3話 血みどろの牢獄
一家全員が牢に入れられた。
その事実が、リュネットにはどうしても信じられなかった。
あの優しい父が、どんな理由があったとしても、戦いの場でもないところで人に剣を向けるはずがない。
ましてや、王太子妃の命を狙うなど。
絶対に、ありえない。
「これは何かの間違いです! 父がそんなことをするはずがありません!」
リュネットは鉄格子にすがりつき、声が枯れるまで叫び続けた。
「シルヴァレン家の忠誠をお疑いなのですか! エリオスを……エリオスを呼んでください!」
こんなふうに大声を上げたことなど、生まれてから一度もなかった。
喉はすぐに痛み、声もかすれていく。
それでも叫ぶしかなかった。
自分が何とかしなければ。
父も、母も、家族みんなが殺されてしまう。
「黙れ! この悪女が!」
見張りの兵が吐き捨てる。
「どうせお前が父親に吹き込んだんだろう。社交界でのお前の嫌われぶりは有名だぞ」
「ラヴェーナ様のことも、会うたびに睨みつけていたそうじゃないか」
そんなことをした覚えはない。
一度だって、ラヴェーナを傷つけようとしたことなどなかった。
けれど、そんな噂でも、一度広がってしまえば真実のように扱われる。
だからこそ思う。
父の罪だって、同じではないのか。
誰かが作った嘘を、本当だと思い込んでいるだけなのではないか。
そのとき。
カツ、カツ、と靴音が響いた。
暗い牢の奥に、燃えるような赤い髪が見える。
松明の明かりに照らされながら近づいてくるその姿を見て、リュネットはわずかな安堵を感じる。
「エリオス……」
助かった。
そう思った。
ーー思ってしまった。
「こんなところに囚われているんだね、リュネット」
リュネットはすぐにその場に跪いた。
もう元婚約者としての意地も、貴族令嬢としての誇りもどうでもよかった。
ただ家族を救いたかった。
「エリオス様。父のことは絶対に何かの間違いです」
「誰かに陥れられたに違いありません。調査は、本当に十分に行われたのでしょうか」
震える声で訴える。
「お願いです。もう一度だけ、調べていただけませんか」
カチャリ、と音がした。
牢の扉が開き、エリオスが中へ入ってくる。
暗くて、その表情はよく見えない。
それでも彼が自分のところまで来てくれた。
話を聞いてくれる。
そう思った、その瞬間だった。
突然、視界が真っ白になった。
何が起きたのか分からないまま、体が横へ吹き飛ぶ。
頭が硬い石壁にぶつかり、鈍い音がした。
遅れて、頬に焼けるような痛みが走る。
床に倒れたリュネットのこめかみから、温かい血が流れ落ちた。
「……え……?」
荒い息が聞こえる。
顔を上げると、そこにいたのはエリオスだった。
けれど。
リュネットの知っているエリオスではなかった。
「お前を……のさばらせておくんじゃなかった」
低い声が、牢の中に響く。
「賢い女だと思っていたのに。よくもラヴェーナを殺そうとしたな」
これまで一度も聞いたことのない声だった。
怒りを隠そうともしていない。
殴られた頬は熱を持ち、頭から流れた血が首筋を伝っていく。
それでもリュネットは痛みを気にしている余裕などなかった。
「ち、違います……」
「ラヴェーナ本人が証言したんだよ!」
エリオスが怒鳴る。
「お前の父親が、寝ているところを襲ったと!
彼女の証言以上に、何を信じろって言うんだ!!
もう少しで、子供を産めない体になるところだったんだぞ!」
エリオスの声は怒りで震えていた。
「僕のラヴェーナに触れただけでも許せない。それなのに命まで奪おうとしたなんて……」
そして、吐き捨てるように言った。
「お前の父親は、一番残酷な方法で殺してやる」
その言葉を聞いた瞬間。
リュネットの中から、自分の痛みなど消えた。
父が殺される。
それも、苦しめられて。
そんなことだけは、絶対に嫌だった。
リュネットはふらつきながら体を起こし、再びエリオスの前に跪く。
「どうか……」
血の混じった息を吐きながら、必死に頭を下げた。
「父が、そんなことをするはずがありません……」
「お願いです。もう一度、ラヴェーナ様にお話を……」
「ラヴェーナが嘘をついているって言うのか!?」
エリオスの顔が怒りに歪んだ。
「このクソ女が!」
再び頬を打たれた。
リュネットの体が床に倒れる。
それでもエリオスの怒りは収まらなかった。
腹に強い衝撃が走る。
一度。
二度。
何度も。
「や……っ……めて……!」
痛ましい悲鳴と、かすれた抵抗が、冷たい牢の中に響く。
息ができない。
腹の奥が焼けるように痛い。
もう何度蹴られているのかも分からなかった。
涙だけが止まらない。
痛いからなのか。
悲しいからなのか。
自分でも、もう分からなかった。
体は言うことをきかず、恥ずかしいほどに力を失っていく。
腹の中まで壊れてしまったような激痛が走り、声を出すことさえできなくなった。
それでもエリオスは止まらない。
ぼろぼろになったリュネットの服を掴み、そのまま乱暴に引き裂いた。
白い肌には、すでにいくつもの青紫の痕が浮かんでいた。
「お前のことも絶対に許さない」
エリオスは冷たく言った。
「どうせお前が、婚約破棄の腹いせに父親に泣きついたんだろう。
お前にも絶望を味わわせてやる」
そして、リュネットを見下ろす。
「この世に生まれてこなければよかったと、後悔させてやる」
リュネットは、ただ彼を見上げていた。
目の前にいる男が、十二年も愛してきた男と、本当に同じ人なのか分からなかった。
父を殺されたくない。
痛い。
怖い。
悔しい。
どうして誰も信じてくれないのか。
いくつもの感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、やがて何も考えられなくなっていく。
――絶望。
今の自分を表せる言葉は、それしかなかった。
「何をしている、エリオス」
そのとき。
牢の奥から、低い声が響いた。
エリオスが振り返る。
こちらへ歩いてきたのは、月明かりのような色の髪をさらりとなびかせた男だった。
女神と見間違うほど整った、中性的な顔立ち。
その体には、きっちりと軍服をまとっている。
「兄上。なんの用だ」
エリオスの声に、男は冷たい目を向けた。
「まだ捜査は終わっていない」
静かな声だった。
けれど、その場にいた誰もが口を閉ざすほどの強さがあった。
「牢に入れたとしても、罪人と同じ扱いをするなと言ったはずだ」
男の視線が、床に倒れているリュネットへ向く。
そして、ほんのわずかに表情が変わった。
「……それで、この有様はなんだ」
ーーやってきたのは、この国の第一王子。
アステルだった。




