に取る。


その髪へ。

アステルは、そっと唇を落とした。


「君が誰よりも幸せになれるように」


それは、祈りのような口づけだった。


「長く生きて……笑って、天寿を全うできるように」


その言葉が、リュネットが一度目の人生で聞いた、最後の優しい言葉になった。











処刑は、翌朝。

夜明けとともに執行された。


薄い霧が立ちこめる処刑場に、三つの処刑台が並んでいる。


最初に連れていかれたのは、父だった。

手を縛られ、汚い服を着せられていても、いつもの気高い姿。

これから殺されるというのに、父は最後まで背筋を伸ばしていた。



騎士としての誇りを失わない。

いつもの父だった。


そして処刑台へ上がる直前。


父が振り返った。

その瞳は、しっかりとリュネットと母を捉える。

その顔に浮かんだのは、ほんの一瞬の、優しい笑顔だった。


(お父様……)


声は出せなかった。

続いて、母が連れていかれる。


母もまた、最後まで泣かなかった。

ただリュネットを見て、いつものように笑った。


「大丈夫よ」


そして。


「愛しているわ、リュネット」


それが、母の最後の言葉だった。


剣が振り下ろされる。

思っていたよりも、その音は短かった。

父と母が倒れる。



首のない身体が、そこにあった。



「…………」




リュネットは、それを金色のまっすぐな瞳で見ていた。

空はどこまでも淡い青色で。

鳥の声すら聞こえてきそうなほど、穏やかな朝だった。


それが、ひどく残酷に思えた。


(怖くない)


そう思おうとする。


(怖くない)


自分も、すぐに二人のところへ行けるのだから。

けれど。

視界の端に映る父と母の姿を見た瞬間。

全部が現実になった。


(……ごめんなさい)


守れなかった。

何もできなかった。


(お父様。お母様)


足が震える。

涙が頬を伝った。


(今、行きますから)


処刑人が剣を構える。

刃が朝日に照らされ、白く光り、勢いよく振り上げられる。


――その瞬間。


世界が、ふっと遠くなった。


音も光も痛みも。

全部が遠ざかっていく。


そして最後に浮かんだのはーー


大好きだった父の笑顔。

母の笑顔。

幸せだった日々。


それから――

エリオスの顔。


いくつもの記憶が、次々と浮かんでは消えていった。

そうして。


リュネット・シルヴァレンの一度目の人生は、終わった。


ここまで読んでくださりありがとうございます。

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